国消国産を築くナショナリズム
日経COMEMOさんの公式で出されたお題「国消国産がなぜ必要か?」。地産地消はよく聞くけれども「国産国消」はあまり聞かない。ましてや「国消国産」なら尚更だ。ただ、よく考えてみるとこれはなかなか面白い発想だ。
”国産国消”なら国内で生産された物を国内で消費しようという受け身の考えになる。ところが”国消国産”になると、国内で消費される食料をどのように国内で賄うべきか? なぜ国内で賄うべきか? という能動的な発想が生まれやすくなる。
「これは面白い。」ということで、今回はこのお題に乗っかった記事を投稿してみようと思う。
JA全中こと全国農業協同組合中央会の中家徹会長は日経新聞のインタビューの中で次のように発言している。
「新型コロナウイルスの感染が広がる中で、一時マスクが不足して騒ぎになりましたが、もしそれが食料だったらどうなっていたでしょうか。コロナ禍で、いくつかの国が食料の輸出を制限しました。日本が食料を大量に輸入している国ではないので影響は出ませんでしたが、何か混乱が起きたとき、食料の輸出入が滞る恐れがあることがわかりました。」
農業が社会に対して持つ意味には様々なものがあるが、中家会長が言及しているのは「食料安全保障」の問題だ。
食料安全保障のおける国消国産
一般的に安全保障と言えば陸海空軍などの武力を示した、軍事的な意味合いで受け取られることが多い。しかし、安全保障とは必ずしも軍事的な意味だけで用いられるのではない。安全保障とは文字通り”安全”を”保障”する活動のことだ。そして安全とは”国民の安全”のことである。
国民の安全な生活を保障するために必要なのは軍事力だけとは限らない。自然災害から守る防災政策も重要だし、健康な生活を実現するために質の高い医療を実現することは医療安全保障も重要だ。その意味では国民の食生活を守るための活動は食料安全保障だと言える。今回のコロナ禍という非常事態は、その食料安全保障の重要性が図らずもクローズアップした。このような異常事態を想定し、国内に必要な食糧供給網を維持しておくことは、すなわち「国消国産」は安全保障において極めて重要である。
この非常時に備えて国内の食料自給率を高めておくことの重要性については、ほとんど人が同意するものだと思う。
では、そのために何が必要だろうか? 私たちに何ができるのだろう?
私は、迂遠のようではあるが、実は”健全な”ナショナリズムの醸成こそがもっと重要なのではないかと考えている。日本では、「ナショナリズム」というと何かラディカルな概念かのように思われることが多い。右翼、国粋主義、国家による統制、といった具合だ。しかし、意外に思われるかもしれないが、実は民主主義はナショナリズムがなくては成立しえないのだ。
民主主義を保障するもの
民主主義という政治制度において、政治的な意思決定は原則的に多数決で行われる(少なくとも理念的にはそういうことになっている)。見逃されがちなことだが、多数決での決定では必ず少数派が生まれることになる。もしこの少数派が多数派の決定を受け入れなければ、意思決定はいつまでも行うことができなってしまう。したがって民主的な手続きによって政治的意思を決定するには、少数派が多数派の意思を受け入れること、あるいは多数派もまた少数派の意見に耳を傾けるという相互承認が不可欠となる。
このお互いがお互いを認め合う素地となるのがナショナリズムだ。同じ歴史や文化を共有する国民であるというナショナリズムが下地にあるからこそ、自分の考えや価値観が多数派となれない状況であっても、それを受け入れることが可能となる。
日本では一般的にナショナリズムとは”国家が国民を統制する”というような、国民と対立する概念であり、民主主義を否定するものだと思われている。しかし、それは真逆である。
民主主義という政治制度を健全に機能させるためには、「同じ国民である」という一体感すなわちナショナリズムが欠かせない。それが真実なのだ。そして、国民の食料安全保障においても、このナショナリズムが非常に重要な役割を果たしている。
先進国でもっとも守られていない日本農業
世間ではよく「日本の農家は守られすぎている。もっと世界へ打って出るような販売戦略が必要だ。」などと言われる。しかし、実は日本の農業は先進主要国でもっとも保護されていない。
下記の記事にて鈴木 宣弘東京大学教授が指摘しているが、農家の農業所得に占める国の補助金の割合は2016年の統計で日本が30%。それに対して、スイスが100%、ドイツが70%、イギリスが91%、そしてフランスが95%である。つまりEU主要国においては、農家の所得のなんと90%以上が国家による負担、つまり税金で賄われているのだ。
また、日本の農作物は高い関税によって保護されているというイメージが強いがこれも誤りだ。これについても鈴木教授が下記の記事にて「日本は関税も平均的には低い(OECDデータでは日本の農産物の平均関税率は11.7%でEUの19.5%のほぼ半分)。国内販売における価格維持政策も世界に率先して縮小したから、農業保護額は米国やEUよりも相当に少ない。」ということを明らかにしている。
農業という”国民を飢えから守る”食料安全保障の最前線にいながら、農業従事者の価格や所得の保障は諸外国に比べ圧倒的に低く、また、外国との競争からの保護も著しく低い。意外なことにそれが実態なのだ。
