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ドラえもんに育てられた良い子のみんなだった私

映画ドラえもん45周年記念として、昔の作品を含めて投票で上映作品が決まる、という企画を見つけてから、大山のぶ代さんのドラえもんがどうしても観たくなり、配信で見つけた昔のドラえもんの映画ばかり観ていた。
大山さんの訃報を知ったのはその最中だった。


大山のぶ代さんの著書「ぼく、ドラえもんでした。」によると、映画のアフレコは1日で撮るらしい。分けて撮ると声の調子が変わるのだそうだ。
確かに、ここ2週間ほど毎日映画を1本ずつ観てきたが、作品によってドラえもんの声が違う。
ちょっと幼かったり、低めだったり、そのことが、よりドラえもんを生身の命ある生き物のように思わせる。

久しぶりに声を聴いた時、なんとも言えない温かさに包まれた。
ああ、ドラえもん。
ずっといたんだ、ここにいたんだ。



私がドラえもんと一緒に時を過ごしていた頃(1980年代前半)は、今よりもずっと世の中は便利じゃなくて、何をするにも時間がかかって、待つことが多い時代だったように思う。

ドラえもんがポケットから出す道具の、四角いものならどんな電気製品でも取り込める「おこのみボックス」は、「テレビが観れる」「レコード(音楽)も聴ける」「カメラにもなる」なんて、今はスマホが実現してしまっている。
瞬時には無理でも、欲しいものは何でもすぐに届く時代にもなった。
あの頃は魔法みたいだった道具が、今は本当に使えるのだ。
それなのに、なにか寂しく、あの頃がどうしようもなく懐かしいのは、どうしてなんだろう。
道具はあるけど、ドラえもんがいない。
ポケットだけあってもだめなのだ。
一緒に遊ぶ、楽しいあの子がいなければ。


ドラえもんは友達のようでもあり、頼りになる大人ような存在でもあった。
子供達だけで海に行こうとしていても、のび太やジャイアン、スネ夫やしずかちゃんの母親たちが、「ドラちゃんが付いているなら安心」と言って送り出す。とても信頼されているのだ。
道具や歴史の説明なんかは饒舌で、とても頭のいい大人のような面もあるけれど、ママからはのび太共々よく怒られているし、パパがどら焼きを食べたと言ってわんわん泣くこともある。ネズミを見た時は部屋で銃を撃ちまくって、のび太がフォロー役に回るほどめちゃくちゃに壊れてしまうし、恋をすればハアハア息を切らしながら「ぼくは、あなたが大すきです。あなたは、ぼくのことすきですか。」なんてとてもストレートな告白をする。
ドラえもんの魅力は何といっても、この豊かな喜怒哀楽と、人間味あふれるところではないかと思う。
さらに言うと、ドラえもんには耳がないし、失敗もたくさんする。
この「欠けている」ということは、「完全じゃない」ということは、私たちがドラえもんを身近に感じ、こんなにも愛してしまう、最大の理由なのではないだろうか。


ビデオやDVDもなかった頃は、今よりも沢山のアニメが放映されていた。
アルプスの少女ハイジや小公女セーラ、フランダースの犬などの「世界名作劇場」やドラえもんからは、愛とは何かを沢山教えられた。
親や学校が全て教えきれなくても、大切な友情や倫理観などはアニメから学んだような気がする。
私がまだ小学校に入る前、母に付いて兄の授業参観に行った時のことを覚えている。授業参観が終わった後の親達と先生との懇談会で、テレビ番組についての話になった。「ドラえもんなどは、教育上いいアニメだから観せていいのでは」と、太鼓判を押されていたことを私はしっかり聴いていた。

子どもへの影響を考えた大山のぶ代さんが、「ドラえもんは子守り用ロボットとして作られたのだから、汚い言葉を使うはずがない」と言って、「オレ」を「ぼく」などに変えたり、敬語を使えるようにしたのは有名な話だ。
ジャイアンも「ぶっ殺す」のセリフを「のび太のくせに」などに言葉を変えた結果、親も安心して見せられるアニメとなったのだった。
おかげでドラえもんはいくら観ていても怒られなかったし、大晦日などには「大晦日だよドラえもんスペシャル」で、忙しい中子供が3時間近くテレビを観ておとなしくしていてくれるのだから、まさにドラえもんは子守りロボットとして現実に役割を果たしていた。


藤子・F・不二雄先生や大山のぶ代さんが、現役で大活躍されたのと同じ時に、子ども時代を過ごすことができた私は本当に幸せだったと思う。
アニメでも雑誌でもコマーシャルでも、本当にドラえもんはいつもそばにいてくれた。
私が少しずつ大きくなって、いつの間にかドラえもんよりも大切なものが増えていっても、他の友達と遊ぶ方が楽しくなっても、ドラえもんは、会おうと思えばいつでも会える場所にいた。


久しぶりのドラえもんの声は、なんだか子守唄みたいに心地よく、その日はとても安心して、いつもよりもぐっすり眠ったような気がする。
これからも、会いに行けばいつだって会えるのだ。
作品が残っているって本当に素晴らしいことだ。ドラえもんはずっと生きている。



藤子・F・不二雄先生が生きておられた間の映画では、先生の強い希望で、エンディングテーマの作詞は武田鉄矢さんが手掛けられている。
子供の頃は、映画の余韻に浸っているところに流れてくる、終わりの歌、というくらいにしか思っていなかったが、大人になってから聴くと泣いてしまう。

映画ドラえもん・のび太の宇宙小戦争
「少年期」
作詞:武田鉄矢
悲しい時には 町のはずれで
電信柱の明り見てた
七つの僕には 不思議だった
涙うかべて 見上げたら
虹のかけらが キラキラ光る
瞬きするたびに 形を変えて
夕闇にひとり 夢見るようで
しかられるまで たたずんでいた
ああ僕はどうして大人になるんだろう
ああ僕はいつごろ大人になるんだろう

もう戻らない時間。
子ども時代はあっという間に過ぎ去っていく。
ずっとずっと、明日もあさってもドラえもんと遊ぶつもりだったのに、私はいつ、その手を離したのだろうか。

私は、藤子・F・不二雄先生や大山のぶ代さんが、よい子になるようにと育てた沢山の子どもの中の一人だった。
私は、よい大人になれたのだろうか。

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