流儀とかなんとか(再掲)

おしゃれに敏感というほどではないですがそれでも髪は美容室というところで長年カットしてもらっています。その店主さんはオレらのことを「お客さん」とはいわず「お客さま」といいます。
元ヤンらしい(苦笑)店主さんですがオレらに対するときは高級ホテル並みの上質な対応をしてくれるしお店の設えも上品で高級感があります。さらには支払いのあと、おつりをもらうときには常に真新しいお札をくれます。
いつものことなんで、「意識してピン札くれてるんですか?」と尋ねてみたら「お客さまが貰うとき、くしゃくしゃのお札は気分がわるいでしょうし、破れたお札は『円が切れる=縁が切れる』につながるので『縁(円)をつなぐ』という語呂合わせでもあるんです(笑)」とのお答え。なるほどなあ。
彼によると髪を切りに来るというのはお客さまにとって特別なことで、その「特別」を演出するのが自分たちなんだともおっしゃっていました。
ますますなるほどなぁ。

ところで。

近所に別の美容室がありましてそこの店主さんは30代後半くらい。最近できたばかりなのでこれからたくさんのお客さんに来てもらなくちゃというお店です。
で、先日、スーパーにお総菜を買いに出たときちょうどその前を通りましたら、お客さんがたまたまいなかったのでしょう、店主さんが時間を持て余したのか、お客さん用のシートに座ってスマホをいじっておりました。もちろんゲームしているのか、それとも予約のメールがはいっていないかのチェックをしているのかはわかりませんが、なんだかざらっとした居心地の悪い感触が残ってしまいました。

オレの行きつけの店主さんなら、いくらお客さんがいなくても「お客さま」のために用意した特別な席に、演出する側の自分が座ったりはしないだろうな。
だからといって近所の美容室の店主が客商売失格だとかいいたいわけではありません。ただ、どういう立場でお客さんに向き合うのか、というのが気になったのでした。
演出する者としてその演出空間には立ち入らないという方法論もあれば、その空間を統べる者としてそこに中心的な存在を占めてもよし、とする立場もあるでしょう。

翻って。

自分たちがやっているようなインスタレーションの仕事も結局のところ見て下さるかたに、そこでしか体験できない、体感できない特別なものを提供するものだと考えています。
来て下さるかたは、特別な気分、特別な体験、特別な時間を感じたくて来て下さるはずです。
であれば、演出するものとしてその場にどう立ち会うべきなのか、深くそれを考えるのです。
考え方やそもそもの個性によってその立場は揺らぐのかもしれません。それでも少なくとも自分たちの作品においては、主人公は「見てくださるかた」だという視座のまま、その特別な場所を侵蝕せず、まっさらな状態で楽しんでもらえるよう設えたいと思います。
こういうことを、先人たちは「流儀」とか「美意識」という言葉で言い表してきました。
その「流儀」や「美意識」に照らせば「特別」を生み出すための自分たちのポジションはすでに決まっているように感じるのです。

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