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和法

※この文書は、私がwebサイトで公開している電子書籍の内容をそのままコピーして公開しているものです。電子書籍化されたものがそちらで手に入ります。

はじめに

このテキストは、人と人とが良好な関係を築くための技術である『和法』とその考え方について説明します。

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1章 和法の意義と概説 なぜ和することが必要なのか

ー 調和とは何か -

和法とは、私たちがある他者との間に調和した円滑な関係を築くための方法です。

これと正反対なものが不調和な関係です。不調和な関係とはつまり敵対しあい、相互に利益を損ない失敗し続ける関係、常に緊張と危機感があってくつろぎを得られない関係のことです。

時には、他者に対して攻撃的に振る舞うことも必要だ、と思う人は居るでしょう。「あまり弱腰でいると自分の大切なものを奪われてしまうかもしれない」「誰とでも仲良くしようなんて綺麗事。もしも誰かが悪意を持って襲いかかってきたときに、あなたは責任を取ってくれるの?」と、こうした考えは誠にその通りです。場合によっては、武力を用いなければ自分の身を守れない瞬間があることは、人類の歴史がそれを証明していると思います。

けれどその点に同意した上でなお、筆者はもっと別の次元の「関係」について話を進めたいのです。このテキストにおける『調和』の概念は、常に相手の善意を信じるとか、自分は我慢して他者を利する自己犠牲の精神を養う、などという考えとは全く違うものです。

このテキストの中で目指す『調和』とは、例えばライオンとシマウマとがお互いの損害を最小限に留められる距離のことです。仮に私たちがライオンであるとすれば、それは大きな群れでお互いを守りあっているシマウマには手を出さず、病弱で群れから離れているシマウマを狙って狩りをすることを意味するかもしれません。またもしも私たちがシマウマなのであれば、それは常に交代で見張りを行い、危険な肉食動物から身を守るために群れから離れることなく生きていくことを意味するでしょう。

つまりここで言う『調和』とは、どうしたところでこの世界の自然法則に支配され制約を受けている人類一人一人の、幸福についての、論理的な最高効率の道なのです。

現代、価値観の違う数え切れないほどの人間が社会に寄り集まって生きています。しかもその一人一人が違う感性を持ち、お互いの利害は容易には噛み合いません。

その混沌とした現実を見据えるとき、結局のところ私たちは、そこから誰も除外されることのない最大幸福の追求、という理念を掲げ調和を模索する以外に理想を持ち得ないでしょう。

もし調和の道を拒絶するとしたら、その時私たちは個人的な争いと国家間の戦争の果てしなく残酷な痛みを通して、他者の存在は私たちが思うよりも弱くもなく、また容易く無視できるものでもないのだ、ということを学ばされることになるでしょう。

単なるファンタジーとしての調和ではなく、差し迫った問題の解決策としての現実的な『調和』を目指すことは全く絵空事ではないし、多様化した価値観の中で生きる現代の私たちにとって、意味の無い知的な遊びという訳でもないのです。

ー 価値の違い ー

先ずある事実を明確にしたいと思います。それは、複数の人間同士の価値観が同じになることは絶対にない、ということです。価値観の違いというのは絶対的なものです。優しさや勉学や修養によって埋められるようなものでもありません。人間が二人居ればそれぞれの価値観は絶対に違います。

そのようにはっきりと言えるのは「価値」という概念それ自体の性質によります。あるモノの「価値」を見定めようとするならば、そのときには必ず「主体」が無くてはなりません。主体が無ければ価値は定まらないということです。少し例えをしてみましょう。

コップ一杯分の水の価値について考えます。この水の価値は、それを誰の視点から見るかによって変わります。砂漠の旅人が水を切らして死に瀕しているとき、コップの水は命とほぼ同等の価値を持ちます。しかし一方で、日本の一般家庭においていつでも蛇口から水を飲める状況にある人にとっては、コップの水はどれだけの価値があるでしょうか。これはその人がどれだけ新しいコップを欲しいと思っているかによるでしょう。水はいくらでも手に入ります。この時は水に価値はないのです。

「誰にとって?」という視点によってモノの価値は変わります。これは無形のものについても同じように言えます。

今あなたの目の前にボタンが一つあって、あなたはこう説明を受けます。「そのボタンを一回押すと、8000円貰えます。代わりに、地球の裏側であなたの知らない誰かが一日お腹を壊します。後遺症などは残りませんが、今日一日はずっと寝込んでいなければならないほどの苦しみを感じます。」さて、あなたはボタンを押すでしょうか?

多少迷うかもしれません。押すという人も押さないという人も居ると思います。ですが説明の内容がこう変わったらどうでしょうか。「そのボタンを一回押すと、8000円貰えます。代わりに、あなたの一番大切な人が一日お腹を壊して苦しみます。」こうなるとボタンを押す人の数はぐっと少なくなるのではないでしょうか。ではそこから更に進んで、8000円の代償に一日苦しむのがあなた自身だったなら、あなたはボタンを押すでしょうか?押さないでしょうか?

この思考実験からわかるのは、感情とか感覚といったような「心」の内容についてもやはり価値を通して考えることができ、しかもその価値は、コップの水のような目に見える物質の場合と同様に「誰にとって?」という視点に依存しているのだということです。

あなたの知らない誰かの苦しみは、あなたにとってはほぼ無価値でどうでも良いものです。しかしあなたの知っている誰かの苦しみは、もしそれを避けられるとしたらいくらかのお金を支払う価値があるでしょう。そしてまた、あなた自身の身に苦しみが降りかかろうとしている時には?あなたはそれを避けるために、いくらまで支払っても良いと考えるでしょうか。

このように、価値というものは常に「誰にとってなのか?」という視点ないし主体に依存して決まっていると言えるでしょう。

AさんとBさんという二人の人間が居るとします。感覚器官がそれぞれ二系統。AさんとBさんの仲がどれほど親密で分かり合えているとしても、AさんはBさんの視覚や聴覚をありのまま受け取ることはできません。せいぜいが想像するくらいなのです。

