日蓮宗と創価学会

創価学会は日蓮宗系ですが、日蓮宗からは破門されています。

日蓮宗とか浄土宗というのは、始まりからして厄介です。日蓮宗は「妙法蓮華経」と唱えなさい、浄土宗や浄土真宗は「南無阿弥陀仏」と唱えなさい、そうすれば浄土に生まれ変わるというのです。

何度か触れましたが、こういうのはブッダの教えとはまったく無関係です。ブッダは「理法を拠り所とし、己を拠り所にせよ」と言いました。そもそもブッダの時代、法蓮華経という経典も無かったし阿弥陀仏も存在していません。阿弥陀仏というのは「アミターユス・ブッダ」ですが、完全に後世の想像の産物です。

要するにこれらは偽物です。今日本の寺で妙法蓮華経とか南無阿弥陀仏とか唱える寺は数ありますが、実はあれは全部偽物です。

では偽物なら単に放り捨てれば良いのか?

そうじゃないから面倒なんです。日蓮や信頼が生きた時代は、惨憺たる時代でした。戦乱、飢饉、政治不在。人々はともかく救いを求めたのです。日蓮や親鸞は、「お救いを、お救いを」とせがむ民衆に目の当たり対面しました。民衆は現実に絶望し、ただただ仏教に救いを求めていました。救いを求める群衆に対し、日蓮も親鸞も本来のブッダの教えはかなぐり捨てるしか無かったのです。この世の理法を理解しなさい、己によって立ちなさいといても、全てが絶望的だった民衆には届きません。日蓮も親鸞も、ブッダの言葉をしらなったわけでは無いのですが、かなぐり捨てたんです。

妙法蓮華経と唱えなさい、南無阿弥陀仏と唱えなさい、そうすれば救われるから。

塗炭の苦しみに喘ぐ民衆に対してこう言ったのは、ブッダの教えとはまったく反していますが、実は深い深いところで繋がっています。ブッダは悟りを開いた時、「この悟りは人々には分からない。私は沈黙しよう」と考えたのですが、神が懇請して教えを説いたと言います。神ってのはお話です。実際には悟った人(ブッダ)が現れた時、民の長が懇請したのでしょう。教えを説いてください、民を救ってくださいと。

その時のブッダの心境の変化を限りなく一方的に普遍すると、日蓮や親鸞になります。民を救うんだという事です。

その教えは本来のブッダの教えでは無いが、ブッダ自身がそういう態度を取ったことに由来するが所以に、歴史的にずっと面倒なことになっています・・・未だに。

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