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『意志と表象としての世界』四巻 まとめ その4

ショーペンハウアーが到達した宗教観(六十八〜七十一節)

 人間の行動の倫理的な解釈を叙述するにあたり、最後にあらゆる善・愛・徳が湧き出てきたのと同じ泉から、生きんとする意志の否定とわたしが呼ぶところのものがどのようにして生じるかを示そうかと思う。

 以前にわれわれは、固体化の原理にとらわれたエゴイズムの認識から悪心が生じることを見てきたが、さらにまたわれわれは正義の起源と本質は、この固体化の原理を突き破ってその奥を見とどけることを知ったのである。そしてさらに進んでいけば、愛の起源と本質は、固体化の原理を看破することのみが、自分の個体と他人の個体との区別をなくし、他人の個体に対する無私無欲な愛の完全な善を可能にすることを知った。

 世界をこのように認識したからには、どうして彼はほかならぬこのような生を、つねひごろの意志行為を通じて肯定するはずがあり得ようか。固体化の原理やエゴイズムにとらわれているような人は、個々の事物とわが身に対する事物の関係だけを認識しているから、個々の事物は次から次へと、彼がそうしたいと欲している意欲の動因となるのであるが、ひるがえって今述べた認識、物自体の本質に関する認識は、これと反対にいっさいの意欲の鎮静剤となるであろう。そうなると意志は生から離れていくほかはない。意志にとっては今や、自己の肯定とみなされる色々な快楽が身震いするほど恐ろしくなる。こうして人間は自発的な断念、捨離、真の心の沈着、そして最後に完全な無意志の状態に脱することになろう。

 金持ちが神の国に入るよりは、駱駝が針のめどを通る方がたやすい『金持ちと神の国』(マルコ、マタイ、ルカ)

 このとき彼の意志は向きを変え、現象のうちに反映している自分自身の意志をもはや肯定せず、否定している。以上のようなことが表わしている出来事というのは徳から禁欲への移行といってよい。こうなると彼という現象はあからさまに矛盾してくる。本質的にみれば彼というのは意志の現象以外のなにものでもないのであるが、今や彼は何かあることを意志することを中止し、なにものかに自分の意志が執着しないように警戒し、ありとあらゆる事物に対するこのうえない無関心を自己の内心に確立しようと努めるであろう。

 わたしがここにごく一般的な表現で叙したことは、自分でひねり出した哲学的なお伽話といったものではく、このとおりのことがキリスト教徒や、インド教徒や、仏教徒のなかで、じつに数多くの聖者たちや美しい魂の持ち主たちの生涯であったのである(ここから色々な記録や伝記を紹介する)

 もともと人間は誰でも、直覚的には、哲学的な諸真理を自覚しているものであるが、それを抽象的な知に、反省に置きかえるは哲学者の仕事であって、哲学者はそれ以上のことをなすべきではないし、またなすこともできない。

 生きんとする意志の否定は、意志自身の本質の認識が完成し、これが意志にとってなにかをしたいと欲するいっさいの意欲の鎮静剤になったあかつきにはじめて出現するものであるが、じつはこのことを、前に述べた聖者や禁欲の行者は例外なく、すでに直接的に認識しているし、すでに行為を通じて表明しているのだ。

 美しい人間が偉大な彫刻家である必要はないし、偉大な彫刻家が美しい人間である必要もない。これと同じように、聖者は哲学者である必要はないし、哲学者は聖者である必要もない。

 世界史の素材は生きんとする意志の否定でも放棄でもなく、それとは正反対のもの、無数の個体におけるこの意志の肯定であり、具現化である。しかしこの世界における最有意義なる現象とは、世界を征服する者ではなしに、世界を超克する者である。世界を超克する者とはすなわち、真の認識を開き、生きんとする意志を捨離し、滅却し、そこではじめて真の自由を得て、このようにして平均人とは正反対の行動をするような人々の目立たぬ寂静たる生活振舞い以外のなにものでもない。したがってこれら聖なる人々の生涯の伝記は、材料がすこぶる有意義であるため、哲学者にとってはプルタルコスにくらべても比較にぬらぬほど教えられることが多いし、重要である。

 われわれの手近にあるのはキリスト教である。キリスト教の倫理はまったく今述べた精神のうちにあり、それは最高度の人間愛に通じているだけではなく、諦念にも達するものなのである。