ですから当然に二人の感覚が完全に一致することなど有り得ないという至極簡単なこの事実は、ここに二つの主体、二つの視点が絶対的に別々に存在しており、それ故に二人の価値判断の基準は一致不可能である、ということをも表しているのです。

ー 対立の根源と問題の拡大 -

前項で述べたように人間の価値観は不一致です。ある自動車一台にどれだけの価値があるのか。それについての意見は人によって絶対的に分かれますが、このことは相互協力的な社会を作る上での不都合な真実だと思います。

物の値段や、社会常識について考える時に、私たちはそれらが個々人の価値観の違いという矛盾の上に「無理矢理覆い被せられた妥協点」なのだということを見抜かねばならないでしょう。

人間一人一人の価値観は相違しています。目に映る世界そのものが相違していると言っても良いかもしれません。こうした根本的な相違から人と人との間に不調和や対立というものが生じ始めるのですが、さてこの不調和の解決を論理的な正誤善悪という形で捉えてしまうと、何が起きるでしょうか。

始めの内は対立している当事者であるAさんもBさんも、それなりに最もらしい論理を並べていくことができるでしょう。ですが話が進めば進むほど、テーマが些細になればなるほど、お互いの相違が浮き彫りになっていきます。

論理は統一的なものを求めますが、AさんとBさんの感性と価値観は統一されません。結局最終的に、議論は何の妥協点も見いだせずに水掛け論になり、AさんとBさんはせいぜいお互いを「あの人には論理が通用しない」、つまり「論理上の絶対悪」とレッテル付けるだけなのです。

こうした形で生み出された「論理上の絶対悪」は簡単には払拭できません。

私たち人間は、自分の頭の中に作り上げた論理によって自分を納得させ、現実のストレスから身を守っています。ですから一旦「この人は悪だ」という答えが出て、その考えの整合性に安心感を覚えてしまったなら、それを覆して無に帰することは難しいのです。そこには精神的な苦痛が伴うからです。

こうして私たちの中に「偏見」が生じ、それがまた憎悪と恐怖を呼び、次第に他者を巻き込んで集団的な闘争に発展していきます。個人同士の身体感覚の違いから始まったものが、最後には戦争にまで辿り着いてしまうのです。

さて、AさんとBさんの関係に欠けているものは何だったのでしょうか。

欠けていると言うよりもむしろ、余計だったと言う方が正しいかもしれません。それは、お互いの価値観の相違から始まる対立に「論理を持ち込んだこと」です。

人間一人一人の価値観の相違は絶対的なものです。「論理」によってそれを統一できるとか乗り越えられるという考えそのものが間違っており、この点が理解されていないことによって、二人の間に悲劇が生じてしまったのです。

これはつまり、他者尊重についての間違いなのです。価値観は、身体感覚は人それぞれ違います。違うからこそ話し合い、相手の感じ方を教えてもらい、相手と自分との価値観の違いを共有していくこと、相互に分かり合っていくことこそが問題解決への道なのです。

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2章 ”私”をほどく 和法の基本姿勢

ー 対立の不在 -

和法を調和の理論だとすると、その反対には対立という関係性があります。二つの主体が相互に排他的エネルギーをぶつけ合い、緊張を高めていくという状態、ひたすらエネルギーが空費され、お互いに苦しみと焦りだけが増していくような状態です。宗教的な言い方をするならば、一種の精神的な地獄と言っても良いかもしれません。

この状態の行き着く先にあるのは「他者は尊重しなくてはならない」とか、「私や私たちだけが他者に比べて重要な存在なのではない」というような、至極明白だけれど場合によっては受け入れがたいこの世界の根本的真理の確認作業です。ある意味では、人間世界における悲惨な殺し合いや相互破壊、戦争等々といった過酷な出来事こそがその為の学習機会なのだとも言えます。

和法の理論は、他者尊重という経験的真理の延長線上にあります。私たちは過去の人類の戦争や自らの生活上の争いなどを通して、私たち一人ひとりが社会で生きる上では、回避できない不都合と痛みがあるということを直視し受け入れるからこそ、他者との調和の理論を必要とするのです。

もしも誰かがそうでない道を選ぶのだとしたら、つまりその人が他者を尊重する必要など無いという考えを持っているのであれば、そういった人々は今はまだ和法とは無縁です。しかし遅かれ早かれ、いつかはこの技法を必要とするでしょう。そういった人々の行く先には必然に対立と闘争の苦しみがあり、それを通して他者尊重の真理を精神の深い領域にまで刻み込む、学びの時が控えているからです。

さてこのように、和法は対立という状態を乗り越え克服するためにあるものです。この論理の中では「対立」より悪い状態は定義できません。ですからこの技法の一番最初の段階として私たちが注意すべきことは決して「対立しない」ということなのです。

もしもあなたと誰かとの間に対立が始まった、と感じたときには、あなたはすぐさまその場を離れなければなりません。その関係の先にあるのは破綻であり、非効率な失敗したコミュニケーションだけだからです。骨折り損をするくらいなら、全く何もしない方がずっとマシです。

頭の中に、常に自分と相手との関係性のイメージを持って下さい。仮にあなたとAさんとが、戦争について話をしているとしましょう。お互いの立ち位置はどんなでしょうか。向かい合って、お互いの眼を見て、お互いの顔に向かって話をしているイメージでしょうか?

