#7 こんな空の下で
笑顔だ。笑顔を作るんだ。
私がお父様から最初に習ったのは、フォルテールの弾き方でもなく、音楽の基礎でもなく、そんなことだった。
いつからか私は、笑顔を忘れていたのかもしれない。いや……いつか、なんて曖昧な時期ではなく、それは確かに、私がこの家に来てからのことだった。
この家?
ここはどこなんだろう?
私は本当にそこにいるんだろうか?
ここは私の家じゃない。私の家はどこ? 私はいったいどこにいるんだろうか。
家。住む場所。家庭。家族。少なくとも十年くらい前までは、私が住んでいたのは今思い出している綺麗で大きな家ではなかった。
違う。ここは、どこなんだろうか? もしここが今の私の家ならば、どうして私は無理をして笑顔を浮かべているんだろう?
音。音が聞こえる。
なにかを伝えようとする、はっきりとした言葉が。
緩やかな旋律に揺られるように、それは曲の形を取り始める。
でも――嫌だ。この曲は。この曲だけは、聞きたくない。歌えない。歌いたいのに。
優しいこの音を聴くだけで私の喉はこんなにも震え、歌うことを欲しているのに。
暗い。光は目から入ってきているはずなのに、この部屋はどうしてこんなに暗いんだろう?
でも、そんな疑問は疑問としてではなく、視界に映る残光のように、流れては、そして消えた。
時間は意味をもたず、世界もまた、意味をもたなかった。
フォルテールの音は、なおも途切れない。そして、瞳の中の光景は移り変わり、見覚えのある人の顔をまざまざと映し続けた。
そして私も、笑顔を浮かべ続ける。
でも私は、その笑顔を……無表情と同じ意味であるところの笑顔を、永遠に浮かべ続けていることはできなかった。優しい顔。優しい声。それが誰かはわかっているはずなのに、名前がでてこない。
「……ごめん、ちょっと、今は話せない」
そして、彼が泣きそうな顔をした。
「いや……いい……んだ。……だいじょう……ぶ、だから」
そして私は、泣きたくなる。どうして私はここでこんなことをしているんだ、と。
「……あ……く……クリス……」
名前を呼ぶ。喉が痛む。私はわけもわからずに手を伸ばす。実際は、手を伸ばそうとしただけだった。それでもその誰かは、すっと私の手を取って、もう一度泣いた。
彼の名前はもう、泡のようにはじけて消えて、私の口から出てくることはない。それでもその記憶は、私の中に、消えない傷のように残り続けた。
私はそれから、彼の顔を見つめ、彼の奏でる音を聞きながら時間を過ごした。そして時折は、窓の外の光景が移り変わっていく様を視界の端に映しながら。
そんな風に、ただ時間だけが無意味に過ぎ去っていった。
あれだけ嫌だったあの曲にも、今では慣れてしまった。繰り返される意味のない時間は、次第に意味を取り戻し、それ以上のなにかを私に与えてくれるようになる。
その音を。彼の声を。私はそれらを聞きながら、このままここで過ごしていくんだと、心の端でなんとなく思い始めていた。
しかし私の身体は、そんな弱い心を、泣き出したくてたまらない心を、あざ笑うかのように勝手に動き出す。言葉が口をついて出た。
それは私にとって――そして私以外の誰かにとって、すごく意味のある言葉だった。
「どんな今日だとしても」
「……え?」
「新しい日々が、塗り替えてゆく」
「そして……明日は……」
希望に満ち溢れているはずだった。
私は、思い出していた。思い出したくないこと。
それでも、思い出さなくてはいけないことを。
***
お父様は、今にも倒れそうになりながら、書斎のガラス戸に手をついていた。埃一つついていないガラスの滑らかな面には、それとわかるくらいに手の跡がくっきりと残った。それは、数あるお父様の嫌がることの中の些細な一つだったが、気にした様子もなく続ける。
「お前を愛している。だから、出ていかないでくれ」
私は、驚きを隠せなかった。今までそんな言葉を聞いたことはなかった。誰の口からも。でもそれは今、私に向けられている。
「今までしたこと全て間違いだったと言い切れるほど、私は強い人間ではない。しかし、それを認めなくてはならない時が来ているのかもしれない。もう一度だけ言う。もう二度と、誰にも言うことはないと思っていた。私は……お前を愛しているんだ」
「お父様……」
出ていかないでくれと懇願する、目の前の人は誰なんだろう?
