おのころ島を訪ねる旅
1. おのころ島とは何か?
おのころ島は、日本の国土して最初に出現した島である、と日本神話は語る。 「古事記」並びに「日本書紀」は日本最古の歴史書と云われるが、冒頭は神話で始まる。
それらの神話によれば、イザナギとイザナミのニ神が天界から国造りの命を受けて天の浮橋に立ち、支給された天のヌボコを用いて下界の流れ漂う海の中に差し入れ、かき回す。そして引き上げたときにヌボコの先から滴り落ちた塩が重なり積もって島になった。これが日本の国土として最初に出現した、おのころ島であると伝えられる。 「沼島」と書いて「ぬしま」と読む小さな島が、日本神話に登場するおのころ島であると云われていることを知ったのはいつだったか分からないが、それまで、日本神話に登場するおのころ島は淡路島の近辺にあったらしいという知見は持っていた。そしてその場所が現実味を帯びてくると、実際にそこへ足を運んでみたくなったのも自然の成り行きであった。おのころ島探索の旅はこうして始まった。ところが、すぐには見付からなかった。
2. まず、沼島へ行ってみた
沼島は淡路島の南部から5kmほど離れた周囲約10kmの小島で、地図で見ると勾玉のような形をしている。南あわじ市灘地区の海岸線に沿って走る南淡路水仙ラインを辿ると、土生(はぶ)港に近づくにつれて沼島が目と鼻の先に見えてくる。土生港から連絡船に乗り約10分の船旅を終えて沼島港に降り立つと、それまでいた淡路島とは違う、この島独特の爽やかな空気に包まれる。
人口は500人ほどで、民家は沼島港周辺に密集しているが、港の周辺には造船所もあり、海の守護神として弁財天が海の方角を向いて祀られている。古代天皇を祀る八幡神社もある。
少し奥に入ると豊かな山になる。最高地点は117.2mであるが、開けた所では海の展望が美しい。島をぐるりと巡る遊歩道が整備され、沼島全域に88ヶ所の石仏が点在しており、この島の人々の敬虔な信仰心が感じられる。
島にはおのころ山があっておのころ神社が鎮座する。
さて、最大の関心事はこの島が神話のおのころ島であるか否かということであるが、それを確かめる方法が果たしてあるのだろうか?
沼島港に沿って歩くと、おのころ神社への案内板があって、神体山に国生みの神、イザナギ、イザナミの二神が祀られていると書かれている。18世紀末に祠が建てられ、大正年間に神殿が完成、今世紀に入って拝殿と石段の修復工事が実施され、イザナギ、イザナミの二神石像も建立された。
神話はさらに続く。イザナギとイザナミのニ神はおのころ島に降臨し、天の御柱を立てた。そしてその柱の周囲を互いに左右逆方向に巡ってめぐり会った所でまぐわいして、日本国土の元になる島々を生んでいく。
沼島にはその天の御柱があるという。沼島港から漁港に沿って海岸沿いを少し歩いた後、上立神岩なる案内板に従って民家の密集した細い道を辿りながら島の中央部を横断して行く。小学校と中学校を過ぎると道は上りになり山間に入っていく。峠を過ぎると急な下りになりすぐに海が見えてくる。沼島港からは30分ほどで島の反対側へ着く。
海岸は絶壁になっていて岸へ降りることはできないが、高さ約30mの中央部が太く重厚で先端が尖った圧倒的な存在感のある立石が海中に屹立している姿を見ることができる。
沼島には、イザナギとイザナミのニ神がこの上立神岩の周囲を巡ったという話が伝わっている。また、島全体を天の御柱として島の周囲を回ったという話と、上立神岩と対になる下立神岩のニ柱を巡ったという別の伝承も同時に存在する。
古代の出来事のある部分は時の流れとともに伝説になり、さらに時が過ぎ行くといつしか神話となる。上立神岩と名付けられた巨岩は古代の出来事を記憶し、その証人として存在しているかのようだ。
古代神話は古事記等に記されているとうり、おとぎ話のように空想的である。それらの説話は意外にも、巨石にインプットされることがある。つまり、その土地に伝わる神話や伝説、古代史などの断片が、めったに移動することのない巨石に刷り込まれて後代に伝えられるのだ。従って、巨石を探訪することによってそれらの痕跡を辿ることができる、ともいえる。
