ユメミデイドリーム
***
これは夢だ。
夢だとわかっていても、自分の意志では目覚めることができないことを、なんて言っただろう?
あの頃のことなんて思い出したくもないのに、それは鮮明に、僕の目の前に現れて――心をざわつかせる。
声は聞こえない。
誰も、しゃべっていないから。
姿は見えない。
誰も、そこにはいないから。
……どうして僕は、こんな夢を見ているんだろう。
何もないのに。
何の意味も、ないのに。
真っ暗闇の中で、僕はただ膝を抱えて、じっと座っている。
早く、この悪夢が終わってしまうようにと。
――なとくん。
声?
……あのときは、誰もいなかった。
だから、これは夢じゃない。
――奏斗くん。
今度は、はっきりと聞こえた。
僕を呼ぶ声。僕の名前を、呼んでくれる人。
僕の、大切な――。
「もう、こんなところで寝たら風邪ひいちゃうよ?」
目を開けると同時に、息を吸い込んだ。
穏やかな……日常の香りが、鼻腔を満たす。
これは、夢じゃない。夢の中では、匂いを感じることはないから。
「奏斗くん?」
その呼びかけに応えるように、ややぎこちない動作でソファーから上半身を起こすと、額からあふれ出た汗が目に入って、思わず目を閉じる。
指でその汗を拭いながら、これじゃあまるで泣いてたみたいだと、どうでもいい感想が頭に浮かんだ。
それを誤魔化すために大きなあくびをして、それから何事もなかったように言う。
「おはよう、夢美」
「おはようって……もう夕方だよ?」
七星夢美――僕の幼なじみは、心底呆れたようにそう言った。
そんなささいな現実でのやりとりで、夢に引っ張られていた記憶が徐々に蘇る。
学校の帰り道に急な雨に降られた僕達は、制服を乾かすために夢美の家に――この七星家にお邪魔したんだった。ここなら僕の着替えも常備されているし、いつも通り夕食もご馳走になることもできる。普段なら一度自分の家に帰って、着替えてくるところを省略しただけ。
ただ、一緒にテレビを見ていたはずが、居間のソファーで眠ってしまったのは失態だった。こんな夢を見るのは、本当に久しぶりだ。年に一度、この時期にだけ……どうしても、思い出してしまう。あの頃の夢を。
「まだ寝ぼけてる?」
心配そうに僕の顔を覗き込む夢美に、僕は軽口を交えて答える。
「ん? ああ……いや、寝て起きたら、おはようじゃダメなのかな? なら、昼寝から覚めたら、なんて言うのが正しいんだろう? 夢美、知ってる?」
「え? あ、あー……なんだろ。おそ……よう? ってマンガで見たことはあるけど」
「それはおかしい、と思う」
「ひ、ひどいよ! 奏斗くんが聞いたから真面目に答えたのに……」
「ごめんごめん。寝起きだから、つい」
「なにがつい、なのかわからないけど……あ、そうだ。ご飯できるって、お母さんが言ってるよ」
振り返ると、リビングを一望できるアイランドキッチンの向こう側から、手を振る夢美のお母さん――七星麻美さんの姿が。
「じゃ、わたし手伝ってくるね」
「僕も手伝うよ。お皿を出せばいい?」
「んー、お皿はわたしがもってくから、奏斗くんはお箸をお願い」
「了解」
パタパタと台所に駆けていく夢美の背中を眺めながら、もう一度深く息を吸い込む。
お魚の焼ける匂い。炊きたてのご飯の立てる蒸気。
この家は、いつもそんな、当たり前のように存在していて、それでいてとても大切な何かで溢れている。
「奏斗ちゃん。おはよう」
お箸を取りに台所に行くと、麻美さんが笑顔で迎えてくれた。
たぶん、さっきの夢美と僕の会話を聞いていたんだろう。おはようの所だけ、やけに情感がたっぷりだった。
「おはようございます、麻美さん」
食器棚の引き出しには、僕のための箸もある。自分がここにいてもいいんだと、そう言われている気がして、心が温かくなった。
夕食を終えた僕は、なぜかまだ七星家にお邪魔したまま、ぼんやりとテレビを見ていた。
なんとなく、まだ夢の余韻が残っているみたいで、一人の家に帰りたくなかった……というのも、少しはある。
「あー、やっぱりうちのソファーって、気持ちいいよね」
お風呂上がりにパジャマに着替えた夢美は、ソファーに寝転がって足をパタパタさせている。
なんでも、夢美のお父さんが海外出張の時に超巨大な家具屋で一目惚れして買ったという逸品だ。お値段はそれなりだったものの、空輸の料金のほうが高くついたらしい。
「わたし、今日はここで寝ちゃおうかな」
「ダメだよ、風邪ひいちゃうから」
「えー? 奏斗くんだって寝てたのに」
さっきの昼寝は別として、ボクは過去に二度、夕食後にソファーで寝てしまったことがある。その時のことを、夢美はいつまでも昨日のことみたいに言う。ただし、僕に反論の余地はない。
「それはそれ、これはこれ」
テレビではちょうど、須賀浜臨海公園のイルミネーションが映されていた。定番の音楽と共に、色取り取りの光が画面を埋め尽くす。
その光景は幻想的にも、儚げにも見えた。
「ねえ、奏斗くん。今日泊まってく?」
「……どうしたの? 急に」
本当は、急にじゃない。クリスマスが近づいて、その度に僕がこんな風に落ち込んでいるのを見ると、夢美はよくそんなことを言った。麻美さん定番の冗談で、僕は隣に帰るだけだからそうしないって、分かっているからこそのやりとりだったけど。こんな時の夢美は、少しだけ本気っぽく言う。
「ほ、ほら。幼なじみが、朝起こしに来てくれるっていうシチュエーション、よくあるでしょ? 憧れない? そういうの」
でも、本当の理由を言えない夢美は、そんな風に誤魔化した。
だから僕も、笑いながら返す。
「女の子の部屋に入るのは気が引けるけど、夢美がそこまで言うなら……」
「ち、違うよ! わたしが奏斗くんを起こすの」
「でも夢美、いつも僕よりも遅くまで寝てるよね」
「そ……それは……」
「じゃあやっぱり、僕が起こしに――」
「それはダメ! だって、寝起きの顔なんて、奏斗くんには見せられないよ!」
「うーん、毎朝見てる気がするけど」
「それは一応起きてからだからいいの! でも寝顔は……ほら……違うもん」
「それはいつか、夢美が早起きできるようになってからだね」
「もー! そんなのすぐだもん!」
ぷんぷん、っていう表現がよく似合うような怒り方で、夢美はソファーに置かれていたクッションを叩いている。
「さて、と。そろそろ帰ろうかな。制服も乾いたみたいだし」
まだ怒りがさめやらない夢美は、時計を見て、残念そうに頷く。
「そっかぁ。じゃあ、また明日ね」
「うん。麻美さんにもよろしく伝えておいて」
夢美と入れ替わりで、麻美さんはお風呂に入っている。女の子のお風呂は長いもの、って相場が決まっていて、麻美さんも例外ではなかった。
「はーい、ちゃんと伝えておくね」
「また明日」
乾燥機から取り出した制服を片手に、勝手知ったる七星家の裏口から外に出る。
雲一つない、綺麗な夜空だった。
吐く息は白く、吸い込んだ空気は、肺を刺すように冷たい。
明後日はクリスマス。
母の命日が、近づいていた。
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