私のお父様だ。少し前までは、そうではなかった。どこの誰とも知れぬ誰かに生を受け、そして今まで生きてきたのだと、ずっと思っていた。
でも、私の足は今確かにこの地に着き、何者かになれた気さえする。
「お父様……ありがとうございます」
心からのお礼を私は口にして、それから、謝らなければならなかった。
「でも、私は行かなければならないんです」
それはもう、決まったことだった。クリスさんの元へ帰らなければならない。居場所はそこにしかないと思っていたから。
でも、私にはもう一つ帰る場所ができた。ここに。お父様の元に。
「本当に、ありがとうございます。私のために涙を流してくれて」
――そう、お父様は、泣いていた。その瞳に映る感情は、今まで見てきたお父様のどんな感情よりも、私の心を揺さぶらずにはいられなかった。
怯え、哀願、そして、ひとかけの愛情さえ。
「でも私は行かなければならないんです。いつか、ここに戻ってくることもあるでしょう。その時は話をさせてください。お母様のことや、お父様のことを……」
「お前もなのか?」
私の言葉を遮るように発せられたその声に、また別の感情が混じった。
ぞっとするほど弱々しく、お父様には似つかわしくないとさえ思える。でもそれこそが真実の姿だと、唐突に感じた。
「……お父様?」
「お前も同じなんだな。エスクもそうだった。お前はあの女の娘だ」
「お父様。それは違います。私はお父様のことを捨てたりはしません。いつかここに……」
「同じだ」
それは、酷くお父様らしい言い方だった。
「……同じだ」
ああ……お父様は、本当にその人を愛していたんだ。お母様、と心の中で思うことはできない。会ったこともなければ、その名前も今までずっと知らなかった。
なにより、お父様の心に残り続け、そして責め続けている一人の女性のことを、私は心から憎んだ。
「……違います。本当に、違います」
お父様の足が、ゆっくりと前へと踏み出された。私はそれと同じだけ後ろに下がる。その先には開いたドアがあり、逃げだそうと思えば、逃げられた。
「逃げるな」
その声はゆったりとしていて、まるでソファーの上でくつろいでいる時のように、穏やかでさえあった。
しかしその顔は苦痛に歪み、いつものお父様の片鱗さえ残していない。
「……逃げません。お父様」
もう一歩、お父様は私に近づく。でも私は、今度は動かなかった。
「……リセルシア」
ゆっくりと、その手が伸ばされる。私達の距離は、もうすでに近すぎた。
ゆっくりと――まるでブリキの人形のようにぎこちない動作で、お父様は私の頬に触れた。多分、私も泣いていたのだろう。お父様は指についた私の涙を不思議そうに眺め、そして笑った。
「お父様」
私はあるだけの愛情を込めて、もう一度私の本当の父親に呼びかけた。その大きくて固い手が、頬からそっと下に降りていく。このまま抱きしめられるのかと思ったがそれは私の首の辺りで止まった。
「リセルシア」
「……はい」
「私は……お前を……」
ゆっくりと、その手に力が込められる。抵抗することは……できなかった。もし、この手を払いのけてしまったら、私は二度と、お父様とわかり合うことはできない。すぐ後ろにある扉から、走り去ることも考えられない。
――力はゆっくりと、しかし確実にその強さを増す。喉からうめき声が漏れた気がしたが、痛みがそれに勝り、私はそのうめき声がどちらの口からこぼれたのかもわからなかった。
「……リセルシア」
お父様は、何度も私の名前を呼んだ。そして、同じ数だけ、ここにはいないある女性の名前を呟く。
私は全てを受け入れた。
そして、なにかが壊れた。
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