3. おのころ島は一つではなかった
イザナギ・イザナミに関する神話伝説の舞台は、日本各地に広がっていて、おのころ島もいくつかあるようだ。
淡路島の洲本市市立図書館に行ってみると、おのころ島伝説に関する書物を数冊見出すことができた。やはり地元だけのことはある、と妙に感心した。それもそのはずで、沼島出身の人々がおのころ会という団体を結成して書物を発刊しているのだ。会の50周年記念誌「おのころ島物語」(平成3年発行)によると、まず、おのころ島の候補地として11箇所を挙げている。淡路島周辺では沼島を筆頭に飛島、友が島、家島、淡路島本島では絵島、先山、諭鶴羽山、三原町にあるおのころ島神社、そして淡路からは離れるが、京都の大文字山、大阪府の金剛山、琵琶湖に浮かぶ竹生島、と広範囲にわたっている。
いささか飛躍している印象があるが、別の文献、井津尾由二・著「国生みの島と海人」・おのころ会発行には、おのころ島の候補地として、
近江 竹生島
淡路島全島
播州 家島、鹿ノ瀬
淡路 絵島
淡路 先山
淡路 八太
淡路 イザナギ神宮
淡路 沼島
を挙げている。神話に戻ると、おのころ島に降臨して天の御柱を立てたイザナギ・イザナミ両神は、その柱の周囲を互いに巡ってめぐり会った所で国生みをするが、最初に産んだのが淡路州という。その文面から解釈すると、おのころ島と淡路島とは厳密には異なるが、本書では淡路島の各地域と沼島をおのころ島の比定地としてあげ、おのころ島は一つではないと言及している。
4. 淡路島を縦断する
淡路島は大阪湾、播磨灘、紀伊水道の海域に囲まれた温暖な島で、南北に約40km、東西に約20kmに広がっている。鉄道はないが、神戸淡路鳴門自動車道が縦断しており、本州と四国の高速道路に繫がっている。
さて、淡路島本島の主な場所を北から順に探訪してみよう。
5. おのころ島は絵島だった
絵島は淡路市岩屋の東北部に位置する砂岩から成る岩礁の一つで、本島の一部と言ってよいほど接近している。元は陸続きであったが、波の作用によって島となったものだ。その近くにはこれ以外に大和島とみなせ島があって、絵島を合わせた3島を「おのころ島」と云ったという伝承もある。
絵島は万葉の時代からその美しさが歌に読まれたとのことであるが、おのころ島伝承の点からも注目されたようで、国学者の本居宣長も絵島を見て「おのころ島はこれである--------」と言ったとしている。
おのころ島が各地に広がっているのは近世に入り、公卿や貴族の間に国学の研究が盛んになってからとされる。
6. イザナギ神宮は日本最古の聖地
次に、絵島を後にして南下し、淡路市多賀の伊弉諾神宮を参拝しよう。ここの旧地名は津名郡一宮町で、当神宮は淡路国一の宮、伊弉諾(いざなぎの)大神(おおかみ)、伊弉冉(いざなみの)大神(おおかみ)の二柱が祀られている。由緒の出典はやはり古事記・日本書紀で、国生みの事業を成し遂げられた伊弉諾大神が、天照大神に国家統治の仕事を委譲され、この地で余生を過ごされた、となっている。その住居跡が御陵となり、最古の聖地として建てられた社殿が当神宮の起源とされる。
宇治谷 孟・著「日本書紀(上下)全現代語訳」には
「伊弉諾尊は、神の仕事をすべて終られて、あの世に赴こうとしておられた。そこで幽宮(かくれみや)を淡路の地に造って、静かに永く隠れられた。また別にいう。伊弉諾尊はお仕事をもう終られ、徳も大きかった。そこで天に帰られてご報告され、日の少宮(わかみや)に留まりお住みになった。」
と記述されている。現地の説明版にも同じ内容のことが書いてある。
また、滋賀県犬上郡多賀町にある多賀大社にも伊邪那岐大神と伊邪那美大神の二柱が祀られている。ここの由緒は、伊邪那岐大神は東方の山に降臨された後この多賀にお鎮まりになったと伝える。古事記によると、伊邪那岐大神は「淡(おう)海(み)の多賀に坐(います)す」となっていて、三浦佑之訳・注釈「口語訳・古事記」の解説では「この淡(おう)海(み)は淡路の誤記かも知れない」と記してある。
