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提訴から5年!共同親権day~これからも

5年前

5年前のその日のことは、その翌日の方に記録されてた

弁護士になるのに10年以上かかって、長くかかったような、それでもあっという間だったように思うけど、弁護士になってからの10年が経っていて、その半分がいかに共同親権づくしだったかと思う

前半だって、似たようなことをしてきたけども

すごい集まりがあるみたい

いや、先日のもすごい集まりだった

5年前には、まったくこの世界に無縁という方でさえ最高裁にやってきた!

5年前はまだ結婚していなかったとか、お子さんが産まれていなかったとか、そういう世代も、今や、”当事者”である

制度が温存してしまっているのは残酷で、こんな理不尽、知らずに済むなら、どれだけ幸せなことだろう

そうやって知らないゆえに温存させてしまったともいえるけど

当事者は増えるばかりなのに、でも、行動する人は増えない?どういうことだろう

この前、ちょっと読む機会があって知ったのだけど

2300人も集まるの?!

単独親権制や、親子断絶、連れ去り不問とか、実子誘拐とかを「おかしい」と知っている人の数自体はけっこういるはずだと思うけど

なぜなのだろう

不思議な話・・・

共同親権弁護士が増えない理由はわかる

これもいろいろあるけども、かつて、子の引渡の強制執行の場面に立ち会ったことがあるという先生曰く


誰も幸せになってない景色があった


というわけで、もう二度と、親子の問題について扱うことをしなくなった、というのである

決して、儲からないとか、そういうことではなくて、勝訴の達成感もなかったのだろう

その点、最近は、残酷な強制執行よりも任意に解決する例もあるようにも見える

任意に引渡をしたほうが、面会交流を獲得できたりするメリットがあるのだろう

誰もが不幸にならないために


これを叶えるのが共同親権制だった、というところにたどりつく

まず連れ去らない

でも、話し合って、円滑に別居をする

親子交流をする


これだけのことなのよ

連れ去り禁止は、別居禁止にあらず、ということ

あくまで、無断別居禁止であって、話合いをして、どこに転居するのか、転校させないこと、友だちや習い事とかの関係性も維持するよう尊重すること、そういう配慮があれば、当たり前だけど、別に、新居に押しかけることもしないし、学校にも不意に現れることもないだろう

別居はするけど、毎週末宿泊するとか、隔週で2泊するとか、平日は1日は夕飯を一緒にするとか、それだけでも、親子らしさを失わないので、別居を余儀なくされても、まあ許容できたりもする

で、これができたら何がいいって、他の話し合いも円滑に進む

離婚するかしないか、生活費の分担、財産分与(というか別居することになって、別れるにあたっての清算が大事かな)

話し合いが円滑に進むと、たとえ、調停を利用したとしても、すぐ終わる

弁護士も依頼してもいいけど、依頼内容が限定される

ひととおり解決して離婚したあとも冷静で、ちょっとしたことでも相談ができたりする

新しい習い事の費用の分担とかだって、相談しながら公平に負担できれば何よりだ

面会交流を潰すために、習い事で忙しくするなんて、費用の分担だって偏ったり、養育費を受け取っていても非効率な支出になってしまうのではなかろうか


愚かなる子育てはやめよう


愚かな極めつけは、会わせないようにすればするほど、不合理に、楽しいおやこの時間を邪魔すればするほど、賢く成長していく子に見限られてしまうということ

法は不問にしたとしても、連れ去られた思いを抱く子どもは、冷静に気づいてしまうのである

同居親となって、親権者になるのかもしれない

そんな風に司法が許しても、子どもの気持ちがそれに従うとも限らないのである

かといって単独親権制が残酷なのは、あえて自己流に共同養育を進めてきても、ふとしたきっかけで、終焉を迎えることがあるということ

共同養育していたのに、親子断絶に転じる、とか、場合によっては、立場が逆転してしまう事態に見舞われることも起こっている

そんな自己責任での共同養育はやっぱり頼りなくて、共同親権制のもと、充実した支援や見守りの中で、お互いに親として尊重し、双方の親子関係に配慮することが要になっていく

それは、父と母がいて産まれてくる子どもという存在への尊重だし、十分に愛されて育つための配慮でもある

健やかにのびのびとたくましく元気にしあわせに子どもが育つというのは、親から見たら、親の利益でもある

子どもが幸せになって、利益を害されるという親っているのだろうか?

そんな風にして、親自身の利益や感情を優先させて、子どもを不幸にする親がいるとしたら、親権停止などしていくのも、子どもの最善の利益のために必要になることも現実にはあるというわけだ

だいたいの親は、子を授かって無事に誕生した瞬間は喜び一筋、あとはひたすらに幸せに愛されて育つことを祈るばかりのはずだろうけど

まあ、キレイごとばかりでもない

親だっていろいろなことを背負いながら生きていく個人であって、キャパシティはその個人の責任にするには気の毒なことがある

生い立ちだったり、病だったり、特性だったり、というのを、言い訳にするようなこととは紙一重かもしれないけど、配慮してもいいし、完璧じゃなくても、できる限りの努力さえすれば十分にも思う

親自身が幸せに生きるのも大切で、親の犠牲のもとに子が幸せ一色になれるわけではない

子どもだって、パパとママが大好きだから、親にはしあわせでいてほしいと思うものだし、客観的には背負うことは何一つなくても、親が生きづらく不幸でいると、子どもなりに、自分の存在価値を否定する発想に傾きかねないのである

子を想うあまりに、背負わせすぎてしまうようなことも避けたい

あくまでも、片面的にしあわせを祈り、親は、オトナとして、自分のしあわせは自分でトトノエて、子どもに頼らないこと、でも、子どもには自然にたくさんのしあわせをもらうことができるので、だからといって依存するわけにはいかないと気づくと、しあわせをもたらしてくれる存在自体のしあわせを祈るということにたどりつく

たいていは、自ずと安定した親子関係になっていくとは思うけど、悲観しすぎず、他責しすぎず、呪わず、ただひたすらに、しあわせを祈念する

ときに、残酷にも、まさに、その祈念しかできない事態に陥ることもあるのが、単独親権制がもたらす不幸ではあるけども、そうね、きっと、5年後の2029年の共同親権dayには、もっと世界が変わっていると信じたい

親になるって楽しくてしあわせなことだよって、あなたが生まれてしあわせでした、っていうメッセージを届けたい

ま、親になれ的なこととの紙一重なところがあるけど、同意なく身体に侵襲して、生殖能力を奪うことは人権侵害にもなるけど、いたずらに親になることを強制するのもまた許されないはずだ

自分の人生を全うする、その一面として、親になるという選択肢があってよい

ならなくてもいい

自分のしあわせは自分で開拓していく

でも、親になったら、我が子のそれを当然に応援していく

子どもだって、親がしあわせでいてくれることを願っていく

オヤトコ、対等に、しあわせになっていく



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弁護士古賀礼子
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