#2 いかさまコイン
懐かしい風が吹いていた。煤けた壁と、細い路地。私は車から降りて、この場所の空気を思い切り吸い込んだ。
「何をしている? こうしている時間も惜しい。中に入って、用意を始めろ」
この場所は私にとって大切な場所だから、という言い訳はお義父様には通用しない。まともにフォルテールを弾けるようになってから始まった、年に一度のこの時間を、私がどれほど楽しみにしているかは、きっと理解できないだろう。今までも、これからも。
「私の方は、いつでも大丈夫です」
軽やかにそう答える彼女を振り返る。今年はさらに、少しだけ特別だった。私のあこがれでもあったファルさんと一緒に演奏できるなんて、思ってもみなかったことでもあった。お義父様には感謝していたし、ここへ一緒に来てくれた彼女にも、感謝をしていた。だから、この場所へ戻ってきた感傷からもすぐに立ち直り、肩のフォルテールのケースをかけ直して私も答えた。
「わ……私も大丈夫です」
「ならいい」
すでに私の方を見ずに孤児院へと入っていくお義父様の後ろに続く。ファルさんはそんな私を見て軽く微笑み、先に中へと入っていく。私は一度だけ振り返り、人通りの少ない路地を眺めた。紐に吊された洗濯物は、所々汚れていたりほつれていたりしたけど、それがすごく懐かしくて思わず頬が緩んだ。
ちょっとだけかび臭い匂いのする室内へと入ると、この孤児院の母親でもあるアッズィーロさんがお義父様となにかを話し合っているところだった。話し合いといっても、アッズィーロさんの賛美の言葉にただ鷹揚に頷いているだけにも見えたけど。
学院での今年の授業が終わってすぐ、私達三人は、孤児院を巡っては無償で演奏をしている。悪意あるうわさ話では、ただの売名行為だと言う者もいた。でも私は、それだけじゃないことを知っている。たとえお義父様にそのつもりがなかったとしても、私達は素晴らしいことをしている。フォルテールを用意する私の様子を窺う子ども達の目を見れば、それがわかるだろう。その瞳は、様々な憧れに満ちていた。
かつては私も、そんな目でお義父様のつれてきてくださった音楽家の人達を見ていた。必ずしも、そんな風になりたい、と思っていたわけじゃない。ただ、きれいな歌声とフォルテールによって紡がれる、音楽が好きなだけだった。とくに、あんな風に歌えたらと思うことは何度もあった。その願いは……結局は叶わなかったけど。
でも、それを残念だと感じるのは、あまりにも傲慢な考えに思えた。私はこうして何不足なく与えられ、ここでの生活とは比べものにならないほどの生活を得たのだから。それを残念に思うことなど、ここにいる子ども達を見ればできそうもなかった。
歌を歌いたい、という願いは、ただのわがままに違いなかった。私にはフォルテールを弾くことのできる才能があり、それを喜んで受け入れなければならない。
そのはずだった。
――そして、私に歌って良いと言ったあの人のことを、少しだけ思い出してしまった。
「リセさん?」
部屋の中央に置かれていた大きな机はすでに取り払われ、木でできた椅子が綺麗に並べられていた。そこに座る子ども達の視線に気づき、それからすぐ横で不思議そうな顔をしているファルさんの視線とぶつかった。
「あ……ご、ごめんなさい」
「ふふ。それよりも、そろそろ始めましょう。待ってるみたいだから」
ファルさんは、笑顔を浮かべ、私にだけ聞こえる声でそう言った。そして、なにもかも用意が整っていることにも気づかされた。子ども達の椅子の後ろでは、お義父様が幾分高級な椅子に腰を下ろし、怪訝そうな目でこちらを見ていた。そして、物思いに耽っている間、自分でもあまり意識せずにフォルテールの用意も終わっているようだった。そんな一連の動作にも慣れてしまっていたようだった。
「で、では、始めます」