国生み事業として日本列島を生成された神々が、その業務結果を検証するために各地を巡幸されたのかもしれない。その結果各地に祭祀されることになった。あるウェブサイトは、青森から鹿児島までの全国各地に200を超えてイザナギ・イザナミ神が祀られていると伝える。
淡路の伊弉諾神宮はその起源で、日本民族の大祖先神を祀る日本最古の神社と宣言している。
境内は整然と美しく整備されており、その一画に大変興味深いものを発見した。それは、大きな石碑とマウンドで構成された、「ひのわかみやと陽の道しるべ」と題する解説である。それによると、
「・・・・・・当神宮は・・・・・・伊弉諾尊の太陽神としての神格を称え、御子神である天照皇大御神の差昇る朝日の神格と対比する日之(ひの)少宮(わかみや)として、御父神の入り日(夕日)の神格を表現している・・・・・・・」
そして、天照大神を祀る伊勢神宮は当地と同緯度上(北緯34度27分23秒)の東方にあって、さらにその両宮を結ぶ中間点に最古の都「飛鳥宮藤原京」が栄都された、とある。
さらに解説文の横には「伊弉諾神宮を中心とした太陽の運行図」が展示されている。伊弉諾神宮と伊勢神宮とを結ぶ東西線の他に南北線が引かれ、北は但馬国一宮出石神社、南は諭鶴羽神社を通る。そして水平の東西線を基準として、夏至日の出と冬至日の入り方向を結ぶ半時計方向29度30分の線上には信濃諏訪大社及び高千穂神社が並び、冬至日の出と夏至日の入り方向を結ぶ時計方向28度30分の線上には熊野那智大社及び出雲大社、日御碕神社が並ぶ。これらの事実から、国生み伝承の淡路島が、神々の座す日本列島の中核の島である、と解いている。
ここで、この説の基幹をなす東西線に限定して検証してみよう。
北緯34度27分23秒の線は、地図を見ると、確かに伊勢神宮内宮の広大な境内を通過している。ところが、伊弉諾神宮の方は、国土地理院発行の2万5千分の一地形図によると、この北緯度線は伊弉諾神宮の南方約500mの位置を走っている。つまり境内を通過してはいないのだ。緯度にして約16秒の差がある。
じつは現在の地図表示の基準は世界測地系に切り替えられており、旧来の日本測地系との誤差は4~500mあるので、説明板のデータは古いものらしい。
ウィキペディアによると、
皇大神宮(伊勢神宮内宮)の北緯は、34度27分17秒、
伊弉諾神宮の北緯は、34度27分36秒、
となっている。このデータの差は19秒である。
筆者が伊弉諾神宮の拝殿の前で測定したデータは、34度27分35.7秒
と読めた。残念ながら伊勢神宮内宮では、樹木に遮られてGPSの電波が届かず測定不能であった。
広大な神宮境内の中心を、面積のない一点で代表させるとどこがふさわしいか、と考えるとそれは神殿の中心あるいはご神体の位置になるかと考えられるが、ウィキペディアの測定基準は不明である。
ここでは位置精度の細かい問題は除外しておこう。神社や神宮の敷地は点ではなく面積を持つからである。伊勢神宮内宮と伊弉諾神宮とは正確に東西線上に配置されていると見てよい。そして、この両神宮の位置が、何千年という時間を遡及する古代に、太陽の運行方向を代表する東西線を意識して決められたものだとすると、これは驚嘆に値する。
岐阜県下呂市金山町の岩屋岩陰遺跡が示すように、古代人は巨石を利用して太陽の運行を観測し、春分の日、秋分の日、夏至、冬至を割り出し、カレンダーを作成していた。これは作物を効率よく育てて収穫し、人間として生き延びるために必要なことだった、ということが判明している。
その自然の恵みをもたらしてくれる太陽を崇拝するのは自然の心情であったから、その拠り所となる日の出、日の入りを象徴する聖地の位置を決めるのに細心の注意を払ったのも当然の結果であったと考えられる。
境内の「太陽運行図」を見ていると、いかにもこの地が国土発祥の中心地であって、広い意味でのおのころ島ではなかろうかと思えてくる。
7. 先山がおのころ島
さらに淡路島を南下するとその南部よりのほぼ中央部、洲本市の近郊に先山がある。標高四四八メートルで淡路富士とも呼ばれ、林道を辿ると頂上近くの千光寺に着く。千光寺縁起によると、「この山は、天地開闢のはじめ、イザナギ、イザナミの二柱の神が、大八州のくにをつくられたとき、第一番に生まれでた山なので先山と名付けた」そうである。