もしそうだとしら、これはもうダメです。これは失敗した関係です。対立しないこと。文字通りです。他者に相対して立っているのだとしたら、その関係は遅かれ早かれ破滅をもたらします。そうではなく、あなたはAさんの”隣に”立っていなければならないのです。そして二人並んで、同じ「戦争」の景色を眺め、それについてお互いの気付きを教え合わなければならないのです。

ー 真実を「共に見上げる」こと -

あなたとAさんとが、並んで同じ真実を見つめること。イメージとしては簡単ですが、実際にそのような関係を実現しようとすると、私たちは大きな問題に直面します。

それは、何が本当の真実なのか?という問題です。

Aさんはもしかしたら、ある事柄についてあなたがこれまで聞いていたのとは全く違う見解を持ち出してくるかもしれません。例えばあなたが立派だなぁと思っていたある慈善活動団体について、Aさんはこう言うかもしれないのです。「あの団体は酷いよね。表面上は綺麗事ばかり言っているけど、強引なやり方で周囲の反対には耳も貸さない。それで結果が最悪の状態になってしまったとしても、自分たちは何の責任も取らないんだよ。」

さて、あなたは困ってしまいます。以前手に取ったその慈善団体の広報誌には、援助を受けて嬉しそうに笑っている子供たちの写真が写っていました。それはとても取り繕った見せ掛けの光景とは思えないものでした。

それとは正反対のイメージを持ち出してくるAさんに対してあなたはどう言うべきなのでしょう。「そんなことない。」と言うのが答えでしょうか。「そんな悪い見方をする君の性格が歪んでるんじゃないか?」という台詞がそこへ続くでしょう。そしてまた、お決まりの対立のパターンへと引き込まれていくのです。

こうした場合に、私たちはどう振る舞えば良いのでしょうか。私たちが知っているのとは全く違う、恐ろしい或いは腹立たしいようなイメージを持ち出してくる相手に対して。

「なるほど」というのが答えです。

これは相手の見解こそ真実だと信じる、ということではありません。そうではなく「なるほど、君という個人がこの世界から受け取った情報は、それなのだな。」という見方です。良くも悪くもAさんの眼には世界はそのように映っているのです。そういう風に見えている、そういう見解をAさんは仕入れている、という事実を先ず受け入れるべきなのです。

その台詞はこう続きます。「なるほど。そういう情報があるのか。私はずっとこういう風に聞いていたから、そのことは初めて知ったよ。一体どれが本当なのかわからないね。もっと調べてみようよ。」

この姿勢が隣に立つということです。あなたとAさんは同じ見解にいます。つまり「わからない」という地点です。ここに対立はありません。単純なようですが、この「わからない」という所に立ち戻れることこそが実はお互いにとって大きな収穫なのです。

お互いが「わからない」という立ち位置に身を置くことさえできれば、冷静な事実の振り返りや検証が可能になります。「この見解を受け入れないなら、悪に荷担しているのと同じだぞ」というようなプレッシャーはありません。人を盲目に陥らせる、特定の主義や思想の押し付けなどから隔離された状態が実現されるのです。

仮にAさんが熱狂的な人で、ある見解を信奉しそこから出られなくなっているとしましょう。そうした人と偶然巡り会ってしまったあなたが渋々ながらも、何とかAさんとの間にこの「わからないね」という空気を作り出すことが出来たとしたら。それはあなたにとっては些細な問題回避かもしれませんが、実はAさんにとっては大変な収穫です。

無害な友人であるあなたを通してAさんは、何か大きな冷静さと、社会に対する安心感を思い出すのです。例え見解が違うからといって、必ずしもお互いを傷付け排除し合う必要はないのだという安心感を。

「わからない」という状態は前述のように自由で柔軟です。この態度は和法における重要な前提条件でもあります。

誰かと共に真実を見上げようとするとき、それは暗黙の内に、あなたはまだ真実を知らないのだということを示唆しています。その通りなのです。私たちは真実を知らないのです。もし真実を知っているのだとしたら、あなたはこう言うしかないでしょう。「そんなことない。君は完全に間違ってる。こっちが本当なんだよ」と。

自らの無知を知らない人は、真実に辿り着く為の道すら見出せません。今日地球には70億人以上の人が生きていて、その知識と経験は雑多です。一人一人の見解はどんなに明白なことについても少しずつ食い違っており、また大半のことについては、どうしようもないくらい噛み合わせの悪い、不整合な証言の集合となっています。

こうした状況で「自分こそは真実がわかっている」と思いなすことは、真実からの絶望的なまでの解離を引き起こすのだということを、私たちは肝に銘じて置かなければならないのです。

ー 適切な距離を保つ -

対立的な状況は、いつも私たちの不用意な応対から始まるものだとは限りません。世界は複雑です。私たちの知らない所で、想像もつかないような出来事が今まさに起き続けています。対立は場合によっては、こうした複雑な外の世界から強引に運び込まれてくるものです。

想像してみましょう。あなたがいつもの散歩道を歩いていると、向こうから一人の男性が歩いてきます。男性は包丁を持っていて、その両手は赤い液体で濡れており、暗い顔であなたを見つめながらゆっくり近付いてきます。さてどうすべきでしょうか。

男性に対して微笑みかけ、優しく話しかけて抱擁してやるべきでしょうか?言うまでもなく違います。それはただの無謀というものです。これがアドベンチャーゲームだとしたら、そういう選択肢を選んだ次のページで恐らくあなたは血まみれのアスファルトの上に倒れ込んでいるのではないでしょうか?無根拠な優しさにいちいち命を賭けようとするのはギャンブルであり、そこには何ら秩序だった方法論はありません。

この場合の、和法における正しい答えは「安全な距離を保つこと」です。私たちは「調和的な関係」について話しています。AさんとBさんの二人の内、Bさんの方が自己主張が強いからという理由でAさんを犠牲にして良いのだとしたら、それは闘争と淘汰について論じていることになってしまいます。ですから、安全な距離を保つのです。お互いがお互いを「傷付け合わない距離」が他者尊重に必要な前提条件だからです。

では他者に対して、安全な距離とはどのくらいでしょうか。これは人によって異なります。包丁を持った男性との安全な距離は、武術の達人であれば男性のすぐ隣かもしれません。運動能力に自信の無い人の場合は、先ずは警察官か誰かが男性を取り押さえてくれるのを待つ必要があるかもしれません。場合によってはあなたは逃げなければいけないかもしれないし、手近な棒きれで武装し抵抗する姿勢を見せる必要があるかもしれません。