私を見る無数の目から視線を外し、ファルさんと向かい合う。彼女とこうして合わせるのは、学院が終わってすぐ、お義父様に書斎に呼び出された時が初めてだった。それからたったの三日間ほどだったけど、時間と回数を重ねて練習をしてきた。タイミングはわかっていた。
私は彼女と視線を合わせ、小さく頷く。鍵盤に指をかけ、静かに弾き始めた。すぐにファルさんの声がその音に重なり、美しい旋律を奏で始める。透き通るような彼女の声が部屋にこだまし、ふと見渡した子ども達の顔を見て、私は少しだけ嬉しくなった。そして同時に、どうして私はこんな風に歌えないんだろうかと……本当に少しだけ、羨ましく思った。
心に浮かぶのは、クリスさんのただただ優しいフォルテールの音だった。
全てが終わり、鍵盤から指を下ろしてほっと一息をつく。私が歌うことはできなかったけど、こうしてファルさんの歌声を聴いていると、本当に気分が穏やかになっていくのがわかった。
顔を上げて彼女になにかを言おうか思ったが、大きな拍手によって止められた。子ども達は、私達の演奏を聴いて、目を輝かせている。その後ろではアッズィーロさんが笑顔を浮かべ、お義父様もいつも通り憮然としてはいたけど、唇の端を少しだけもちあげて、かすかに笑っているように見えた。めったにそんな表情を浮かべることはないのに、今日の演奏がよほど気に入ったということなのだろうか。
だとしても、それが私の力だとは思えない。共に歌っていたファルさんの歌が、素晴らしかっただけに違いない。
だって私は――いつもの無心の演奏とは違い、他の誰かのことを思い浮かべていただけなのだから。
***
アッズィーロさんや、かつての私と同じ子ども達の手厚い歓迎を受けた後、私は部屋に一人でいた。電灯は備え付けられてはいるが、ここではローソクの灯りで夜を過ごすのが普通だ。その懐かしい揺らめくような光を背に、二段ベッドの下、膝よりもさらに低い位置にある硬いクッションに腰を掛け、私はうつむいていた。ベッドの上の段は、今日は誰にも使われることはない。この部屋は、アッズィーロさんが私のために用意してくれた最高のもてなしだった。
昨日の夜はお義父様やファルさんと同じホテルに泊まったが、ここが私の生まれ故郷だということもあり、今日だけはここに泊まらせてもらえることになったのだ。
そして――理由はわからなかったが、ファルさんも今は隣の部屋で寝ているはずだった。
心のこもった料理、そして、何年か前からお友達になれた子ども達との会話。そんな時間が私に優しくて、つい心が緩んでしまった。
今年から通うことになったピオーヴァ音楽学院のこと。そしてフォルテールのこと。毎年同じようなことを繰り返して話している気がするけど、その度に喜ぶ彼等の顔を見ると、断ることもできなかった。
つまり私は、羨望の的でもあったのだ。望む、望まないに関わらず。
ここにいる子ども達は、なにももっていない。だから憧れる。私の得た、夢のような生活を。
……それがどんな意味をもっているかを、彼等は知らない。いや、知ったとしても、それでも望むだろう。私のもつささやかな不満は、一笑される類のものだった。
「……でも」
思いも掛けず口に出てしまった言葉を、私は飲み込んだ。なんて思い上がった言葉だろう。それでも、歌いたかった……なんて。
あの頃の私は、ただ歌えるだけで幸せだった。一人で歌っているのも確かに好きだったけど、アッズィーロさんのピアノに合わせて歌うのが一番好きだった。誰かと繋がり合えた気がして、誰かと一緒になにかを作り上げている気がして。だからピアノを覚えようとせがんで、まだ小さいからって触らせてももらえなかったっけ。
そして、私は片隅に忘れ去られたフォルテールに目をつけたんだった。
今思えば、あの時フォルテールを弾かなかったら、私はどうなっていたんだろうか。もう少し身体が大きくて、ピアノを教わることができていたら。今とは全然違う自分になっていただろう。ひょっとしたらこの町で、なにかの小さなお店の手伝いをしていたかもしれない。