千光寺に程近い山中に高さ約八メートルの巨岩があり岩戸神社となっているが、入口の簡素な鳥 居以外に社殿も何もなく、この巨岩が磐座として祀られている。
だが、西日に向かって屹立する磐座はその由緒を語ってはくれなかった。
8. おのころ島神社の天の浮橋
三原平野のほぼ中央部、南あわじ市榎列下(えなみしも)幡多(はだ)におのころ島神社がある。先述の文献に記述される八太というのは幡多の旧名である。由緒によれば、「当神社は、古代の御原入江の中にあって、イザナギ・イザナミの命の国生みの聖地と伝えられる丘にあり古くから、おのころ島と親しまれ、崇敬されてきた。」とのことである。この地の旧名は三原郡三原町と言った。今では海岸から4~5km離れているが古代には海岸線がすぐそばまで来ていたようだ。神社の周辺には葦原の国、天の浮橋そしてセキレイ石等が史跡としてあり、イザナギ、イザナミ国生み伝説の舞台がそろえてある。ところが、天の御柱が見当たらない。セキレイは、その鳥の動きをまねて二柱の神が国生みの行為を首尾よく行なったという神話のくだりに登場する。
天の浮橋は天空にあったことになっているが、それが地上にあるということは、神話の舞台装置を後代の人々が意図的に作って古代神話を伝承しようとした結果であろう。
9. 諭鶴羽山のおのころ
さらに南へ行ってみよう。
南あわじ市灘地区は淡路島の最南部であるが、そこに諭鶴羽山がある。標高608m、淡路島の最高峰である。沼島への連絡船の発着港から南淡路水仙ラインを約1.8km東進し、林道に入り高度を徐々に上げていく。やがて頂上近くの諭鶴羽神社に着く。この神社はイザナミの尊とその御子二柱の神を祀っている。熊野の花の窟と同様にイザナギの尊は祀られていない。生まれたての赤ん坊を切ったということで疎外されたのかと思えてくる。社伝によると、およそ二千年の昔イザナギ、イザナミの二柱の神が鶴の羽に乗り、高天原に遊んでいるところを狩人が矢を放った。羽に矢を負った鶴は東方の峰に飛んで隠れた。後を追った狩人は頂上にカヤの大木を見つけたが、その梢に光が現われ、「我はイザナギ、イザナミである。国家安全・五穀豊穣を守るためこの山に留まるなり。これよりは諭鶴羽権現と号す」と宣言した。狩人は前非を悔い弓矢を捨てて社殿を建て神体を勧請した、と伝承される。
10. 琵琶湖の聖地・竹生島がおのころ島だ
井津尾由二著「国生みの島と海人」は近江のおのころとして、比叡山延暦寺に伝わる国生み縁起を取り上げている。大雑把なあらすじは次のようである。
「釈尊がその教えを広めるため豊葦原の中つ国に空から来られ、白髭明神と名乗る釣の老人に出会った。老人は、この地は志賀の浦と申す、と告げた。そこへ薬師如来が忽然と現れ、自分は二万年の昔からこの地の地主神を兼務している。そしてこの地の山と湖を開き給えと進言し、薬師と釈尊の二仏が誓約をして東西に分かれた。」
この湖がどうも琵琶湖らしい。なるほどその北部には白髭神社が現存する。
同書を引用すると、
「琵琶湖の周辺には新羅の国から渡来して住み着き白髭明神を祖神とする集団があり、また別に南方から渡来してきた仏法を信じ、薬師如来を集団の祖と崇める部族が生活を営んでいたことを示すものであろう。」
とある。さらに、薬師の称名は「オンコロコロ・センダリマトウギ・ソワカ」といい、オンコロコロの響きの中に「おのころ」信仰との共通点を見出している。
だが、この章には竹生島は出て来ない。琵琶湖を代表する聖地が竹生島であることから、この島をおのころ島の候補地としたのだろうと推測される。
竹生島は琵琶湖の北部に位置し、周囲約二キロメートルの小島で、島全体が一枚の花崗岩から成る。周りの水深は百メートルほどあるというから、水が全くない状態を想像すると、高さ約百メートルの巨大な磐座が脳裏に浮かび上がって来て、身震いするほどである。
