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差別を考えるって難しい

議事録の続きもあるし、とっておきのことがついに発信されるかも?もあるし、なところではあるけども、やっぱり、思いついたときに記録しておこう、と平等論

平等原則については注目している

その上で、あくまで、基本の考え方に立ち返りたい

法的取り扱いについての平等を要求するのが平等原則である

かつての、夫婦別姓に関する大法廷判決(合憲判断)においても、平等原則違反を問う主張については、軽く排斥されてしまっていた

子育て憲法セミナー第一弾でも扱った尊属殺重罰規定違憲判決を参照に考えてみようと思う

今となっては違憲判決を経て、無効として運用上の取り扱いがなされなくなって以降、さらに規定としても削除されている刑法200条はこういう規定だった

自己又ハ配偶者ノ直系尊属ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期懲役ニ処ス

「尊属を殺したる者」が死刑又は無期懲役という重罰が課せられていることが、違憲だとされたのである

これだけを見ても、なるほど、「死刑又は無期懲役」としか書いてないそれだけで、重罰だとわかるし、不合理な匂いはある

だが、「尊属を殺したる者」が重罰に処すことが、「尊属を殺したる者」に該当しないことと比べて取り扱いが差別だ、というだけでは平等原則が発動するわけではない

「尊属を殺したる者」とそうでない者(殺していない者)とを区別する必要はもちろんあって、「尊属を殺したる者」がひとまず罪に問われるようにすること自体はある意味生命の保護法益を実効的に守るためには、むしろ必要だろう(この説明の難しさ、誤解を招きかねず、本当にやっぱり難しい)

区別の必要性が認められる区別の結果を差別とは扱われないのである

刑法200条もそれ単体で、不当な差別という議論になったわけではない

対比されているのは何か

刑法199条(今は法改正を重ね、「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する」と規定されている)はこうだった

人ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期若クハ三年以上ノ懲役ニ処ス

「人を殺したる者」は、「死刑又は無期若しくは三年以上の懲役」という規定である

これにより、生命という保護法益を守るために、「人を殺したる者」をそれ以外の一般国民と区別し、そして、死刑・無期のほか三年以上の懲役という刑罰を課すという規範が規律される。

「尊属を殺したる者」は、この一般国民から区別された「人を殺したる者」をさらに特別に区別し、「人」が「尊属」である場合に限って、刑罰を「死刑・無期・三年以上の懲役」よりも重く「死刑・無期」しか選択肢がないという差別的取り扱いを法が規定しているのであった

法が正当な目的をもって合理的手段によって区別した結果、国民同士の間に格差が生じたとしても、それだけで平等原則にはならない

重罰を背負う「人を殺したる者」とそれ以外の者では、今でも、前者は、重罰に処せられる可能性があるが、後者はそうではないという意味で、格差があるが、それは生命を守るという正当な目的のもと、刑罰を処すという手段も合理的(その他各種適正手続も用意されている)に用意されることで、国民同士の間に差別があっても許されるのである(むしろ、殺人犯も「平等」に罪に問われない、という方が不合理であることの方が腹落ちする)

さて、尊属殺重罰規定違憲判決が平等原則違反を認めたのはどういうことか

「人を殺したる者」のうち、その「人」が「尊属」である場合には、さらに重罰にして、「死刑か無期懲役」で処罰するとしていた

この目的が、尊属に対する尊重報恩である点について、最高裁は正当であると判断した(ただし反対意見がある。道徳としてはともかく、法の目的としていいのか、という問題提起である)

その上で、手段としての「死刑か無期懲役」に限っている点が、目的達成のための手段としては合理性を欠くというのである

ひどい親殺しであってもあくまで「人を殺したる者」として、刑罰については情状を考慮すれば、死刑・無期懲役の選択は可能だし、法によってそれ以外の選択肢を用意しないとまで規律する必要はないということか

結果、違憲判決以降、尊属殺があっても、刑法200条が適用されることはなくなった(刑法199条を適用して解決していく)

