非婚差別撤廃がDV撲滅に貢献する
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ここのところの世帯主問題はじめ諸々を考えて、やはりたどり着く
婚姻制度廃止、とまでは言わない
愛し合って、ただそこに共にいるだけで、それ以上のものは不要に感じてしまうほどの絆であれば、一緒にいるということそのものが一番大切なので、婚姻制度すら必要を感じないものの、仕事上・地域上、いろいろな事情もあって、婚姻関係の公証があった方がいいという人もいるだろうから、婚姻制度はあってよい
だが、あくまで、ふたりがふうふ(同性である場合を含む)であることを公的に認証するまでにとどまり、ふうふであることによる法的な利益は一切撤廃することが望ましい
ふうふであることを特別視しないこと
これは、新しいようで、実は少しずつ浸透している
税制上、配偶者控除の適用を受けるには、法的な夫婦でなければならない(事実婚の夫婦、同性愛カップルは婚姻関係にないから適用を受けない)
しかし、そもそも配偶者控除を受けるには、一方の収入が低く、扶養関係にあることを前提にするから、共働き共稼ぎで、対等に収入を得ている夫婦は、そもそも配偶者控除が発動しない・・・婚姻関係にあっても、だ
かつて寿退社なる言葉が見られ、婚姻をきっかけに退職する・・・それゆえに、女性の就労は、腰かけ、定年も男性と区別して若年に設定されることさえ実際に存在した
昭和時代の景色である
今や、婚姻が退職のきっかけになることは減っているし、第一子出産時の退職も減少傾向にある
それでも、待機児童、保活や両立の苦労、小1の壁、諸々あって、勤務を続けることが難しいことはある
長期の育休・時短制度を利用しても、マミートラックにはまり、モチベーションとともに収入も下がりっぱなしということもある
生涯にわたって働き続けること、稼ぎ続けることが男女問わず推奨されるとしても、配偶者控除という甘い罠が残存していては、目の前の困難を回避しようとする判断で、女性を退職に追いやることも見られてしまう
働きやすさの工夫ではなく、働くことを手放してしまう
家事労働自体専門スキルを発揮するとやりがいもあるし、家計管理・整理収納・育児論、将来的にはそれが世に還元しうるかもしれないにしても、家に入ることを選びやすい潮流に逆らう方が難しい結果、夫婦の経済格差をもたらしてしまう
扶養者と被扶養者の関係に陥っては、どうして対等といえるだろうか
固定的性別役割分業が徹底していれば、役割の問題であって、お互いの役目を全うしてこそ生活が成り立つという意味で、意外に対等だったのかもしれない
扶養・被扶養は、経済的側面からの一面に過ぎない
家事も育児もしない、ただ稼ぐことしかできない夫は、それによってバランスが保たれていたのかもしれない
しかし、令和は共働き共稼ぎ共育児が求められる時代だ
一面であった経済的非対等性が、夫婦の関係性を決定づける
悲劇的なのは、非対等ゆえの依存関係のあまり、不適切な関係に及んでも、その依存関係の解消を躊躇することがあることだ
暴言を浴びせられている場合に、弁護士は、当然それが不適切だと指摘し、避難を提案し、離婚を勧めるだろう
暴言を忌避する点では正しい
しかし、夫婦の闇深い絆はそう簡単には割り切られない
暴言については我慢するから、結婚を続けたい、と本人はいうのである
離婚を勧める弁護士に依頼しないということもある
離婚したくないという気持ちを尊重する方針の弁護士が選ばれていく
最終的には条件整備の上、依存関係を脱出する離婚後の生活に踏み出すお手伝いをするわけだが、DVを理解し離婚を勧める方針では、DV被害者が選ばないことがあるということは、結局、DV被害者の救済を置き去りにすることになる
DV問題のねじれ現象を思うのである
もう一つは、DV=家庭内暴力=親密な関係のある間柄に見られる支配関係、という具合に言葉が実はあいまいだ
深刻な傷害を伴う暴力に限定して、警察の介入を歓迎する立場もあれば、身体的暴力にとどまらないと拡大して解釈する立場もあるから、議論がかみ合わなくなる
DVという言葉そのものを改める必要があるかもしれない
狭義のDVを前提とした効果を、広義まで含めたDVにも適用しようとすると不都合な事態に至る
要件と効果は連動するものであり、厳密な定義が必要である
私は、DVの主張がある事件全てをDVと呼ぶ、最広義説を採る
その結果、虚偽DVという概念を放棄することになるが、同時に、DVと言ったからといって何の効果ももたらさないという理解になる
呼びたい人がそう呼ぶためだけの概念である
これも、新しい話ではなく、実際そうなっている
支援措置制度がまさにそのとおりで、住民票上の住所を役所が開示しない、という効果に限定されるゆえに、反対当事者の意見聴取もなく支援措置が発動する、緩い仕組みである
DV最広義説にあることがうかがわれる
住民票の取得を制限することで居所秘匿に役立つが、裁判所には住所が開示されるので、結局裁判所に呼び出されることにはなる
その裁判所で、DV被害者として扱われるかとも限らない
支援措置制度のおかしさが指摘されているが、効果の弱さ(利用者にとっての受益も比較的大きくなく、支援措置により制限される側の不利益も比較的小さい)もあって、問題としての取り組みが全く進んでいないところが、さらなる不合理ではあるが、一方で、尾を引いてしまうことによる不利益が見過ごせなくなってきている
とりわけ、今回の給付金を世帯主が受給権者となる問題について、例外適用としての支援措置が盛り込まれたことにより、小さい効果にすぎないから見過ごされていた問題が、実は墓穴になりかねない
住民票を取得できないだけにとどまらず、世帯全員の給付を得られるはずが、支援措置によって妨げられることになれば、数十万円(配偶者に限らず子どもの分も加算されうる)の帰趨をめぐって、声を上げることが考えられる
支援措置の綻びが繕いきれなくなるかもしれない
DV被害者のためのはずが、さらにこじれることになる
DV被害者を救うのは難しい
愛し合ったふたりが結婚してふうふになったのーと公に発信する自由はあってよい
しかし、ふうふをひとくくりにして世帯単位で管理したり、扶養関係という非対等性を温存するように機能する制度となれば、それだけで、情愛が失われて他人に戻ろうとするふたりを婚姻制度に拘束することになってしまい、かえって、ふたりを苦しめることになる
それがDVの正体でもある
非婚差別を撤廃し、ふうふであっても個人として扱うことを徹底する
その結果、DVの文字を経由することなく、DV被害者は救われ、個人として尊重されていく
非婚差別なく、婚姻をしても、ふうふはそれぞれ世帯主となるよう個人登録しておけば、問題なくそれぞれが受給権を得られる
その上で、家族単位で給付金の使途を決めるのは家族の自由だ
子どもも頭数にして支給されたとしても、子どものお小遣いになるわけではないはずだ
学校に通えず、オンライン教材の準備、給食に替わるランチ費用、在宅でケアする心身の負担等支払うのはやはり親だろう
子ども自身にももちろん外出自粛のストレスはあっても、それをケアするのは親であり、ケアを分担するシッター費用を支払うのは子ども自身ではない
そんな子どもをカウントした給付金を共同親権にある両親がどのように受給すべきか、これも世帯単位の発想で、共同親権であるのに、2人いる親の一方のみを扶養者として扱う文化が思考を停止させている
親であれば、当然に扶養者(経済的側面に限定しない)として、扱い、双方を親として尊重する(子との同居を問わない)
入学時期9月説が浮上していることに並んで、日本が世界の標準からだいぶ遅れをとっている親子や家族の問題に思い馳せる、よい機会となっている
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