島は神仏混交の聖地とされ、都久夫須麻神社と宝厳寺が共存するが、イザナギ・イザナミ神を祀ったものではない。運良く神職さんに出会ったので尋ねてみたが、この島には直接的なオノコロ伝承はないようである。
しかしながら、井津尾由二氏(故人)がその著書において、近江のおのころを取り上げた理由は他にもあるようだ。
まず、著書にはないが、近江高天原説なるものがある。これを要約すると、
1. 高天原は天界ではなく、地上の近江にあった。
2. 国家の建設がイザナギ・イザナミ二尊の時代に行なわれた。そして歴史はその時から始まった。
3.地上の高天原は皇都の所在地であり、天界の高天原が投影されたものである。
4. 近江には、高天原神話に出て来る神名に因む地名として彦根や三上山があり、天安河と同音の野洲川がある。 他にも神代と現代とに符号あるいは類似する地名が多い。
5. イザナギの尊を祀る多賀神社がある。
特異な考えとして、天界と地上の双方に高天原があって、地上にあるものは天界のコピーだという。これは大本教の出口王仁三郎の思想と共通しており、興味深い。再び著書にもどる。
7世紀には天智天皇が近江王朝を営んでいた。この時代に起きた壬申の乱(672年)で勝利した後の天武天皇は、日本の皇祖神を天照皇太神とし、近江王朝が崇拝していたイザナギ・イザナミ二神を淡路島へ還した。この意味するところは、天照皇太神とイザナギの神は、壬申の乱を契機として天皇の祖神の地位を交代する、と述べている。天武朝は天智近江王朝を破壊するのであるが、壬申の乱の敵対分子の中で比較的罪状の軽い人々を淡路島へ島流しにし、同時に近江朝が崇拝するイザナギ・イザナミ二神に「邪」の字を付けて淡路島に還した、とある。著書は記紀を参照したと思われるが、現代語訳日本書紀の天武天皇の章には、死罪の重罪人以外は流罪あるいは恩赦としたが、流罪先は書いてない。
この事件の後、淡路島は貴人配流の国となっていく。
現代に戻って再び伊弉諾神宮の太陽運行図を眺めてみると、その説明のとおり、伊勢神宮の天照大神は朝日の象徴、淡路の伊弉諾神宮は夕日即ち落日の象徴として見てみると、壬申の乱の後、流罪人たちに伴ってその信奉する神が滋賀の多賀から淡路の多賀へ左遷させられた、という表現が理解できなくはない。
夕日は巡って翌日の朝日となる。すなわち夕日の象徴である伊弉諾の神は、朝日の象徴としての天照大神を生んだのである。
伊勢神宮と伊弉諾神宮とを結ぶ東西線と非常に接近して、太陽の道と呼ばれる東西線があることが知られている。それは北緯34度32分であってその線上には奈良県桜井市にある箸墓古墳を中心として東は伊勢の斎宮跡、西は淡路島の伊勢久留麻神社その他の神社仏閣が整列しているという。研究者たちは古代王朝の政治的効果を狙って策定されたと考えているようだ。だが、斎宮歴史博物館の学芸員によると、ここの発掘作業がまだ16%しか進んでいない状態では、この場所が選定された理由等については何も言及できない、と慎重な姿勢をとっている。
ともあれ、太陽の運行が、人間の生活にとって非常に重要なウェイトを占めていることが古代から認識されていた。このことは、あらためて、驚嘆に値する。
11.おのころ島は宗像沖ノ島という説もある
髙橋通・著「高天原と日本の源流」では、工学者の目線で古事記や日本書紀、さらには魏志倭人伝等の文献を読み込み、神話のストーリーから垣間見える史実をくみ取って論理的に解釈し、神話から歴史を誘導する試みを展開している。
対馬が国内の古文書に初めて登場するのは「古事記」の国生み神話である。イザナギ、イザナミの二神によって、おのころ島をはじめ淡路島、四国、九州、本州、伊伎島(壱岐島)そして対馬が生まれた、とされる。さらに二神が帰る途次に六つの小島を生む。だが、どこへ帰るのかの記述はない。通説では、六島は西日本各地の小島、とされるようだ。
同書は、古事記の島生みの過程の記述をとくに地名から検討している。六島は次々と帰る方向を指し示してまとまっているとし、その帰る先は最初に産んだおのころ島であると推論して、六島を検討・検証した結果、おのころ島は宗像沖ノ島であると導いた。
12. おのころ島はいったい何処にあるのか?
