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自身という引用の織物について。
10年以上もTwitterをみていると、気付けることがある。
(当然といえば当然だが)自分と思想がぴったりと合うような「著名人」はなかなかいないもので、タイムラインやリスト、あるいはおすすめ欄に表示される「著名人」たちは、正しく感じられることを言っているときもあり、また、間違ったことを言っているときもある。
この「間違い」や「正しい」は普遍的・客観的事実ではなく、あくまで観測者の主観に基づくものだ。
元来影響されやすい質である。
幼い頃は友人がテニスを習っていると言えば自分もテニスを習い、兄が中学受験をすると言えば自分も中学受験をした、そんな人間だ。(なんかボンボンみたいで嫌ですね。親には感謝です)
三つ子の魂百まで、というように、成人して時間が経ってもまだ影響されやすい質は残ったままである。
それでも、同じ場所・Twitterに留まって観測を続けていると、徐々に客観的な(あるいはそれに近い)視点を手にできるようになるもので、ひとの心の移ろうさまや、おなじひとでも一貫性のないようすを目にすることになる。
それ自体は悪いことではない。
同じ「人間」だって、歳を重ねるごとに、あらゆる他者に晒されて変遷を遂げていく。(なんなら細胞単位で考えれば、自己同一性を保てることが不思議なくらいに、たかだか数年でまるっきり入れ替わってしまう)
だからあくまで、それまで生きてきた「文脈」のなかで、選び取ってきたものを真としているのがその人間である、という認識を私はしている。
結局のところ、自分に近い思想をもっているのは(同一な思想をもっているのは)自分しかいない。
ロラン・バルトは、「テクストは引用の織物」だと言ったが、この「テクスト」はかなり広く拡張しても成立するだろう。われわれが社会的存在である以上、他者の存在を無視することはできない。否が応でも引用せざるを得ないだろう。
Twitterには多種多様な意見が飛び交う。
いや、果たして多種多様だろうか? 目にするのはアルゴリズムによって選び出された過激な意見や、自分の思想に近しいものが強い言葉で記されたものばかりではないだろうか?
果たしてそれは、あなたの意見だろうか?
織物にする引用元が、偏ってはいないだろうか?
あなたの思う正しさの、その根源にあるものはいったい何だ?
学ぶべきは思想を同じくする人間の言葉ではない。
むしろ思想を逆にする人間の言葉や、歴史として記述された言葉たちである。
話が逸れてしまった。
他者の意見を目にしたとき、「正しい」あるいは「間違っている」と感じられるのは、それ相応の意見が己の中にあるからだろう。
ならばそれを言語化ないし何らかの方法で、輪郭を見極めるべきである。
そのことは、他者をどのように見るかという行為そのものや、「自分は他者をどのように見ているか」という客観視にそのまま役立てることができる。
誰かと会話していて、TVを見ていて、インターネットに触れていて、「ピリッ」と感じた、「正しい」と感じた、「それは多いに間違っている」と感じたら。
ぜひともその感情の輪郭を見極めてほしい。
きっとあなたという織物を成す糸が見えてくるはずだから。