そうした際にも、重要なのは全ての行動を他者尊重の為の準備として意識して行うことです。あなたは危険な男性を排除しやっつけるために行動するのではなく、安全な状況で彼を観察し、理解し助け合うために距離を保つのです。

相手と調和するために相手と距離を保つ。一見矛盾したことのように思えますがこうした自他分離の重要性について、ゲシュタルト療法を提唱したフレデリック・パールズは「ゲシュタルトの祈り」という有名な詩の中で次のように表現しています。

”私は私の人生を生き、あなたはあなたの人生を生きる。私はあなたの期待にこたえるために生きているのではないし、あなたも私の期待にこたえるために生きているのではない。私は私。あなたはあなた。もし縁があって、私たちが互いに出会えるならそれは素晴らしいことだ。しかし出会えないとしても、それもまた素晴らしいことだ”

自他を切り離し、私は私、あなたはあなた、それぞれを全く別の独立したものとして依存無しに取り扱う考え方。

そこには他者尊重という理念を守る上で必要となる根本的な優しさや健全さ、或いはもしかしたら厳しさのようなものが隠されているのです。先ずはお互いの安全な距離を計り、その上で相手を理解し尊重することを考える。この一連の流れに乗っていくことが重要です。

ー 結果を操作しない -

さて、和法にはゴールがあるでしょうか。完全調和、関係の理想型のようなものを私たちは想定できるでしょうか。確かに二者間におけるそうした状態を想像し絵や言葉で説明することができるかもしれません、がしかし、そのような想像の中で私たちはわずかな空虚さというか、恐ろしさのようなものも感じると思います。

完成した調和的関係。この完成というものが厄介です。何故なら私たち一人一人は、変化し続ける存在だからです。完成し理想型になり、言ってしまえばすでに終点に到着してしまったもの。その先に何があるでしょう。

その先には、完成の崩壊が待っています。理想の破綻が待っているのです。そこで私たちはこの崩壊と破綻を恐れ、辿り着いた境地で全てが死に絶え終わってしまえば良いという気持ちさえ抱くことがあります。

この完成という矛盾をどう取り扱えば良いのか。それについての答えは自然の法則性が良く教えてくれます。生物学の分野には恒常性、ホメオスタシスという言葉があります。これは例えば、ある生命の生態器官が常に同じ水分だとか温度だとかの一定の状態、変わらない状態を維持し続ける機能のことを指しています。

変わらぬ秩序。不変の形態。こうしたものを実現しようと意図するとき、生命の知恵はどのような解決策を提示しているでしょう。

これは一見本当に皮肉で、矛盾に満ちたことのように思われるかもしれませんが、恒常性というのは「絶えざる変化」によって実現されています。体温が下がればそれを暖め、塩分濃度が高まれば体液を増やしてそれを薄めます。体内の変化は無数のセンサーによって監視され、状況の変化を察知して常にそれに対応しようとする試みが行われています。

変化し続けることが秩序と不変性を生むのです。何故ならばこの世界そのものが、変化し続ける存在だからです。変化し続ける世界で不変の位置を確立するためには変化し続けるしかありません。もしそうでない方法を選ぶとしたら、この世界の変化の流れから早々に退室し、もはや何の変化の影響も受けることのない記憶や記録の中のモニュメントとなって過ぎ去った時間の中で死んでいることの他には、秩序を実現する方法はないのです。

こうした考えが前提となって、和法には関係のゴールや理想型というものはありません。関係とは変化し続けるものであり、調和とは”実現され続ける”ものなのです。調和的な関係とはある時点で完成され、それによって永遠に終わってしまうようなものではなく、ただただ工夫され、実現され、繰り返されることによって深まり続けていくものです。

調和的な関係が極度に深まれば、その時は長年連れ添った夫婦のような阿吽の呼吸にまで私たちは到達し得るかもしれません。しかしそうした高い状態に至るまでには沢山の衝突と工夫と克服があったはずです。関係が失敗することもあったでしょう。

良いのです、それで。その関係はそこで終わりではないからです。関係とは完成し得ないものであり、時を経て深まり続けていくものだからです。例え今日喧嘩別れをしたとしても、それに落胆しないでください。そしてどんなに憎く思ってしまった相手にも、胸の内では「ありがとう」とお礼を言って欲しいと思います。

なぜなら調和とは道であり、私たちはそれぞれ一人一人、真実へ至るために皆自分のペースでこの道を歩いているからです。あなたと関係を築く全ての人は、あなたを真実へ運んでくれる大事な練習相手なのです。

もし誰かとの関係が上手くいったなら、調和的な関係を通して真実を確認する経験を与えてくれた相手に「ありがとう」と感謝して欲しいと思います。もし上手くいかなかったとしても、それで良いのです。練習をさせてくれた相手に「ありがとう」と胸の内ではお礼を言い、またいつか分かり合える機会が来ることを楽しみにするのです。

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3章 ”私”を起こさない 和法の基本技術

ー 同意から始める -

一般的なコミュニケーションの中では、人はいつも無意識に痛みを感じているものです。その痛みとは”私”と”相手”との比較の痛みです。

例えば会話の中で相手が何か自分よりも正しいことを言うと、私たちはそれだけで痛みを感じます。「私が間違っている」とか「私が悪い」という事実を受け入れようとすることは、私たちが自覚しているよりもずっと深刻な痛みを伴います。時にはこの痛みを受け入れきれないばかりに、全く論理を放棄して子供じみた対応を取ってしまうことさえあります。

論理的な正誤は本来シンプルなもの、事実か虚実かもシンプルなものなのですが、そこに”私の”考えというような視点が持ち込まれると途端に複雑になり、難解になり、非論理的なものへと変じてしまいます。人が”私の”というハンドルで何かを握っている時には大変なエネルギーの空費が生じています。

”私”という概念そのものが混沌としたエンジンだからです。そのエンジンの膨大なエネルギー消費の制御ができないために私たちは関係の中で論理、秩序、事実から道を逸れていってしまいます。

こうした実情を踏まえ、私たちが関係の中で実現していかなければならない課題は何かというと、それは相手の中の”私”を呼び起こさないということ、或いは相手を”私”という視点から引き離してしまうことだと思います。

