毒親ではないけれど　〈1〉

アキは窓を開けた。
ふわりと春が芽吹く前の香りが入り込む。
あの時と一緒だな…
看護学校を卒業してこの家に引っ越してきた日、ガランとした部屋を見ながらアキは思い切りベッドにダイブしたときに感じた香り。
「あぁ……自由だ……！」
何から自由になったのか、そのときは分からなかった。
だが、心の底から湧き上がる解放感に安心したような心地がしたのだった。

失敗が怖い

「どうしてそんなこと言ったの？もうやめてよ、恥ずかしい」
美容室から帰ってきた母親の一言にアキの背筋はヒヤリとした。

――そうか、あれは言っちゃダメだったんだ。

アキが高校生のとき、母のサヤコが通っている美容室で髪を切ってもらったことがあった。
明るい美容師さんにつられて
「この前、母に怒られたんですけど鬼の形相でｗ」
「えぇ～いつも穏やかなのにね、意外ｗ」
話題を提供しただけのつもりだった。だが
「今日、いきなり美容師さんに『娘さんにあんまり怒っちゃダメよ～』って店内に響き渡る声で言われたの！もう恥ずかしいったらない……！」

ただの世間話なのに……と、心の中で自分をかばった。
だが、アキの心を瞬時に覆いつくす罪悪感には勝てなかった。
まるで、全世界に裏の顔が知れ渡ったような絶望感を抱いているサヤコに、
「やっちゃった……」という強烈な心苦しさを抱く。
脳内メモに『サヤコのマイナスイメージは些細なことでも他人には話してはいけない』サッと書き込む。
メモには、これまで踏んでしまった地雷源がリストアップされている。
詳しい記憶などないくせに、心臓に冷たいものを突き付けられた感覚だけ鮮明によみがえる厄介なメモ。
サヤコの独特の地雷に注意して歩く毎日は、まるで綱渡りのよう。
サヤコを誉め、ご機嫌でいてもらうことがアキにできる最善の自分を守る方法だったのだ。

『サヤコ』という人

『サヤコ』は承認欲求が強い人だったのではないかとアキは思っている。
サヤコはアキをめったに褒めなかった。
アキが中学生の時、ドヤァッと100点のテストを見せた。
「おぉ～ご苦労様、また頑張ってね！」
さらりとサヤコは言った。
それだけだった。
え、お母さん、私、夜中まで勉強したんだよ、100点はクラスで1人だけだったんだよ……
言えばいいのに言えない。
聞いてほしいと表情でアピールしたつもりだったが、サヤコに届くことはなかった。
それなのにサヤコは
「アキ！ゆうちゃんのお母さんに、いつも成績優秀者の欄に名前が載っていてすごいですねって言われちゃった～♡まぁねって言っておいたよ！ほんと、アキの成績表が唯一の癒しだわ」

嬉しそうなサヤコに複雑な思いを抱いた。
がんばりを誉めてもらっていたなら、自慢でもなんでもしていいと思ったかもしれない。
でもサヤコは『自分の』娘が100点を取ったことに喜びを感じているんだな。
それ以降、アキは答案用紙をサヤコに見せなくなった。
どうせ学校から手紙が行くし、お母さんは点数にしか興味ないんだから。

もう一つやめてほしかったこと。
姉と弟に「唯一の癒し」と聞かれた事実の方が気になってアキは仕方がなかった。

勉強が好きではなかった姉と弟。
隠してはいたが、アキの成績が2人を追い詰めている節があった。
事実2人の顔は穏やかじゃない。

―――サヤコはどうしてこんなに無神経なんだろう。

サヤコのおかげで、周囲の人の感情を悟るスキルは無駄に研ぎ澄まされ、アキは察しのいい子になっていった。

同時にアキは、意図しないところで誰かを傷つけている恐怖を知った。
あの言い方まずかったかな。
そう思うとアキは不安で寝られなかった。

アキの夕食時の日課は、サヤコの1日を聞くことだった。
姉弟は上手にかわすので、サヤコの話を聞くのはいつもアキの役割。

――私くらいサヤコの話し相手になってあげないとかわいそうだよね。

好んで聞いていたわけではないが、なぜか使命感があった。
サヤコの愚痴は、狭い人間関係の中での不満や近所のお兄ちゃんが大学に落ちた話。パート先であった嫌なことなど。そして、サヤコは何度となく同じ話をした。
「お母さん、それ前も言ってたよね」
他愛のない一言に、サヤコの顔色はさっと変化した。
「私、忘れちゃってた……？」

