生きてみようと思った。
太宰治『斜陽』(新潮文庫ほか)
初めて読んだのは高校三年の時だった。学校に嫌気がさしつつ、近代文学を読み漁っていた頃。
読書フェア開催中で、角川文庫版だったと思う。
その時は「なにこれ?」という感じだった。あちこち思考の飛ぶ女性の独白がだらたらと続いて面白くなかった。
高校から大学に進学するとき、ものすごくつらいことがあった。それを明かせばせっかく決まった地元をはなれての大学進学がダメになると思って言わなかった。
友達には虚勢を張っていた。
つらいときは図書館で過ごしていた。
再び『斜陽』を手に取ったのはそんなときだった。
生きていてもいいといわれた気がした。
道徳を踏み外しても身体が穢されても、堂々と強くあればいいと。
「戦闘、開始。
いつまでも、悲しみに沈んでもおられなかった。私は、是非とも、戦いとらなければならぬものがあった。新しい倫理。いいえ、そう言っても偽善めく。恋。それだけだ」(153ページ)
「私生児と、その母。
けれども私たちは、古い道徳とどこまでも争い、太陽のように生きるつもりです」(原文ママ、202ページ)
「鳩のごとく素直に、蛇のごとく慧く、私は、私の恋をしとげたいと思います」(99ページ)
すべての言葉、一文一文が、心にしみるように刺さる気がした。
話のあらすじは特に問題ではないと思っている。
むしろあらすじに重点を置くと面白くなくなる小説だと思う。
登場人物への共感や思い入れも特になかった(遺書になる手紙と日記を残して自殺する主人公の弟の直治は別だが)。
物語の筋道より、折々で語られる言葉が、その時の自分の心情に合わせて飛び込んで来るのである。
読むたびに、何か心に残る言葉があるように感じた。
まさに「機にかないて語る言は銀の彫刻物に金の林檎を嵌めたるが如し」(41ページ)。
これにより何度救われたかわからなかった。
※引用は新潮文庫版の『斜陽』より。