余所のモノ、余所のコト、余所のヒトについて理解することは容易です。寓話の中の苦い教訓もそれを他者のものとして眺めている限りは納得しやすいもの、しかし一度”私の”行いが間違っていたというようなことが言われ始めると、途端に事態の収拾は付かなくなります。

ですから効率的で調和した関係のためには、徹底して”私”という視点を選り分け取り除き、常に自分と相手とを共に物事に対する客観的な立ち位置に据え続けるような調整が必要なのです。

コミュニケーションの中でこうした”私”問題を一気に増幅させてしまう瞬間があります。それは「否定」の瞬間です。

例えば私が今朝の新聞である時事問題について流し読みしたとします。昼食時になって、私は仕事の同僚との世間話の中でその話題について触れてみます。「そう言えばあの国は~~だそうだね。」と。次の瞬間、時事問題に詳しいらしいこの同僚の何気ない言葉に対して、私は痛みを感じます。それはこんな言葉です。「いや、君のその知識は間違っているね。」

”私”の、この”私”の知識が間違っているのだと私は知らされます。そしてそれに対して反撃したくなるのです。

痛みは怒りになり、敵意と不信感になります。事実としてその知識が間違っているかどうかは、もう関係ありません。これは時事問題についての関係から”私”と”同僚”との関係に早くもすり替わってしまったからです。

私はせいぜい苦し紛れにこんな風に続けるでしょう。「ふーん、そうなんだ。私はあんまりニュースの細かい部分には興味ないんだよね。(あなたみたいに)暇じゃないし。」

これが私たちの現状であり、世界に溢れているコミュニケーションの実態です。殆どの場合私たち人間は、自分ではどこそこの誰それについて話しているつもりでいるのですが、実際はただひたすら”私”自身についての説明に終始しているのです。

私、私、私、ここに何も新しいものはありません。過去の説明ばかりが行われ、例えば折角出会った憧れの誰かとの時間も、何の発見もないまま浪費されて帰り道には底知れない惨めさだけが残ります。その惨めさを克服するために、ネット上に写真をアップロードし、誰かに見せびらかして「うらやましい」というコメントを貰うことで自分を納得させるのです。

この様な無駄はやめるべきだと思いますし、その為にできることは無数にあります。先ず手始めにすべきことは、前述した通り”私”問題を増幅させてしまう相手への否定的投げかけをやめることです。

「違う」とか「間違っている」とか「悪い」というような投げ掛けは、相手の防衛本能を刺激し”私”というハンドルを握る力を強くしてしまいます。そうではなくて肯定的な投げ掛けをするなら、全く逆のことが起こっていきます。彼は安心し、ハンドルを握らなくなり、何らかの知識や考えと自分を一体化して考えることをやめるようになります。

「なるほど、そうだね、君はそう感じたんだね。」という肯定的な投げ掛けが必要なのです。その上で「ではこういう事も言われているようだけど、これについてはどう思う?」と繋げてみましょう。相手に対しての、あなたの考え、を提示するのではなく相手とあなたが同じように知り得る、ある知識について話題にするのです。

否定的な言葉で”私”問題へ逸れていくメリットはどこにもありません。その先に待っているのは、自分にとっても相手にとっても悲痛で無意味な結果ばかりです。こうした無駄を離れ、相手との時間を本当に有意義な良いものに変えて行くことができるとしたら、大変素晴らしいことではないでしょうか。

ー 質問する -

相手に何かを伝えたいとき、何かに対する、ある考え方を共有したいと感ずるとき。こういう場面でも私たちはついつい強引になりがちです。「でも、こうじゃないか?」「私はこう思うんだけど」というような言い方をするのですが、大抵は先ず反発を招きます。私たちはそこに「正しい私と、まだ正しくないあなた」という暗黙の舞台設定をしてしまうのです。

私たちの感性は何となく無意識に、こうした構造的な舞台設定がされたことを瞬間的に感じ取り不快な感じを抱きます。ステレオタイプな経験の焼き回しによって、未来を予測していると言っても良いでしょう。ある意味では、構築されている関係性、舞台の構造と配役の中にすでに、その関係から生み出されるであろう結果の善し悪しが暗示されているのだとも言えます。

だからこそ既に述べたように「私と相手とが並んで一つの真実を見上げている」というイメージを持つことは、ただ単にそのイメージを頭の中に浮かべているということだけであっても、こうした無意識の経験則に働きかけて良い影響を及ぼすのです。

もし私たちがそうした”並んでいる”イメージを持っているとしたら、ある物事への共感を得たいときの態度や行動も変わってくると思います。あなたはこう思うのです。「私の経験からはこのことは~だと思える。しかし隣の彼は別の答えを導き出した。お互いに相手の知らない何かを、私たちは見て学んでいるのだ。それについて確かめてみよう。」

こうした態度の帰結として行われることは「説得」ではなく「質問」をすることです。前項で例に挙げたように「~について君はどう思うか?」という形になるのが当然なのです。

そうした態度で質問をする際には、できれば”私”はこう思うけれどというような言い回しは避けます。~ではこう言われているようだけれど、それについてはどうなんだろうか?どう思う?という言い回しが出来るのであれば、ここでまた”私”と”あなた”という対立を作らずに済みます。

しかしまた別の障害があるかもしれません。それは疑問を抱くことに対する恐れです。私たちは成長の過程で常に答えを求められています。社会において場合によっては即断、即決、即応するということばかりが求められその姿勢と一体化するあまりに、年とともに疑問や不思議さというものに対する耐性を全く無くしてしまいます。

心がこうであれば、他者との見解の差を受け入れ克服していく余地はありません。私がそうした人間であれば、常に即答するでしょう。「それはこうだよ」「合ってるよ」「違うね」「当たり前だよ」と。

