“はな”というけむくじゃらがあたしを救う
これを受け取れば、何かが変わると思った。
気づいた時にはなりたかったこの職業は、この薄っぺらい紙一枚で今日からあたしは『先生』と呼ばれる。
診察台の上にいる毛むくじゃらの生き物たちに、思っていた以上に愛情というものを抱かないことにあたしはびっくりして、憧れ、時間とお金をかけて手にした夢だった職業が一気に色あせたのを覚えている。
あたしの前で、けむくじゃらの生き物を家族だと、愛していると泣く飼い主に、神妙な顔をして答えるあたしの心に、共感という2文字はなかった。
それは、けむくじゃらの生き物と生活してこなかったあたしの、たぶん最大でかつ最悪の欠点だった。
命を握っている感覚も、命を助けたいという使命感もほぼ持ち合わせていなかったあたしは、この職業はむいていなかったんだといつのまにか思うことにした。
でも、簡単に捨てられなかったのは、今までかかったお金と周りの期待。
どんなに遅くなっても課金されないお給料。
どんなに疲れてても増えないお休み。
心は余裕を無くして、割りに合わない仕事に、あんなに輝いていたあたしの夢は、世界は、急にモノクロになった。
そんな時だった。
小さな小さな、それはぎゅっとしてしまったら消えてしまいそうな儚い存在があたしの前に現れた。
別にあたしの意思ではない。
院長が無理やりあたしに預けたその小さなか弱い命は、あたしの世界を一気に変えた。
最初はしょうがないという義務感。そして、院長に怒られたくないという恐怖。
正直めんどくさかった。
3時間おきのミルクに寝不足だし、出勤するのに荷物が多くなるし、汚れた足でそこらへんを歩く。
でも、いつのまにか毛むくじゃらの小さなそいつは、あたしの心に器用に、それはズカズカと遠慮なく入り込んできた。
里親のもとへ旅たつ日、出勤で賑わう改札の前で、人目も気にせずおいおいと泣くあたしを先輩が冷めた目でみていても、カゴの中から一回り大きくなったけむくじゃらのそいつが不思議そうにあたしを見つめていても、この涙は切なさは止められなかった。
そして、あたしはこれが愛だと知った。
あれから6年。
あたしはまだまだこの夢を見続けてる。
色んなことを経験して、色んなことを後悔して、色んなことに涙した。
いいことよりもつらいことのほうが多いけれど、理想とはまったく違う姿だけど、毛むくじゃらたちと毎日格闘している。
あの1年が、あのひと時がなかったら、あたしはどうなっていたのだろう。
今はもう『先生』と呼ばれても恥ずかしくない。
天職だなんてそんなカッコいいことは言えないけれど、続けてよかったと思ってる。
だから、辞めないでいてくれてありがとう、自分。
そして、教えてくれてありがとう、はな。