それは「努力」と呼ばれる形の完成形なのです。
2017年1月28日
(毎週土曜日は昔のブログ記事を振り返って書いています)
暑くても閉め切った体育館の中で、昼休みにバドミントンをしている。やはり休みを取っている人が多いのか、集まる人数も少なくなってきた。きょうは、たまたま一面に四人ちょうどのメンバーがそろったので、休憩なしに4ゲームを続けてやった。ばてばて。ふらふら。こんなにしんどい思いをしたのは、中学時代にテニス部に所属して、しごかれた時期以来のことだ。自分の限界を感じるまで身体を動かすということは、それ以来なかった。
自分の限界点を見るのは、ちょっと楽しい。ああ、これくらいで、身体が動かなくなるんだなということがわかる。身体は正直だ。
しかし、頭は正直ではないな。頭の限界点というのはどこらへんにあるんだろう。学校の先生なら「キミらの能力に限界なんてないんだよ!」とでもいいたいところだろうが、それはウソだ。限界は確かにある。ただそれがどれくらいのところなのかがはっきりとはわからないだけだ。
少しの努力をしたら、少し能力が伸びたとしよう。たいていの人はそうなる。そうすると、人はこういう計算をする。(少しの能力の伸び/少しの努力)が努力あたりの能力の伸びであり、この調子で努力を続けていけば自分はすごい能力を持つことになる、というふうに。小学校あたりでは、こうしたファンタジーが支配的なのではないか。だからまれにものすごい小学生が出現したりする。
人は能力の伸びを単純に延長線に当てはめがちなのだが、問題は努力が続くかどうかである。たいていは努力をやめてしまう。逆に言えば、努力とは続けることに他ならない。だから「努力しなさい」とか「がんばりなさい」というのをやめて、「続けなさい」ということばを使うようにするといいのではないか。「努力」とか「がんばり」は、精神主義的で抽象的でわかりにくいけれども、「続けなさい」は実践的で具体的でわかりやすいから。ある人があることを続けられるように工夫することがすべての教師の役割といってよい。
とすれば、私の自分への励ましは「書き続けなさい」だな。毎日書き続けること。それが私の努力の形ということになる。はためには何をしているか、よくわからないのだが、書くということはそういうことだ。どっこいしょ、で書き始めるのではなく、いつでも書き続けていること。
どっこいしょ、で書き始めるのではなく、いつでも書き続けていること。
これがこの記事の肝です。「さあ、やるぞ!」と掛け声を出さなければ始められない人はまだまだです。本当に努力している人は、自分にも他人にも何も言わずに「それ」をしている人です。その人にとってはそれは単なる習慣になってしまったことなのです。ですから意志力を使わなくてもできる。
それは「努力」と呼ばれる形の完成形なのです。そして決心しさえすれば誰もができることなのです。
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