―――私を傷つけたことにはまるで気づかないのに、自分の感情は繊細に扱
うんだね。

サヤコの反応を皮肉に思ってしまう。
だけど、申し訳なさも感じる。言っちゃダメだった言葉か、と。
それ以来アキは、サヤコの話には必ず初めて聞いたようなリアクションを取るようにした。
誰にも気づかれないアキの努力により、サヤコは毎日楽しそうに話す。
あの時アキは心の中の本当の思いに気づいていなかった。
「ねぇ、お母さん、私の話も聞いて」
と思っていたことに。

もし、言っていたならどうなっていたかなとアキは考える。
伝えたところでサヤコは変わらないよ、人の話題をかっさらう達人だから
もう一人の脳内アキが答えた気がした。

母親との思い出

アキの祖母であるサヤコの母親は、アキが5歳頃に病気で亡くなった。
アキにとっては優しいおばあちゃん。でもサヤコには尊敬と畏怖の対象だったみたい。
「おばあちゃんはとてもしっかりした人だったのよ、私はよく怒られていたけれど、おばあちゃんから見たら仕方ないのかなぁって思うんだ。だってあんなに完璧な人いないもの」
サヤコに反感を持っている自分とは違って、『母親』を好意的に受け止められるのはなぜなんだろう、とアキは疑問を感じていた。

「昔、おばあちゃんと海で海藻ひろってさぁ～」
ある日の夕食、サヤコは楽しそうに祖母との思い出を語った。
「へぇ」と笑いながら相槌をうち、アキも幼いころのサヤコとの思い出を思い浮かべようとした。

―――楽しかった思い出？あったっけ？

アキは食べる手を止めていた。
おかしいくらい覚えがない。
サヤコとくだらないことで笑った記憶とか一緒に遠出した思い出とかさぁ！
何かあるでしょ、自分！
アキは動揺を悟られまいとした。
どれほど集中しても、サヤコに鋭く注意されて驚いたこと悲しかったこと、大声がただ恐怖だったことしか映像がでてこなかった。
おかしい、変だよ。
抱きしめられてたことや、好きだと言われた記憶がまるでない事実にアキは戸惑った。

―――楽しい思い出の一つくらいあるよ……きっと私が忘れちゃっただけ……
お父さんが遊んでくれた思い出なら思い出せるのにな……

サヤコとアキの認識の差

「お母さんは愛情をもって私たちを育ててくれたとは思うんだ」
大人になって姉と話したことがあった。
姉は思春期に懸命に反抗したタイプで、サヤコや父から将来への不安を押し付けられては、私に泣きながら愚痴っていた。
姉もまた、影がある人だった。

「分かりやすく大好きだよって一言でも言ってもらったら、もうちょっと私たちって歪まずに大きくなれたんじゃないかと思う」
姉はポツリと
「歪んでるよね～」
と、苦しそうに笑っただけだった。
きちんと長女の役割を果たしている姉。その胸中にはうかがい知れない何かがあるんだなぁと感じたものだった。

サヤコは料理が得意だった。
蒸しパンを大量に作ってくれたり、パンの耳を揚げたお菓子を作ってくれた覚えがある。
誕生日はいつも手作りのケーキや料理でテーブルがいっぱいだった。
サヤコのごはんは色とりどりでいろんな工夫があったにも関わらず、いい思い出にカテゴライズされていない。
だって、サヤコが料理に集中しているときは
「触らないで！台所に来ちゃだめ！」
と、注意しかされなかったから。
ずっと料理を作っているとサヤコはイライラし始める。
その雰囲気を察してアキは苦しくなった。
別の部屋に逃げると
「アキは手伝いもしない」
と言われた。アキは料理の手伝いから外れがちとなり、後片付け要員になっていった。今でも料理が下手なのはサヤコのせいだ、と勝手に理由を押し付けている。