これまでおのころ島を探す旅を重ねてきた。現実世界の中に神話が投影された場所を訪ね歩いてみた訳であるが、はたして目的の島を発見できたのだろうか。
神話は現実世界の古代の出来事を反映した結果生まれたものであると思われるが、現実には、一本の棒の先に付いた海水のしずくが滴り落ちて島になることはない。陸地がまだ出来てもいない所に天の浮橋という橋が架かっているはずがない。しかしながら、古代神話は現実離れした分だけ余計に、我々の感性をストレートにくすぐるのかもしれない。だからこそ現代に至るまで、多くの神話が語り継がれてきた。
おのころ島を探す旅に終わりはない、ような気がする。つまり、どこまで探しに行っても、神話のいうとおりのおのころ島は現実には存在しないのだ。そろそろ、古代神話と現実世界との折り合いをつけねばならぬようだ。
寺林峻・著「(ひょうごの神々を追う)・天の浮橋」の中に、淡路島の神職の方が語ったこととして、
「天の浮橋というのは船のことで、アジアの先進地の人々が海を渡って福良から上陸して国土を開拓していったのがイザナギ・イザナミの神話となったのでしょう」
とある。さらにイザナギ・イザナミの両神はこの世に実在した人類の祖であったと見ている。似たような話は熊野にもある。
ここで参考にした文献の記述やその他資料を総合して検討すると、最も大切な点は、多くの他民族が大陸や外洋から絶えることなく日本列島に流入していて、彼らの存在が日本国家の成立に少なからず影響を与えたということである。日本に辿りついた人々はその地に定着して隼人や熊襲あるいは出雲族となってそれぞれの国を造った。それらの中で、最も古く、最初に日本の淡路島周辺の小さな島に渡来したのがイザナギの神を信仰する人々、つまり「しおこおろこおろ」の神話を持つ海人族であった、と説明している。
日本列島の中で最初にできた島とは、最初に人間が住み着いた所であるという現実的な解釈である。 海の彼方からはるばる日本列島に辿りついた海人族が最初に上陸した地点がおのころ島であるということになる。その伝承はやはり淡路島周辺に強く残っているようである。海人族とは縄文から弥生時代にかけて南方からやってきた渡来人とされるが、日本列島には海外からやって来た民族は無論他にもある。先述のように、琵琶湖の周辺には朝鮮半島の新羅国から渡来して住み着いた集団があったとされる。また、伊弉諾神宮を中心とする南北線上にある但馬国一宮出石神社の祭神は新羅の王子だったと伝えられる。日本の国は多民族国家なのだった。
果たしておのころ島はどこにあるのか? 我々日本人の遠い祖先が最初に生活を営み始めた場所はどこか?
人間のDNAに心があるとするならば、おのころ島は、私たちのそれぞれのDNAの奥深くにあるのかもしれない。
参考文献
井津尾由二・著「国生みの島と海人」・おのころ会・発行
前川正夫・編集「おのころ島物語」・おのころ会事務局・発行
岡本稔・著「淡路の神話と海人族」・Books成錦堂・発行
寺林峻・著「ひょうごの神々を追う・天の浮橋」・神戸新聞出版センター
三浦佑之・著「口語訳・古事記」・(株)文藝春秋
宇治谷 孟・著「日本書紀(上下)全現代語訳」・(株)講談社
出雲井晶・著「誰も教えてくれなかった日本神話」・(株)講談社
髙橋通・著「高天原と日本の源流」・(株)原書房