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再婚禁止期間違憲訴訟に学ぶ立法不作為の違法性

再婚禁止期間のうち100日を超える部分は、婚姻の自由(憲法24条1項)を制約する合理性がなく、違憲である、というところまで、確認した。

ということは、直ちに、請求が認められるのか、というと、まだハードルが残っている。

すでに紹介しているとおり、立法不作為が違法といえるには、立法行為には司法が踏み込めない裁量が認められていることにある。これを否定してしまうと、民主主義の根幹も揺らぎかねないため、ハードルが高い。

再婚禁止期間違憲訴訟においても、規定の違憲性までは論破した先に、厚い壁がそびえたつ。中身を見てみる。

本件立法不作為が国家賠償法1条1項の適用上違法の評価を受けるか

まず、合理性がなかったよね、という確認。

 本件規定は,前記のとおり,昭和22年民法改正当時においては100日超過部分を含め一定の合理性を有していたと考えられるものであるが,その後の我が国における医療や科学技術の発達及び社会状況の変化等に伴い,再婚後に前夫の子が生まれる可能性をできるだけ少なくして家庭の不和を避けるという観点や,父性の判定に誤りが生ずる事態を減らすという観点からは,本件規定のうち100日超過部分についてその合理性を説明することが困難になったものということができる。

平成7年の実情

 平成7年には,当裁判所第三小法廷が,再婚禁止期間を廃止し又は短縮しない国会の立法不作為が国家賠償法1条1項の適用上違法の評価を受けるかが争われた事案において,国会が民法733条を改廃しなかったことにつき直ちにその立法不作為が違法となる例外的な場合に当たると解する余地のないことは明らかであるとの判断を示していた(平成7年判決)。

再婚禁止期間については、一度違憲の評価を開始しているのだ。

これを受けた国会議員としては,平成7年判決が同条を違憲とは判示していないことから,本件規定を改廃するか否かについては,平成7年の時点においても,基本的に立法政策に委ねるのが相当であるとする司法判断が示されたと受け止めたとしてもやむを得ないということができる。

国会議員に優しい最高裁判所。しかし、責任はとらないけどね。
平成6年の実情はこちら。

 平成6年に法制審議会民法部会身分法小委員会の審議に基づくものとして法務省民事局参事官室により公表された「婚姻制度等に関する民法改正要綱試案」及びこれを更に検討した上で平成8年に法制審議会が法務大臣に答申した「民法の一部を改正する法律案要綱」においては,再婚禁止期間を100日に短縮するという本件規定の改正案が示されていたが,同改正案は,現行の嫡出推定の制度の範囲内で禁止期間の短縮を図るもの等の説明が付され,100日超過部分が違憲であることを前提とした議論がされた結果作成されたものとはうかがわれない。

平成6年には、法制審議会で、再婚禁止期間を100日に短縮しようっていう案があったけど、違憲論ではなかったので、提案を放っておいたとしても、問題がないという。優しい。というか、甘い?

それゆえ寛大な評価をする。

 婚姻及び家族に関する事項については,その具体的な制度の構築が第一次的には国会の合理的な立法裁量に委ねられる事柄であることに照らせば,平成7年判決がされた後も,本件規定のうち100日超過部分については違憲の問題が生ずるとの司法判断がされてこなかった状況の下において,我が国における医療や科学技術の発達及び社会状況の変化等に伴い,平成20年当時において,本件規定のうち100日超過部分が憲法14条1項及び24条2項に違反するものとなっていたことが,国会にとって明白であったということは困難である。

再婚禁止期間に抵触する当事者というのは、日本全国を見ても多いわけではない。該当したとしても、待婚期間を経過することで婚姻できるので、暮らしの上での支障は乏しく、みなが声にするわけではない。おかしいなと思っても、訴訟アクションをする機会がなかったことをよいとして、国会が気に留めなくてもよいという言い方なわけだ。

訴訟をしなければ、声を上げなければ、国の責任ではなく、国民の責任にされるということ。これでいいのだろうか。逆に、声にする行動の意味が本当に大切だということがわかる。

最高裁は、違憲を宣言したが、請求を棄却する。

 以上によれば,上記当時においては本件規定のうち100日超過部分が憲法に違反するものとなってはいたものの,これを国家賠償法1条1項の適用の観点からみた場合には,憲法上保障され又は保護されている権利利益を合理的な理由なく制約するものとして憲法の規定に違反することが明白であるにもかかわらず国会が正当な理由なく長期にわたって改廃等の立法措置を怠っていたと評価することはできない。したがって,本件立法不作為は,国家賠償法1条1項の適用上違法の評価を受けるものではないというべきである。

原告となって、違和感を声にしてくれた勇気、訴訟費用、その労力、原審までの請求棄却判決に負けなかった粘り強さ、伴走された作花先生とともに尊敬しかない。

最終的には、請求棄却ということで、何ら賠償されなかったけども、結局、国を動かす貢献となった。

一国民が国を動かす。いや、国を動かすのは国会議員の仕事だろうよ、とツッコミをいれたいが、悲しいかな、日本においては、困っている人が、困っているという声を正しく伝えていかなければならない。黙っていたら、無視されてしまうのが現状なのである。

だから、声にすることを応援したい。

声にする方法には、マナーが求められる。暴力的な表現は避けられるべきだ。

適切な声になるよう、伴走するのが、弁護士の役目だろう。

困っている人の悲鳴のような声は時に雑音も紛れるかもしれない。憤り、悲しみ、絶望、いろいろな感情が入り乱れ、不協和音になれば、声を封殺する力の方が働きかねない。

正しく伴走し、その声が適切な音量として、誰もの耳に届くようにする。

そのためには、泣き喚く叫び声であっても、傾聴し、その源流を探る。

愛がなければ、生まれない声もあることに気づくのだ。

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