でも、現実は違う。誰か――ひょっとしたらお義父様かもしれない――有名な貴族の方が寄付をしてくださった、古い古いフォルテール。調律もろくにされてなくて、でも誰も弾くこともできなくて、誰からも忘れ去られた置物のように埃をかぶっていたその楽器。私は、ピアノから視線を外して、不意にその魔法の楽器に触れてみたのだった。
それからは、周りの誰からも違うように見られたっけ。調子の外れたような音が、思わず笑ってしまうような貧相な音がその楽器から流れ出た途端、私は、そして私の人生は変わってしまった。多くの貴族の方が、こうして今の私達のように孤児院に演奏を聴かせにきてくれるという話は聞いていたけど、あまりにも孤児院が多すぎて、何年か――もしくは十数年に一度あれば良い方だったはずなのに。
その年いきなり、お義父様がここにやってきた。
それからのことは、あまりにも早く時が流れてしまったような気がして、思い起こすのも大変なくらいだ。養子としてお義父様の子どもになることが決まり、周りからは羨望の眼差しで見送られた。断る……という選択肢は、少なくとも私には与えられなかった。誰もが目を輝かせ、私の幸せを確信に満ちた口調で話していた。私は、ほとんど自分の意志で考える暇も無く、まるで上から流れ落ちる水のように、今の生活を得たのだった。
そのことを……少なくとも後悔はしていない。できるわけがない。私は……。
「……私は、幸せなんだ」
そう、誰もが言った。
誰にも聞かれることなく、その呟きは溶けて消えた。私はローソクの火をふっと吹き消し、静かに立ち上がり、そっと部屋を出た。明かりのない廊下を足音を立てないようにすり抜け、目当ての場所へと向かう。子ども達はもう、すでに寝静まっている頃だろう。どうしても軋んだ音を立てしまう木の廊下を抜けた先にあるのは、広くもなく、そしてけっして狭くもない居間だった。
その片隅に、その楽器は今もひっそりと佇んでいた。私が見つけた時と一つだけ違うのは、その上に綺麗なカバーが掛けられていていることだっただろう。私がここを出てから、初めて戻ってきて演奏をしたあの日、アッズィーロさんが満面に笑顔を浮かべて言っていた。これは希望なのだと。ここで暮らすことを余儀なくされた子ども達の、希望なのだと。
私の名前は、多分この孤児院で忘れ去られることはないだろう。過分な幸せをつかんだ女の子。この楽器を弾くことができれば、きっと幸せになれるだろう、と。
そして私は、そっとそのカバーを取り外し、鍵盤に軽く触れてみた。これが全ての始まりだったんだと、改めて思い返しながら。
「……まだ寝てなかったの?」
「え? あ……ファルさん」
「こんな夜に弾いたら、怒られるんじゃない?」
「……いえ、弾くつもりはなかったんです」
私は指を鍵盤から離し、ファルさんと向かい合った。
「そうなんだ」
彼女は、私にその理由を尋ねることもなく、ただ微笑んでいた。なにかを話さなくてはいけないような気がして、その言葉を探した。そういえば、まだファルさんがここに残るといった理由もきいていない。
「ファルさんは……どうして?」
「ん? ちょっと眠れなかったから。水でも飲もうかと思って歩いてたら、リセさんの背中が見えて」
「そ、そうですか」
「あなたも眠れないの?」
「……ええ」
素直に頷いて、カバーをかけ直そうと手に取ると、その手を止めるようにファルさんがそっと私の手をとった。
「少し、弾いてみない?」
「でも、時間が……」
「小さな音なら大丈夫よ。みんな疲れて眠ってるから」
ただ憧れの目で見られる私とは違い、ファルさんは子ども達ともすぐにうち解けていた。最初は遠巻きに見ているだけだったけど、彼女の笑みには不思議な力があるようだった。すぐにファルさんを囲む輪ができた。そして、子どもたちに遅くまで遊びにつきあっていたファルさんのその姿が、私の目には眩しく映った。