ある意味、法は全て、何かを定義し、該当するか否かで国民を区別する

それが行為規範になるわけだし、規律することが必要な場合もある

そうした法の適用を受けた結果、不満を持つ国民がいたところで、それを不合理な差別としては受け止めない

当然区別してしかるべき、という場面だって想像できるだろう(先の、刑法犯も不問にする方が不合理なことは、実子誘拐が不問という運用への不満からも理解しやすいのではないだろうか)


夫婦別姓論も、夫婦同氏の原則から、改姓する者と改姓しない者とを夫婦となる2人の間で分断するわけだけど、それが直ちに両者を差別的取り扱いをしている、というわけではない

どちらかというと、「婚姻」をした者とそれ以外を分断し、「婚姻」をした者については、同氏とする(夫婦のどちらか一方が改姓する、どちらが改姓するかは2人が協議して決める・・・あー、この協議が一致しないときのことをそもそも何も規定していないってすごいな~氏のことさえ一致できないなら夫婦になるなっていう排斥?氏のことは一致できても、子育ての方針においては一致しないことはあるけど、それも等しく、夫婦であることから排斥すべきっていうのが単独親権制?)が、それ以外は、夫婦として同氏になることができない(養子縁組することはあるらしい)婚姻しているか否かで法的取り扱いを異にしているのである

婚姻とは夫婦同氏であること(しかも戸籍上の異性同士だけのもの)のためにするようなものだから、別姓でいたければ、婚姻をしなくとも、夫婦っぽく共同生活を送ることは禁止されていないよ、というもの(大法廷判決となった事件では、結果として改姓する者が女性に偏っていることを男女不平等というアプローチをしたが、当然、法の規定は男女で取り扱いを異にしているわけではない)

家族っぽく認められたくてせめて同氏であろう、と同性婚に近似したく養子縁組を借用する同性愛カップルもいたりする

婚姻か否かで共同親権か単独親権かという取り扱いの区別もある

婚姻と区別して非婚には単独親権(しかし氏は別姓でもいいよ?離婚後に限っては婚氏続称による戸籍上の同氏は可能)という扱いを受けるから、あたかも夫婦のどちらかの氏を選択しなければならないときのように、父母のどちらかを親権者として選択・指定しなければならない(このときは、裁判所も介入して指定する)

結果、親権者と非親権者が現れることになるが、それは、婚姻と非婚の法的取り扱いを異にした結果であって、その区別が合理的であれば、最終結果として、親権者と非親権者がいること自体は平等原則に反しないことになりかねない(改姓しなかった者とした者が生まれるのは、夫婦同氏の原則の結果に過ぎない)

ものすごく難しい

平等原則は違憲判決例が続く重要な理念である一方で、平等原則違反でいうための構造を見抜くことが本当に難しい

いわゆる、暮らしの中で、差別を受けた、という印象と、法的概念上の、不当な差別にはギャップがある

それでも、そこに鍵があると思う

明治民法の名残を払拭しきれなかった戦後の改正民法が、令和時代の今に通用するわけがない

そもそも家族観が大きく変わってきた

それでいて多様性も尊重していく必要がある

先に紹介した、尊属殺重罰規定もそもそもは明治時代に制定されたものである(戦後の日本国憲法制定に沿った改正では改廃されなかった)

単独親権制であっても、尊属に対する尊重報恩理念が、道徳にとどまらず刑法をもって規律されていた時代において、親権者かどうかよりも、親への尊重が自然に浸透していたのではなかったか

もう一度尊属殺重罰規定を、とは言わない

尊属殺重罰規定が削除されたとしても、親を敬う理念までを完全に排斥してよいものか

親への敬意は押し付けられるものではなく、子どもの権利だって、独立した人格主体性として尊重されるべきである

ただ、だからこそ、子にとって、他の大人とは区別される愛着関係のある親の尊厳を社会が敬っていくことが、結局は子の利益・福祉に貢献するものといえる

親を失ったってたくましく生きて欲しいし不可能ではないのだ、と応援したい

でも、一方で現実としては親の生活力にどうしても依存してしまうほど未熟な存在であるのが子どもだ

親を否定するとかえって子どもの生活自体を脅かすことにもなりかねない

親子がどうあるべきか家族がどうあるべきか、婚姻の意義って?

自由であるために、新しい時代のために、考え尽くしたいところである

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弁護士古賀礼子
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