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スポーツは学問に値するのか?

研究することと回り道をすること

今回は、私自身の研究を振り返ってみたら、色々回り道はしたけれど、結局はスポーツだった、という話です。

ところで、回り道というのはいいですね。私は習性として回り道を得意としていると思います。大学に行くにしても、大学から帰るにしても、ついついどこか寄ってしまいたくなるし、家族で外出しても、ついつい目的のお店以外の場所に立ち寄りたくなる。外国の街を歩いていてもそうです。こっちの道に行くと遠回りになるし、目的の方向とは違うのだけど、なんとなくそっちに足が向いてしまう。もはや、これは悪癖と言ってもいい。ただ、そうした当初のルートとは異なる道すがらに出会う何かを楽しみにしているんですね。思い通りに行かないことにワクワクする人間なのだと思います。

なぜ、回り道したくなるのか。

きっとそれは私自身が一番、私の考えることを信用していないからです。ここに行こうとか、こうしてみようとか、これがしたいんだとか、そういう一見すると自由意志のように思える私の思考や行動が導く先というのは案外、つまらないものです。だから、飽きてくる。慣れ親しんだ自分のパターンを崩して偶然の出会いを待つのは、そうした飽きから逃げたいからですね。

そう言う訳で、だいぶ回り道をしてしまいましたが本題です。

この前、40歳になりました。40歳になる直前に父が死にました。母はすでに15年前に死んでいます。私はそれこそ色々と回り道をしてきて、ようやく研究者として独り立ちできるようになったと言えるのもここ数年です。母が生きている間には何もしてあげられませんでした。父にもさして何もしてあげられなかった。後悔があるわけではないけれど、なんとなく両親がどちらももういないんだと思うと、不思議な喪失感がありました。そうしたこともあって、思いがけず父の死から1ヶ月ほど、自分がこれからどんな風に生きていこうかと振り返ることになりました。

生きていこうかと言うのはなかなか大袈裟ですが、その中身はごくシンプルです。家族と仕事をどうするか。私が今後生きていく上で他者との間で果たす様々な役割を、いかに私自身の悦びを損なうことなくできるのか。そうなった時、何の研究をするかは根本的な問題でした。

問いの回り道:文化、社会、そしてスポーツ

ある先輩研究者のゼミで何か話してくれと言われた時にも話したことですが、博士論文を書くまでの私は文化について考えていました。人間にとって文化とは何か、です。というか、文化という単位で、ある問題を作り、その成り立ちを理解しようとしたというべきでしょうか。スポーツを文化人類学の理論と方法で研究することに魅力を感じて研究者を目指したのですから、まあ、かなりストレートなやり方をしていたと思います。それで私は、スポーツ人類学とはいえ、スポーツではなく、健康をテーマにして、身体と健康と文化の関係をタイという地域において検討したといえます。

次に取り組んだのは人間にとって社会とは何か、です。博士論文は今思えば、かなり知識人類学ないし知識社会学っぽい試みをしていました。タイの伝統医療を題材として、人々の身体とか健康とか、そういうものを規定する知識体系の生成と変化を考えたのが博論でした。しかし、この研究ではそうした知識を媒介する社会とそこに生きる人々に肉薄することはできなかった。だから、次は社会でした。人々が生きて暮らす社会です。

社会に加えて、スポーツにも目を向けなくてはならない。大学院を修了した私はそう思いました。でも、ここでのスポーツは伝統的なスポーツです。スポーツ人類学をするなら、近代社会とそこで当たり前に存在する近代スポーツを相対化しなくてはならない。それならば、やはり、近代スポーツとは異なるようなスポーツ、つまりは民族スポーツとか伝統スポーツと呼ばれている競技や遊びを対象にしなければならない。そう思いました。

近代スポーツとは異なる仕方で社会に存在しているスポーツはないか。あるならば、そのスポーツはどんな仕方で社会と関係しているのか。そして、私のいる社会とは異なるあちら側の民族/伝統スポーツは、私のいるこちらの社会のスポーツを相対化し、ここに新しい視点をもたらしてくれるのではないか。この辺りが主なテーマでした。

でも、少しずつ気づいていくことになります。
近代スポーツを相対化することと、近代スポーツを批判することは全く違うことです。近代スポーツではない民族スポーツもないし、民族スポーツではない近代スポーツもありません。たぶん。というか、少なくともそういう前提であらゆるスポーツを見た方がいい。加えて、スポーツを真面目に考えないと行けないということに気づき始めました。どういうことか?

私はもちろんスポーツが好きです。でも、スポーツ人類学者で、スポーツを人文科学的に学問する人間です。だから、スポーツを無批判に礼賛したり、その発展を望んだり、そういうことはしたくない。スポーツには世間一般で言われていること以上の何かがあるのだとしても、文化としてスポーツを見るというのはそうしたスポーツの別の価値を見出すために、時には批判的にスポーツを見なくてはならない。

この立場はこれからも変えるつもりはありません。ただ、これまでの私はスポーツの別の価値というのに拘り過ぎていたのではないか。しかも、その価値を見出すために人類学や社会学、あるいは哲学(遊戯論)などに頼りすぎていたのではないかと感じ始めました。頼りすぎていたのは理論的な面で、です。むしろ、民族も伝統も近代もなく、もっとスポーツという人間の行為に内在した思考をしなくてはならない。そして、その思考が人類学や社会学と出会うことで、スポーツ人類学は、既存の人類学や社会学にとっても意味のあるものになるのではないだろうか。

40歳にしてスポーツについてちゃんと考える

おそらくこれからも回り道をしてしまうのでしょうが、スポーツが学問になることを知った18歳の頃から22年を経て、ようやくスポーツについてちゃんと考えようというところまで来ました。長かった。気づけば、もう40歳です。

最近はラグビーを題材にして、もう一度、近代スポーツについて学び直しています。その過程でぼんやりと浮かんできたのは、スポーツの競争(闘争)的側面や修行的側面が人間の倫理、とりわけ自他関係にもたらす作用、スポーツクラブという集団の現代的な意味、そしてジェンダー(特に男らしさ)といったテーマです。これらは昔から関心あることではあったのですが、より明確に問題の輪郭が見えてきた気がします。

オリンピックや体育会系などに対する批判を見ても分かる通り、スポーツはスポーツに関心を持たない人からは、とても厳しく見られる文化です。それでも、スポーツは私たちの生をより良くするための優れた方法になり得る可能性を持っていると思います。ただ、あらゆる技術と同様に、その使い方を誤れば、スポーツは人間や社会にとっての毒とみなされるでしょう。そうならないためにも、スポーツの良い部分を丁寧に引き出してくる研究がますます必要になってくる気がします。その作業は今日の世界の在り様に対しても、何らかの意義を持つと思います。




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