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#1 雨の始まり

 オモチャのピアノが、調子外れな音を出している。
 調律も何もない、古くて小さなピアノだったけど、理由はそれだけではなかった。
 それを弾いているのは、トルタのはずだった。トルタのピアノの腕前は、その歌ほどではなかっただろう。でも、歌の伴奏のためだけという理由で習い始めた経緯を考えれば、充分すぎる。その、トルタのピアノが、今は聴くのに耐えないほどだった。

「……アル」

 涙声で、トルタはそう呟いた。ベッドからほんの少し離れた場所。私にはまるで背を向けているようだった。
 その、トルタを見つめているはずの私は――私ではなかった。
 私がここにいる理由。トルタが泣いている理由。そして、クリスが私を忘れてしまった理由。

「姉さん」

 全ての始まりはあの日――


***


「アル……アリエッタ……」

 クリスは、もう何度もそうして私の名前を呼んでいる。その後ろでは、炎上した車の周りに人だかりができはじめている頃だった。そして、いつしか降り出した雨が、クリスと私の身体にゆっくりと落ち始めていた。

「……アリエッタ」

 クリスは、繰り返しそう呟く。人が集まって来ていて、中には話しかける人さえ居たのに、全くそれには反応を返そうともせず、ただひたすらに私の手に、背中に、頬に触れていた。その指は震えていて、多分周りにできた人だかりの、誰もがその行為がなにを意味しているかは理解できていなかっただろう。でも、クリスがどんな想いでそうしているのかだけは、痛いほどによくわかっていたはずだった。

 ――私はそれを、遠くからぼんやりと眺めていた。感情は鈍くなり、驚きも、悲しみさえも薄れていくようだ。まるで空から、その光景を見下ろしているような気分になり、実際にそれが気分だけでないことにも気がつく。

「ねえ……クリス?」

 私は、クリスと同じようにその名前を呼んでみるが、それに対する反応はなかった。そうして何度も名前を呼んでいる内に、どうして自分の身体が見えているんだろうか、とか、どうして私は宙に浮くようにしてこの光景を眺めているんだろうとか……そんな当たり前の疑問も薄れていった。
 最後に残ったのは、クリスが、涙を流しているという事実だけだった。そして、それを悲しいと思う、最後の感情だけだった。

 その後のことは、良く覚えていない。自分の身体ではなく、クリスが乗せられた救急車に便乗するように乗り込み、今はぐったりと目を閉じている彼の側にいた。その手に、肩に、頬に触れようとしてみたけど、私は、自分の腕さえないのに気づかされただけだった。
 その頃にはおぼろげに理解はしていた。つまり自分は、死んでしまったんだと。

 その時の私がただひたすらに願ったのは、クリスが悲しまないで欲しいと、それだけだった。
 今はもう、クリスは病院のベッドに寝かされていた。治療室のような場所に連れていかれ、色々と検査をしていたみたいだったが、特に大きな怪我はしていないらしい。右耳の鼓膜がどうとか、お医者様が話しているのが聞こえたけど、それよりもまず、クリスが大丈夫だという事実に安心しきっていた。
 それからというもの、私はなるべく、自分の身体がどうなったとか、そんなことだけは考えないようにしていた。

 クリスの側で、そうして意味があるのかないのかわからない時間を過ごしていると、勢いよく病室のドアが開かれた。

「クリス!」

 トルタが、私達のお父さんやお母さんと、クリスの両親と一緒に部屋へと入ってくるところだった。
 ここが病院だということも忘れているのか、誰よりも早く駆け寄り、その手に触れた。それは、私が今一番望んでいたことで、その存在すらも定かではない今の状態では、絶対にできないことでもあった。
 そして――胸がどうしようもなく痛んだ。

「安静にしてれば大丈夫だって、お医者様も言ってただろう?」

 クリスのお父さんが、咎めるでもなく、優しくそう言った。トルタは、大きく息を吐き出して、それから頷いた。そして、私が今、一番知りたくない質問を口にする。

「……ねえ、それでアルは?」

 さっきまでの激情は冷めたのか、トルタは小さな声でそう言った。今度は私のお父さんが答えた。

「まだ……わからない。ただ、頭を強く打っていて……」
「どこ?」

 首を傾げ、トルタはもう一度訊ねた。幼い子どものような、無邪気に聞こえる声だった。

「ねえ、どこなの?」
「……まだ、治療室にいる」
「だからそれはどこだって聞いてるの!」
「トルタ……それを聞いて、どうするの?」

 お母さんが、ここに来てから初めて口を開いた。

「会いに行くのよ」

 さも、当然のことだと言わんばかりに、トルタは答える。さっき大きな声で叫んだときの感情は、今ではなりを潜めている。

「……まだ無理よ。あなたはここにいなさい」
「ここにいたって、どうにもならないじゃない」

 そして、今度は吐き捨てるように。
 トルタの中で様々な感情が入れ替わり、そのどれが真実なのかはわからなかった。

「アルのとこに行ったって、どうにもならないわ」
「でも! ……でも、だって……」

 そして、トルタは最後に泣いた。それが、彼女の中の一番強い感情だったのは、私にはわかった。


***


 それから、二日くらい経った頃だろうか。
 自らの身体が病室に運ばれていくのを、私は呆然と見送った。
 私はそれから逃げるように、クリスの病室にいた。

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