 だれでも、わたしについて来ようと思う者は、己れをすてて、自分の十字架を負い、それからわたしに従え。十字架を避けてこの世の命を救おうと思う者は永遠の命を失い、わたしのためにこの世の命を守る失う者は、永遠の命を得るのだから。『十字架を負え』(マルコ、マタイ、ルカ)

 いっさいの自己愛の全面的否定による隣人への愛は、インド人の倫理にあってはヴェーダーンタ哲学の教師たちと意見がぴったり一致している。このように時代が異なり、民族が異なっているのに、これほどまでに多くの一致点が存在するということは、人間の本性の本質的な側面がここに現れていることを事実をもって証明しているのだといっていい。

 わたしはこれまでしばしば禁欲という言葉を使ってきたが、これを狭い意味にわたしが解すれば、意志の永続的な禁圧をめざして自ら進んで懺悔と苦行の生活を送ることなのである。

 このような認識は、自分で苦悩を経験してみてはじめてよび起されうるのである。苦悩が純粋な認識という形だけをとって、認識がさらに意志の鎮静剤としてほんとうの諦念を招きよせるようになることによってはじめて、苦悩は解脱への道となるのであり、またそれがために苦悩は尊敬に値するものとなるのである。真の救い、生と苦悩からの解脱は、全面的な意志の否定なしにはおよそ考えられない。

 意志の否定こそが現象の中に現われ出てくる意志の自由の唯一の行為であるが、ただしこの意志の否定は自殺(意志の個別現象を自分勝手に廃棄してしまうこと)とは厳密に区別されなければならない。自殺は意志の否定であるどころか、むしろ意志の強烈な肯定のひとつの現象である。なぜなら自殺者はもともと生を欲しているのであり、自殺するのはただ現在の自分の置かれている諸条件に満足できないというだけの話である。だから自殺者はけっして生きんとする意志を放棄するのではなく(意志を否定するということの本質は人生の享楽を嫌悪することのうちにあるのだから)ただ単に生を放棄して、個別の現象を破壊するにとどまっている。

 自殺者は苦悩を廃棄することを通じて、かえって自分自身を肯定しているのだが、彼が懸命になってのがれようとしていたその苦悩こそ、意志を禁圧して、彼を否定ならびに解脱へと導いてくれるはずのものであったのであるから、この点からいえば自殺者は、ある苦しい手術を受けている病人が、手術で根本的に治療されうるはずだったのに、手術が始まってから途中でそれを中止し、好んで病気のままでいることを選ぶようなことだといえる。苦悩が近づき、せっかくこの苦悩によって意志の否定の可能性が開かれてきているというのに、彼は苦悩をしりぞけてしまうのである。そうしておいて、意志が打ち挫かれないですむようにと、意志の現象である自分の身体の方を破壊するというわけである。

 生きんとする意志が現に存在しているそのようなときに、いかなる暴力をもってしてもこの意志(物自体)を挫くことはできないはずだ。暴力によってなしうることというのは、せいぜい意志の現象をかくかくの場所でかくかくの時に破壊するといったことでしかない。意志そのものを廃絶するのは、ただ認識による以外にいかなることによってもなし得ることではない。救いのための唯一の方法は、まず生きんとする意志がなににも邪魔されないで現象し、そのうえでこの現象の中に意志が自分自身の本質を認識できるようになるというまさにそのことなのである。

 キリスト教本来の教議は、そのものとしては哲学とは無関係なのであるが、本書の考察全体から生まれてきた倫理と完全なまでにぴったりと一致し、その要点はキリスト教本来の教議そのものの中にすでに含まれ存在していたといえる。さらにまた本書の考察全体から生まれてきたこの倫理は、じつにまたインドの聖典というまったく別の形式で述べられたもろもろの教えや道徳訓とも厳密に一致しているのである。

 しかしながらわれは徹頭徹尾、哲学の立場に立ちつづけるものである以上は、否定というかたちでの認識でがまんし、肯定的に表現できる認識のぎりぎりの境界石の所まで到達したことでせめて満足していただくほかはない。

 福音とはすなわち、ただ認識だけが残り、意志が消えてなくなってしまったというそのことにほかなるまい。

 意志をなくしてしまった後に残るところのものは、まだ意志に満たされている人々にとっては、無である。しかしこれを逆にして考えれば、すでに意志を否定し、意志を転換し終えている人にとっては、これほどにも現実的にみえるこのわれわれの世界が、そのあらゆる太陽や銀河をふくめて―無なのである。

 おわり

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