ところが、このような実態とは違い日本では「日本の農業は保護され過ぎている」というイメージが先行している。農家を保護するための政策を”成長を阻害するもの”として敵視し、農業分野を海外との自由競争によって”改革”させようとする規制緩和や構造改革推進の考え方は根強い。本来であればわれわれ国民の食糧安全保障を担う農家を外国との競争から適切に守ることは、政策として当たり前であるにも関わらずに、だ。これもまさに「農家が国民の食料安全保障を担っている」という視点と、「農家もまた同じ国民である」という連帯感、つまりナショナリズムの喪失と無縁ではないだろう。
攻める前に自分の腹を満たすのが先決
しかしながら、先にも述べた通り、農業には食料安全保障という国民の生活を守る重大な役割があるにも関わらず、日本は諸外国に比べそれを守るための政策をおろそかにしている。それどころか”攻めの農業”というスローガンの下、海外への輸出ビジネスを振興に躍起だ。たとえば政府は今年3月、農産物・食品の輸出額について、「5兆円を令和12年までに達成する」という新たな目標を掲げるなど外国との競争を推進する方向性を示した(令和元年の実績が9,100億円あまりであるから、その実に5倍にあたる)。
まさに”国消国産”とは真逆の方針を強化しているのあ。
誤解がないように言っておけば、私は海外への輸出自体が悪といっているわけではない。輸出競争力がある農産物ができるのであれば、それを活かすのは当然だ。しかし、それはあくまで日本国内の食料需要を満たせるだけの生産力があった上でのこと。
日本の食料自給率の低さはよく知られているところだが、実際下記のグラフの通り、日本の食料自給率は「生産額ベース」、「カロリーベース」共に減少傾向が続いている(農林水産省HPより)。
残念ながら”攻めの農業”以前に、現在の日本はその国内の食料需要の半分すら満たせていないのが実情である。この状況下においては、まず国内の食料自給率を高めるための生産性向上を図る方が先決ではないだろうか。
農業を守るナショナリズム
ここまで述べてきた「農業の保護の低さ」「食料自給率」を考えれば、農業を適切な保護と自給率の向上こそが喫緊の課題であることは多くの人が賛同してくれるものだろう。しかし、ここで忘れてはならないのが「政府は農業を保護するべき。政府は何をやっているんだ!」と”政府攻撃“に甘んじてはならないということだ。
たしかに政策を行うのは政府である。そして、その政策の具体的な内容を企画するのは省庁の役割である。しかし、政治がそれを実行するには何よりも国民の理解がなくてはならない計画を実行することはできない。なぜなら、政策とは国民が必死の努力で生み出す富や供給能力を、国家の方針に沿って再分配することに他ならないからだ。
したがって、仮に政府や省庁が適切な政策を打つ意思があったとしても、国民の理解が得られないような社会的ムードでは適切な政策は実現できない。しかし、逆に言えばそれは、一時的に不平等な再分配が行われようとも、国民が長期的な視野に立ちそれを受け入れる下地があれば、適切な政策をとることは可能だということも意味している。そして、その下地こそが同じ国民という連帯感、すなわりナショナリズムに他ならない。
翻ってそれを食料安全保障に当てはめて考えてみよう。農業は保護され過ぎているというイメージが定着している現在の状況で「農業を保護する」という方向性を打ち出せば、間違いない国民からの強い反発を招く。いわく「日本の農業が諸外国に勝てないのは農業が守られ過ぎてきたからだ。自由競争を促進して生産力を高めるべき。」というところだろう。
しかし、そもそも日本は農業の生産性を拡大するには国土条件が厳しすぎる。農業は耕作地が大規模であるほど生産性が高めやすいが、日本は農地の平均経営面積が2.3ヘクタールほどしかないのに対し、EUは14ヘクタール、アメリカは196ヘクタール、そしてオーストラリアに至っては2,970ヘクタールだ。そもそもの規模が違い過ぎて話にならない。その上先程述べたように、日本の農業は所得的な支援もなく、関税も著しく低い。「生産性の向上を図るべき」などという次元ではないのである。したがって、日本の農業の振興を考えるのであれば、国からのサポート体制の拡充が何よりも欠かせないのが実態である。
しかし、繰り返しになるが問題は、国が特定産業の保護を進めようとした時に、国民がそれを受け入れる下地があるかどうかである。つまり、国民の間に「お互いに助け合う」という健全なナショナリズムが醸成されているかどうか、である。
ここ20年、あるいは30年もの長い間不況に苦しむ日本国内において、農業という特定産業を保護することには抵抗がある人もいるかもしれない。しかし、われわれが日々口にする食料を安定的に生産していくためには、農業を適切に保護していくことが重要なのは論をまたない。消費者である我々が農業の食料安全保障への理解を深めると共に、生産者たる農家も国民の安全保障を担うという気概を持って農業を営む。そのような一体感を持つことは当たり前のことではないだろうか。
ナショナリズムというと一般には右翼、あるいは国粋主義のようなラディカルな側面でとらえられることが多い。しかし、お互い同じ国民であるという健全なナショナリズムであれば、むしろそれによって国の政策を正しい方向へ導き、我々の生活を保障することになるのではないだろうかと思う。