関係の中での違和感、「あっ、この人は私と意見が違うな」という感覚が生じたときに、即応的になってしまった心は瞬時に理屈を組み立てることでしょう。それは疑問を抱き続けること、不安定な要素のある場所に居続けることに対する「恐れ」からそうするのであり、そこから導きだされる答えが事実であるかどうかはあまり関係がありません。

ただ単に、何か辻褄が合いそうな答えが出て、不安を切り捨てることができ、決着が付けばそれでおしまいなのです。このような心の動物的な防御反応に私たちは慣れきっているので、他者の心の中にある真実に近付くことができません。

「この人は私と意見が違うな」と思ったとき、すぐに答えを断じなくて良いと思います。「何でだろう?」とただ素直に感じて、そこに留まってください。道を急ぐあまり草むらに分け入るのではなく、立ち止まってじっとしてみてください。

そうすることであなたは相手を良く眺めるようになり、積極的に質問する必要を感じ、また相手の言葉を良く聞くようになり、その言葉の中にある本心に気付くようになります。

そしてやがて共感できる部分を見つけ、お互いに理解し合えるのだという実感さえ掴むでしょう。そうしたら後はただ、草の向こうに見出したそのなだらかで平坦な道を、ゆっくり歩いて行けば良いのです。

ー 弱みを見せる -

「腹を割って話す」という慣用句があります。包み隠さず本心をさらけ出してやり取りすることですが、このような言い回しが敢えて用いられるのも、そもそも人には自分の本心をある程度隠しておこうとする習性があるからです。

人間はかなり自律的な生き方をする生き物ですから、本心を隠すこと自体は至って自然です。本心を隠すことは時には自分を守ること、時には相手を傷付けないことであり、それは調和的な関係を築くという理念にも何ら反するものではありません。

しかしそれを敢えて崩し、防御を手放す時にだけ可能になることもあります。鍵は敵対的な「警戒心」です。

通常私たちはお互いを警戒しつつ最初の接触をし、そこから時間をかけて徐々に相手が信頼可能であることを確かめていきます。危険でないことを確かめれば確かめるほど防御は解かれていきますが、反対に相手を脅威と感じる度合いが高くなれば、警戒心が増幅されて腹を割るというのとは別の方向へ行ってしまいます。この警戒心の段階的な、二歩進んでは一歩下がるようなゆっくりとした変化の過程が忌憚ない関係の醸成には必要です。

がここで、もしもあなたが最初から「警戒するに値しない」人物だとしたらどうでしょうか。これは信頼とは別の問題ですが、兎に角あなたは警戒する必要もなさそうなぐらい無邪気で、無力なように見えるのです。もしもそうだとしたら、あなたは段階的な警戒心の問題のかなりのステップを短縮して先に進むことができるでしょう。

人はあなたを恐れません。「恐れ入りますが、あなたはどなたですか。ここで何をされているんでしょう。誰かに許可を貰っていますか?」とおずおず尋ねる代わりに、笑顔で近付いてきて「こんにちは、そこで何してるの。どこから来た人?」と親しげに話しかけてくれるでしょう。

人間は常日頃から他者に対してかなり高いガードを構えているものです。世の中には他者と調和しようという考えの人ばかりではありませんから、それは当然です。

しかしもしあなたが調和的な人物で、常日頃から他者を尊重して生きる信念を持っているのだとしたらその時は、相手があなたに対して構えているガードは空回りというものです。些細な自分の弱点や欠点は敢えて隠さず、それを気にもとめずに相手に対して寛いでいる様子を見せることができるとしたら、それだけで無駄なエネルギーの浪費を抑えられるでしょう。

ー 否定イメージを使わない ー

西暦2000年代前半の現代に生きる私たちは、未だ無意識というものの存在や重要性を正確に知っているとは言い難い状態にあります。

私たちは心というものを、何か単一で統合されており、外部からの影響を受けることのない隔離された聖域のように思っています。

”私”の心は私自身以外の誰にも動かし得ないものだし、それは自由で独立していてこの世界とは全く離れた所にポツンとひとつ置かれている、そのように実感しています。

しかし真実はそうではありません。心は深い暗闇に包まれた広大無辺な領域であり、その領域の辺縁はこの世界全体と直に接触しています。私たちの顕在意識は小さな懐中電灯のようなもので、その頼りない灯りで暗闇のほんの一部分を順番に照らしていっているだけなのです。

朝起きて、服を着替え、職場へ行きます。このとき私たちは自分には十分意識があり、心は完全に把握されていると思うかもしれませんが、そんなことはありません。無意識では、広大な闇の中では無数の心理内容が蠢き、光の当たらぬままあなた自身に気付かれもせぬままに必要な役割を果たしているのです。

何となく靴がズレている感じがしては少し足の力を緩めたり、いつも自分で開ける扉が開きっぱなしであれば微かに警戒心を働かせます。朝食が多めだったので呼吸が浅くなり眠気を誘いますが、体温が上がり血行が良くなったので頭皮に汗をかき痒みが生じそれを指で掻きます。

こうしたこと全てが心理内容です。あなたの心を構成している部品のひとつひとつです。仮にあなた自身がその存在に気付いていなかったのだとしても、無意識は私たちの言動に多大な影響を与えているのです。

さて、無意識的な心の働きの一つに「プライミング」というものがあります。無意識レベルで行われる連想のことですが、プライミングという単語や理論など全く知らないであろう子供達が、これを遊びの中に持ち込んでいるのは興味深いことです。

「ある言葉を十回言わせた後に特定の質問をすると何故か間違ってしまう」というあれです。「ピザ」と十回言わせた後にヒジを指さして「じゃあここは何て言う?」と尋ねると、予備知識の無い人は思わず「ヒザ」と答えてしまいます。

この遊びの特筆すべき点は「連想機能がその後の論理的思考にまで影響を及ぼす」という所ではないでしょうか。ここでは論理的思考は単純に論理的であることができず、連想してしまうために腕のヒジを足のヒザだと判断してしまいます。

そして実はこのような論理性の低下が、程度の差こそあれ普段のコミュニケーションの中でも発生しています。ここでもまた私たちはこの”私”を守ろうとする警戒心を刺激されて論理性を失ってしまいます。