アキがサヤコの感情に振り回されていることに父は気づかなかった。
そしてアキもまた父に言わなかった。
良くも悪くもサヤコが中心の家で、逆らってはいけない存在。
そんなこと、あるわけないのに。

自分の意見を言わない影響

サヤコは、子どものアキから見ても夫である父が大好きだった。
父の意向がサヤコのすべて。
アキ達が父に異論を唱えても、サヤコが子どもたちをかばって一緒に戦ってくれることは一度もなかった。
その一方で、父親の愚痴をこっそりこぼすサヤコにアキは不快さとともに恐れを感じた。

―――こうやって私の悪口も姉や弟に言ってるんだろうな……

サヤコの怒り方で一番苦手だったのが
「最近あんたの評判悪いよ！」
と言われることだった。
まるでいろんな人に自分の悪口を言われている気がして、言われるたびに心臓が跳ね上がった。

―――これはだめだと思うって注意してくれた方がまだマシだ。

いつの間にかアキは、周囲のヒソヒソ話に敏感になった。
それはまったく嬉しくない能力だった。
自分で自分を苦しめるだけだったから。

毒親という言葉に出会う

アキは高校を卒業し看護学校に進学した。
もちろんアキの意思じゃない。
地元に居たくなかったのに、勝手に両親が決めてしまった。
その上、たくさんの勉強に実習に研修……
アキは確固たるモチベーションもなかったため、心が折れやすかった。
ちょっとでも押せば倒れてしまいそうなアキを支えたのは、バスに乗って帰るまでの時間を本屋で過ごすことだった。
新書のコーナーは特にいい。
どれもこれも読んでみたいと心躍った。
その中に印象的な表紙が視界に飛び込んできた。
『毒親』という禍々しいタイトル。
アキはドキリとした。

―――こんな言葉があるのか……

アキの脳裏にサヤコの顔が浮かんだ。
まさかね、と思いながら恐る恐る本を手に取る。
本の中の主人公は、親からの理想を押し付けられ、反抗もできず自分の進路も勝手に決められていた。

―――私と一緒……？

ページを進める手が止まらない。
『世間体を重要視し、承認欲求が強い傾向にある親が多い』
『そういった傾向のある親に育てられると、場の空気を敏感に読む人になり他人の顔色を窺いやすくなる』

周りから一切の音が消えた。

―――私のことなの……？

本を最後まで読み進める勇気が出なかった。
サヤコと私は性格が合わないだけ、彼女は毒親じゃない、そうアキは信じたかった。

一言、褒めてほしかった

看護学校の卒業式の日。
仲間と寝食を共にして、涙ぐましい努力をした3年間が終わった。
「こんな辛いことはもうないよねっ」
晴れやかで別れを惜しむみんなの泣き顔。
めちゃくちゃ怖かった先生達も泣いている。
「みんながいてくれてよかった」
仲間たちと抱き合いながら歌を歌いながら泣きに泣いた。

アキも照れくさいけれど、家族に思いを伝えたくなった。

「今までお世話になりました。みんなのおかげで卒業できました」

そんなことないよ、アキが頑張ったからだよ、そんな言葉を期待していた。サヤコから飛び出した言葉は

「たっくさんお世話しましたー！」

苦しんだ3年間、吐きそうになりながら行った実習。
こんなに頑張った3年間はない。
それでも、アキの気持ちに寄り添ってはもらえない。
サヤコにとっては『自分』が何よりも大事なんだね。
父の気まずそうな表情が視界の端に映った。
心が凍りついた気がした。
アキはこの日ほどサヤコとの間に壁を感じたことはなかった。

つづく