彼女は、私とは違うんだ。いや、私が彼女と違いすぎると言った方が正しい。
それも、悪い意味でだけ。
「子守唄でも駄目かな?」
私の不自然なくらい長い沈黙に、ファルさんが少し困ったような声でそう言う。
「い、いえ。そういうわけじゃ……」
「なら、少しだけ弾いてよ。私も小さな声で歌うから」
まるでいたずらっこのように小さく笑い、ファルさんは私から取り上げたカバーを綺麗に折り畳む。私も、ファルさんの歌声が聴けるのなら、と頷いた。
「ありがとう。このままだと眠れそうになかったから」
そう言って、思い切り声を出すときとは違う、くつろいだ様子で机に腰をかけた。私はそれを合図に、よくよく注意をしながら小さな音でフォルテールを弾き始めた。
淡い月の光が、少し高い位置にある窓から彼女の姿を浮かび上がらせる。その幻想的な光の中で、目を閉じ、ファルさんは小さな声で歌い始めた。柔らかなその声に、私も目を閉じる。
小さな音楽会は、いつ果てるともなく続いた。羨ましいと思っていた浅ましい自分も、彼女のその歌声を聴ける幸せの前では消え失せた。ただこの時間が楽しく、いつまでもこうして繋がっていたいとさえ思っていた。でも、終わりの時は必ず来る。幸せな時間にも、そうでない時間にも。
「……ふう。気持ちよかった」
「お、お疲れさまです」
「うん、お疲れさま」
私の知っている何曲かの子守唄が終わり、二人でしばらくその余韻の中に浸っていると、ファルさんが思い出したかのようにさりげない口調で私に話しかけた。
「そういえば、今日のフォルテールの音は、昨日とも少し違ってたみたいだけど――」
「え?」
「なにかあった?」
「なにか……ですか?」
ファルさんは無言で頷き、私の言葉を待っていた。彼女がなにかを感じたというのなら、それは確かにそうなんだろう。でも、思い当たるのは、ここが私の生まれ育った場所であることと……そのせいで強く思い出してしまった、クリスさんのことだけだった。
あの日、私からクリスさんに別れを告げた。もう来ないでください、と冷たい言葉を投げかけた。そしてその約束は守られた。あのまま私が歌っていたら、クリスさんに迷惑をかける結果にしかならなかっただろう。だから、私は正しいことをしたんだ。それだけだ。
……でも、実際は来てくれることを望んでいたのかもしれない。それでも私のことを気に掛けてくれるんじゃないかとか、そんなずるい打算がわずかにでも存在したからこそ、私は忘れることができないでいる。歌うことが許されたわずかな時間、それは確かに幸せな時間だった。
「やっぱり、なにかあったんだね」
その、彼女の歌う歌と同じくらい優しい声に、私ははっと意識を戻す。
「ここがあなたの生まれた場所?」
「……そうです。知ってたんですか?」
「今知ったの。私達が回る孤児院の中に、リセさんが暮らしてたところがあるって話は聞いてたけどね。昨日と違うのは、そのせい?」
「……それも、あるかもしれません」
意識してついた嘘ではなかったけど、私はクリスさんのことをむりやり心から追い出した。
「なら明日は、私の番かな」
はにかむような笑顔で、静かにファルさんはそう呟く。ファルさんの生まれ育った場所――明日行く孤児院は、そういう場所なんだろう。
「明日は……今日以上にがんばらないと」
まるで独り言のようにそう言って、ファルさんは今まで見せたことのない様な真剣な顔をした。彼女もまた、希望なんだろう。私とは……ただ才能というのもおこがましい、幸運だけでここにいる私とは違う、本当の希望。
そこには、私が憧れてやまない、理想のもう一人がいた。
あの時、会いに来ないでくださいと言ったはずなのに、私に会いに来てくれた、優しい人。私の大好きな、憧れの人。
なりたかった、もう一人の自分。
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