それは例えば「死ぬ」とか「悪い」とか「わがままな」とか「馬鹿な」とかいうような、否定的な言葉に引きずられて否応なく呼び起こされてしまう警戒心、敵対心なのです。

否定的なイメージ、悪い、劇的なイメージは昆虫が擬態に用いる警戒色のように、誰かの注意を引きつける上では有用です。しかしその引きつけた注意にはもれなく警戒心が伴っていて、最初から批判的な態度を内包しています。いくら他人の注意を引くことができたとしてもそれが敵対心や批判精神を引きつけているのでは、何も得るところはありません。

私たちが誰かとの調和した関係に辿り着こうとする際には、こうした悪いイメージと結びついている言葉、相手に嫌悪感を感じさせてしまいそうな言葉は出来るだけ避けるべきでしょう。

それとは反対に、人生の中でごく希に経験することがあるように、絶望的な状況でも芯の強い勇敢で覚悟ある人の明るい呼びかけが周囲の人を勇気づけ、立て直し、苦境を持ちこたえさせることもあります。

日本には言霊、言葉に霊が宿り世界に働きかけるという考えがありますが、正しくそのように肯定的な良い言葉は、人間の底力と情熱を呼び覚まさせ、私たち一人一人をより良い存在に変えてしまう力さえ持っているのです。

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4章 ”私”と向き合う 和法の応用技術

ー 和して同ぜず -

「和而不同(わじふどう)」という中国の論語から出た四字熟語があります。原文は”君子和而不同 小人同而不和”、日本語訳では”君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず”となります。

その意味するところは「立派な人間は他人と良く調和するが、だからと言って安易に迎合したり同調したりするということはない。未熟な人間は安易に迎合したり同調したりするものだが、それで他人と調和できるわけでもない。」といったところでしょうか。

ウマが合い、仲良くできてしかもお互いが有益な関係であればそれは良いと思います。しかし大変共感でき理解し合える相手であっても、その人と付き合っているとどんどん自分や相手が悪くなっていってしまうような関係は良くありません。

例えばAさんとBさんが居て二人はくつろいで付き合える友達だとします。あるとき悪い偶然が重なり、Bさんは車で人を跳ねてしまいました。しかも怖くなったBさんはそのまま現場から逃走してしまったのです。

次の日ニュースでは早くもひき逃げ事件が話題になっており、AさんはBさんから話を打ち明けられます。

Bさんは大変怯えてノイローゼのようになり、こう訴えます。「証拠を隠せば逃げ切れるだろうか?轢かれた人は病院で意識を取り戻したらしいし、そんなに重大な事件ってわけじゃないだろう。俺には会社の大事な仕事だって控えてるんだ。なぁA、助けてくれ。事故の時間にお前が俺と会っていたってことにしてくれれば、アリバイが出来る。もしも警察が来たらそう言って欲しいんだ。」

Aさんの前には大きく分けて4つほどの選択肢があります。1つはBさんの罪に荷担すること。2つめはその場でBさんを拒絶し警察へ通報すること。3つめはその場でBさんに同意した上で、こっそり警察へBさんの罪を通報すること。最後の選択肢はBさんを説得して警察へ連れて行き自主させることです。

許されることと許されざること、そうした犯罪についての倫理観をここで掘り下げていくつもりはありませんが、調和という視点で見た場合にはAさんが取るべき行動はどれでしょうか。

いくつかの理由から、3つめの選択肢が最も調和的な行動だと言えるでしょう。先ずAさん自身の身の安全が最も保証されています。Bさんの罪を一緒に背負わされることはないし、精神的に不安定になったBさんを逆上させて襲われたりする心配もありません。これは適切な距離を設けるという基本的な前提条件の確保に当たります。4つめの選択肢は理想的ですが、それはお互いの信頼関係やAさんの説得技術にかなり左右されるので必ずしも現実的ではありません。

さて、ここから先が調和の問題の難しい所です。3つめや4つめの選択肢を選ぶということは見方を変えれば、助けを求める友達を切り捨てるということです。それは調和的な事なのだろうかという疑問が生じます。なぜBさんを刑罰から守ってやらなかったのか。Aさんはただ自分自身のことだけを考えて保身に走った薄情者なのでは?

しかし、違います。やはりそれは違うのです。Aさんが真にBさんとの調和的関係を考えるならば、必ずこの事故を警察へ知らせなければなりません。

何故ならAさんはBさんの状況を良く理解してやり、今目の前で「臆病すぎた不慮の加害者」から「悪質で狡猾な逃亡犯」へ変わろうとしている友達を、引き留めなければならないからです。しでかしたことの大きさにショックを受けて精神的に不安定になっている友人を元の世界へ戻してあげなければなりません。まだそこへ戻れる内に。

「調和的な関係」の中には、突き詰めていえば相手の間違いを正すことや、相手をより良い状態に導くといった視点も含まれているでしょう。ただ同調していれば良いのではありません。厳しい言葉や突き放す態度も場合によっては必要な道具です。

ここから先に述べる応用技術は、そういった高度な視点まで含んだものになります。単純に仲良くなるというだけではなく、教えたり、誘導したりしながら、相手に有益な考えや意識を伝達していく技術です。

ですが注意していただきたいと思います。こうした技術はともすれば、他者を支配したり操作したりしようとする恣意的なものになります。

基本的な姿勢を忘れないでください。大事なのはお互いが良い距離で調和すること、ちゃんと安全を保ち、自分が考えた答えに向かっていくのではなく一緒に真実に辿り付く道を行くことです。

そもそもこうした視点が身についていないのであれば、この和法の応用技術も自分自身の”私”感覚に影響されて何か歪んだものになってしまい、道具としては全く意味を成さないものになってしまうでしょう。

