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「原っぱ」と「遊園地」と「その間もしくは先」

こんにちは、こーだいです。
建築業界で根強い人気があり、重要な書籍の一つ「原っぱと遊園地」。ぼくも影響を受けた考え方で、修了制作の時にも意識をしてました。出版が2004年なので、2020年現在で既に16年も経ってのは結構な驚きです。

そんな「原っぱと遊園地」について、ここ最近、素直な感覚で違和感を感じられるようになりました。今日はその感覚と思考したことについてです。

きっかけ

違和感を覚えたのにはきっかけのエピソードがあります。

先日、「原っぱと遊園地」という二項対立について、建築業界ではない人に向けて話す機会がありました。会話の文脈としては、リアルとデジタルでの体験の違いについて、「リアルの体験=原っぱ的」で「デジタルの体験=遊園地的」だよね!といった感じです。

が、、、、伝わらない。。。
まったく伝わらない。

会話相手は頭の切れる人達で、決して理解力が低いわけでもないし、この対立構図における、「原っぱ」とはどういう意味で「遊園地」とはどういう意味か。も説明したけど伝わらない。

いろいろと話をする中でわかってきたことは、2020年現在、みんなが「原っぱ」と「遊園地」それぞれの単語から想起するイメージは、16年前から、ずいぶんと変わってきているじゃないか?ということです。

「原っぱと遊園地」における「原っぱ」と「遊園地」

書籍において「原っぱ」と「遊園地」それぞれの言葉が何を意味しているかを超簡単に振り返ってみると

原っぱ=そこで何をしてもいい自由な空間
遊園地=そこで何をするかあらかじめ決められている空間

のようになると思います。そして、空間と行為は対等であるが故に、原っぱのような建築が理想的だとされています。

「原っぱ」では何もできない

さて、この意味が伝わらなかった会話の話に戻ります。まず「原っぱ」に対して突きつけられたのは、「きっかけが少なければ、むしろできることが少なくない?」ということ。行為を生み出すための手がかりが、土管程度では不十分だよねって話です。

これに対し「創造力(または想像力)って必要じゃん!」みたいに反論したくなったのですが、グッと堪えてます。今の世の中がどう感じているか?を素直にみる視点も大事だと思ったからです。

現代の社会には、様々なサービスやモノがあふれて、何かしたいと思った時に、それを実現できる場は、ほぼ100%どこかに存在します。0から何かを創りたい!という為の場すらある。そして、何をするかを考えるきっかけについても、現物の場や物である必要もありません。

「遊園地」にだって選択性はある

次に「遊園地」について突きつけられたのは「遊園地でも人それぞれやることは違うし、自分のやりたいを選択してるよ」ってことです。ジェットコースターとして作られた環境では、ジェットコースター以外の楽しみ方はできないけれど、ジェットコースターの楽しみ方は人それぞれ違うよね?ということ。行為が同じでも楽しみ方はそれぞれ違うという話です。

もちろん、楽しみ方の可能性が無限に広がっているわけではないけれど、そこに可能性が少ししかないと断定してしまうのは、もしかすると、体験する側の感度が薄いってことなのかもしれません。

別に新しい視点ではないないよ。という補足

「原っぱ」と「遊園地」それぞれに対する現代的な違和感を挙げましたが、これは別に新しいことでもなく、過去に何度も取り上げられていることです。ただ、あまり深掘りはしきれなかった感じがしています。

「原っぱ」と「遊園地」のその先=「オープンワールド」

今まで、「原っぱ」と「遊園地」についての議論を読む度に、二項対立から抜け出した解について、個人的に考えてはいたものの、どうしても「間」という言葉以外で表現ができず、モヤモヤとした気持ちが残っていました。が。
今回の経験を機に、ある概念に出会えました。それが「オープンワールド」

「オープンワールド」は、ゲームジャンルの一つで、キャラクターを自由に動かすことのできるゲームの形式をさします。細かく説明すると、ものすごく長くなってしまうので、オープンワールドの変遷や内容について、以下の記事を読んでみてください。

ゲームは、娯楽として捉えられることが多く、クリエイティブとして語られることは少ないかもしれませんが、とてもクリエイティブな存在だと思っています。実際に「DEATH STRANDING」という「オープンワールド」形式のゲームは、映画監督の押井守が絶賛し「映画を辞めようと思った」と言わせるほどです。

「オープンワールド」の特徴と可能性

記事の内容を咀嚼し、その特徴をいくつか書き出してみます。

・魅力的な世界が存在する
・世界観が行為の動機を作っている
・世界には余白が存在し、行動に対して無数の選択性が担保されている
・世界は自分の行動に反応し、世界と自分との間に対話が起きる
・楽しみ方の選択肢が利用者側ある
・世界には余白がある

このような、強固な世界観を持ちつつも余白のある場は「原っぱ」と「遊園地」どちらとも言い切りずらい特性で、二項対立に対する、新たな視点に思えます。このようなオープンワールド的な特性を、空間デザインに持ち込むことを考えてみると、新しい領域を切り開ていけそうな気がしています。

例えば、東京では絶対に外食は室内なのにパリにいくと屋外でコーヒーを飲みたくなるように、空間には人の能力を刺激して、行為を引き出すことのできる力があると思いますが、「世界観」は行為を後押ししてくれる空間を考える上で重要な視点かもしれません。

例えば、オープンワールド的な空間が、自由にエントリーすることが担保された状態で都市の中に広がり、自分の好きな場で遊び、所属し、飽きてしまったら移動し、同時にいくつ所属することできる姿を想像してみると、分人主義や多様性社会と親和性のある公共の形が浮かび上がるかもしれません。

オープンワールドのデザインは、過去の幾多のトライの中で多くのノウハウや考え方が蓄積されており、例えば、「あつ森」の記事からは抽象と具象のバランスについて、「スプラトゥーン」の記事からは世界観について、学ぶことができます。

これから

新たな視点を持つことは、クリエイターにとって重要なことだけど、結局は、どう捉え、どう活用するか?建築家であれば、物理的な形を通じて、都市や建築の魅力につなげていくか?こそが何よりも大事だと思っていますう。視点の発見で終わらず、創ることまで繋げていきたいと思います。

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宮下巧大
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