幹事の久保野です。石綿幹事には、ありがとうございます。
親権というのが、まず、子を保護養育していくために、人格面、財産面、両方にわたって基本的に親に与えられたものであり、日本法においては、親が権限を有し、広い裁量を有して、その実現を図っていくという立場を認められており、これが親権という権限や裁量というものとして構成されているわけですけれども、このような立場を親でない人には与えないというのが民法だと思いますけれども、親であれば必ずそういう立場に置いてよいかと考えたときに、そこは区別するというのが、まず基本発想としてあるのだと思います。少し遠回りのお答えの仕方をしていると思いますけれども、御容赦ください。
別の言い方をしますと、父母であるかどうか、ある子と父、ある子と母という関係があるかどうかということ自体は、今言ったような意味での親権を与えて、きちんと育てていく地位を与えていいかということとは差し当たり切り離して民法の世界では設定し、親子というのは親権を持つというのとは区別してそもそも見ているという発想を、当然の前提として見てしまっているところがあります。親権を持つのにふさわしいから父とか、親権を持つのにふさわしいから母といったような形で、父子関係とか母子関係というのを法というのは考えてはいないのだろうと思います。
その上で、しかし第1のような話をしますと、そこを区別する意味というのが見えにくくなるというのは、確かに御指摘のとおりだと思うのですけれども、連名の資料でいいましたときの5ページに、例えば、親子であるから持ち得る権利義務といったようなものが書いてあったりですとか、あるいは、例えば氏がどう決まるかですとか、相続関係ですとか、親子であるということに結び付けられた権利義務というのが多くありますので、まずここを区別するというのは大前提になっている発想だと思っております。
その上で、今回の第1のような形である種、親権者が負うであろう義務と類似のものを親子について重ねて規定する意味については、それ自体、正に議論に値すると思っていまして、後で発言しようと思っていたのですけれども、この中には親子の義務として書くことが適当かどうか議論しなければいけないものが入っていると個人的には思っているものですから、第1の提案に即して区別の意義を明確に説明できないことをお許しください。
その上で、また少しお答えとずれるかもしれないのですけれども、先ほど、親というものがあり、親権というものがあり、更に監護というもの、三層にわたって規律するのはどうかという御指摘もあったと思うのですけれども、そこは正に論点かと思っておりまして、実は民法の解釈としましては、親権につきましても帰属というものと行使を分けた方がよいという組み立てを主張する学説や外国の立法例もありまして、様々な場面があり、100%権利義務を持たせる者と、少し制限した方がいい者、基本的には制限したらいいけれども、およそ親子ではなくなるかのような、他人と同じようなところまでは行かせてはいけない者といったような様々な状況を想定しましたときに、何層で概念を構成するのがよいかということが、それ自体問題になるということだと思っております。
今回の部会の案は、親子と親権と監護の三層になっていますけれども、これは例えば、見方によっては親子と親権だけでよく、その親権について帰属と行使と分けてもいいのではないかといったような可能性もあると、そのような構造になっているかと思います。
すみません、分かりやすいか分かりませんが、まずは以上、お答えとさせていただきます。
○大村部会長 民法学者が持っている暗黙の前提が多少含まれていたので、落合委員には十分に御納得できないところもあったかもしれません。
青竹幹事、どうぞ。