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MBTI学んだら対人ストレスがほぼゼロになった話

「人間にもいろいろいるからさ」とはいうけどさ

私たちはおそらく無意識に、見た目が白人や黒人ならばきっといろいろ違うであろうことを前提に話すし、それが異性ならば多少は理解しあえないことを前提に話すでしょう。

同時に、その人たちが生み出したコンテンツに心を動かされたときなどには、「結局は同じ人間だなぁ」としみじみ感じたりもします。

一方で、人種も性別も世代も職種も同じだったりすると、特に意識せずに会話をはじめるものの、話しているうちに「なんかこの人とは噛み合わないな」ということが誰しもあるでしょう。そして、それが自身の蓄積した経験と紐づいていくことで、「やっぱり関西出身のやつは〇〇だ」「営業ってのはだいたい△△だ」「有名大学のやつほど仕事になると□□だよな」みたいになっていきます。

そういうのが邪であると感じた一部の意識の高い人々は、「人間にもいろいろいるからさ」と自身の器を拡げる努力をしているかもしれません。しかし実際には人間の脳はそこまで「いろいろ」な事を混沌状態のままでは蓄積できないので、どっかで必ずカテゴライズをしています。

私もやはり、上場企業の社長と対面したら多少緊張してしまいます。「上場企業の社長になってるぐらいだからきっと〇〇なんだろう」という私の脳のカテゴライズがしっかり機能しているという訳ですね。

「郷に入っては郷に従え」というのも、私からすると「郷に入ったら郷に従ってしまう」が正しい気がします。海外の広場でEDMが流れてきたらなんとなく身体が勝手に動いてしまうが、日本ではなかなかそうならないのも、私が日本という郷と海外という郷を「そういうもの」と捉えてしまってるからなんだろうな、とつくづく感じたりしました。

話を戻すと、私はずっとこの「人間にもいろいろいるからさ」というやつをどう解釈するか考えてきました。それは仕事上、組織設計や人事について考えることが多いという環境要因もあるし、もともと私個人が他者から「君って〇〇な人だよね」というあらゆる「〇〇」にしっくりこないことが多く、人間をカテゴライズすることの「無理さ」を感じていました。

だから人を分類するタイプ診断みたいなものは信用できなかったし、まして血液型トークとかは話を合わせつつも心底では「正気か!?」って思ってました。

ユングの「心の二律背反」は確かに存在する

ユングのタイプ論を起源とする性格診断MBTI®(Myers–Briggs Type Indicator)は、自然界の多くを構成する「二律背反」(光と闇、陸と海のように、互いが同時には存在しないもの)の概念が、人間の心の働きにも適用されるという前提のもと、次の4つの心の働きをそれぞれ二律背反で2の4乗=16通りの組合せに分類するというものです。

 ①エネルギーの方向性(外向"E" ↔ 内向"I")
 ②知覚のプロセス(感覚"S" ↔ 直観"N")
 ③判断のプロセス(思考"T" ↔ 感情"F")
 ④外界との接し方(判断"J" ↔ 知覚"P")

(MBTIの概要は過去記事を参照ください)
https://note.com/kohakuru/n/n6a2ac12da48a

MBTIの特徴は、あくまでその人にとって「自然と使いやすい心の働き(Driving Force)」をカテゴライズするのであって、その人そのものをカテゴライズする訳ではない、ということです。

このMBTIを学んだ後、仕事でもプライベートでも、自分や相手が物事をいまどっち(感覚か直観か)で知覚し、そこからどっち(思考か感情か)で判断しているか、みたいなことを考えながらコミュニケーションする癖がつきました。

相手側についてはまだ正式なベストフィットタイプを把握していないのでわかないにしても、何か意思疎通の齟齬が起きたときに、もしかしたら自分とはこの部分が違うタイプなのかなと仮説づけてみるだけでも、新しい発見があります。

例えば私には子供が2人いますが、「それぞれ違うなぁ、面白いなぁ」と浸って終わるのではなく、「それぞれ知覚と判断がこう違うのかぁ、だったらあのとき怒ったりしていたのはそのためか」と少しずつ科学的に解明できるようになってきます。

MBTIは対人ストレスの抜本解決の一助になる

私は「痛み止め薬」のような即席対処の方法を嫌います。時間がかかっても根っこから解決しないと人生という全体時間で見たらコスパ(タイパ?)が悪い(と感じてしまうのはこれも私のINTJらしい心の働き、なのかもしれませんが。)

私もまだ学びを初めて1年も経っていませんが、それでも、ある日「そういうことだったのか」という貫通を得てからは、結構、本当に対人ストレスが皆無になりつつあります(もともと悩んでいるという程ではなかったですが。)

私が理解できないのは「その人」ではない、その人が持っている「心の機能」の部分であったと。

しかしその理解できない機能は、自分には「まだ理解しにくい」だけで、これから育っていく機能でもあります。例えばINTJである私においては、感覚(S)をもって物事を知覚することがそれにあたります。内的世界、その中でも未来への想像から学びや感銘を得る私にとっては、五感で感じ取るものや、積上げた実績、足元で処理しなければならないこと、などはどうしても劣後してしまいます。劣後というより「よくわからない」という感じ?

しかし感覚(S)を主機能とするタイプから学びを得ることによって、私の感覚(S)機能もまた、自己相対的に早まって成熟できるようになると期待できます。少なくともそういうことから目を背けるよりは、余程。

「理解できないのは人そのものではなく人に内在する心の機能」という、この「罪を憎んで人を憎まず」的な思想体系は、応用するといろいろな方向に役立ちます。例えば人事やマネジメントも同様。私は人事評価にも携わってますが、「その人を評価する」のと「その人が雇用契約として与えられた役割への成果を評価する」のとでは全く以て意味が違うということです。このあたりはコハクル構想のもっと具現化レベルの話になってきますので、追々触れていきます。

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