さて、Aさんはどうなったでしょうか。「必ず協力するから、今は少し休め」と言ってBさんを宥めたAさんは、その後警察へ電話をしました。電話越しにBさんが昨夜事故を起こしたことを通報した上で、Aさんはこうも付け加えました。「あの、何かあればまた私に連絡を下さい。親友なんです。普段は悪いことをするような奴じゃありません・・・でも事故を起こして、本当に動揺しているんだと思います。時間が経てばちゃんと、起きたことを自分の頭で整理できると思いますから。」

ー 自分の間違いとしてみせる -

他者の間違いを指摘するのは難しいことです。難しいだけでなく、多くの場合それは何の効果も生み出さずかえって状況を悪くしてしまうこともあります。

毒キノコを食べようとしている人を説得するときに、私たちはついつい「馬鹿だなぁ、それは毒キノコだよ。そんなことも知らないのか。」というような言い回しをしてしまうものです。こういう言い方は相手の”私”感覚を非常に刺激し敵対的な状態にします。

場合によってはこれで相手は意固地になり、「煮詰めれば食べられる」などと出鱈目な強がりを並べて、本当に毒キノコを食べてしまい入院する羽目になります。馬鹿げたことではありますが、もっと些細な日常レベルのことを考えれば私たちは似たようなコメディを毎日演じていることに気付くのではないでしょうか。

当たり前の理屈さえ伝達が困難なのは、”私”という構造物が常に不安定に領土を広げたり縮めたりしつつ敏感な防御システムを張り巡らしているからです。

他者の考え方や価値観全体が家だとしたら、その家は”私”という凶暴な番犬に守られているようなものです。番犬はいつもは眠っていますが、あなたがある小包を届けようと家に近付いたときにはものすごい勢いで小屋から飛び出し噛みついてきます。私たちはこの番犬をどうにか刺激しないように物事を進めていかなければなりません。

他者に対して物事の理屈や間違っている部分を教え示すために最も良いやり方は、その過ちを自分自身のこととして相手に話すということだと思います。例えば「私には~な部分があって、ついついこうしてしまう。今までも散々嫌がられてきたから直そうと頑張っている最中だけど、人間だからね。損すると分かっていても感情が先行してしまうことはある。」というような言い回しが有用です。

道徳的な寓話は教育の側面から見ればこうした役割を担っています。狐と酸っぱいブドウの話は私たち自身の良くある心のエラーについて語っているのですが、「これはあなたの話です」と言われると受け入れにくいものを、第三者の物語にすることで飲み込みやすくしているのです。

ですが寓話にも落とし穴はあります。自分自身を戒めるような教訓や道徳めいたものを他者から提示されるとき、人間の精神防衛の嗅覚は非常に鋭くそれを察知し「この人は私を非難しようとしている」と見抜くのです。すると結局のところあなたの話は月並みな無理解、どうせ私の事情なんて何もわかっていない人からの文句、という印象で終わってしまいます。

この点についても、もしもあなたが他者の間違いを自分のことのように語ろうとするならば、三つのことを実現できます。

一つは相手の”私”感覚を非常に強く眠らせる効果があるということです。これはどこかの誰それという例えの話ではなく、目の前のあなたの話であり、それ故に相手の”私”の話であることはできません。あなたが自分自身について語ろうとするならば、それに対する聞き手の「ああ、これは私のことを言ってるんだ」という感覚は論理的には最も高いレベルまで麻痺させておくことができるでしょう。

二つめは、他者の間違いを自分のこととして語ろうとするとき必然的に、あなた自身が相手のことを深く理解しようとする視点が生まれることです。相手の”私”を刺激しないという効果と並行して、あなた自身の中に、相手の状況を把握しようという指向性が生じてきます。

なぜならそれはもう、頭の悪い、間違った、性格の悪いどこかの誰かの狂った話ではなく、理路整然とした頭を持ったあなた自身の理屈の話でなければならないからです。あなたは相手の状況を眺め、自分の経験と照らし合わせ、未知の部分を補完し欠如しているものの存在を認識して、その問題の首尾一貫した論理的な必然性を見出すでしょう。

三つ目の効果は、間違いや気まずい事実が心理的にすでに克服されている姿を例示できるということです。あまりにも悲痛な事実は、それを認めること自体が難しい場合もあるのです。まだ気付いていない思い掛けない自分自身の欠点などはその典型でしょう。

こういう真実には普通はなるべく出会いたくないものです。笑いながらその真実を相手に突きつけてはいけません。自分自身の失敗の話として説明し、解決策を示し、或いは解決できなくても破滅ではないという姿勢を見せることでようやく相手は「ああ、この情報は取り込んでも大丈夫そうだ」と直感し、その単純な真実に目を向けることができるのです。

ー 負けを操作する -

ここまで読んで来られた方には、和法の鍵である”私”というものの特性が大分見えてきているのではないかと思います。”私”という言語的な構造物は常に自己を強化するための論理や秩序を探し求めており、新たな秩序を探してはそれに同化しようとします。

幼少期の曖昧な状態から徐々に秩序的なものを取り込み成長していく中で、この”私”感覚は人格を支えるための一本の柱になり、正しさや豊かさを求めると同時に悪や貧苦を退けるという無意識の防衛/適応機能を身に付けていきます。

しかし一人の人間がこの世界で経験しうる物事の経験領域はほんの僅かなものですから、この「正しさ」は所詮は一種の固定観念であり井の中の蛙が見上げて知った小さな空に過ぎません。それでもなお、私たちは自分の心を支える一つの根拠としてこの”私”の正しさを盲信するようにできています。

これこそが人間が新たな知見、より広い世界、未知の真実を受け入れられなくなる要因です。”私”構造は全てを知っていたいし、正しくありたいし、常に勝者でありたいと望みます。そして自分の知見の完全性を固持し未知の事実に対してはそんなの狂っている、おかしい、ありえないと言って断罪し現実を否定します。現実を否定し、”私”構造の柱を中心とした、現実とは似て非なる狂気の世界へと閉じこもってしまうのです。

対人関係において、それが闘争の中であれば、相手に「勝ちたい」という”私”構造の欲望ほど直線的で無条件なものはありません。この欲望はこの上なく簡単に操作できます。勝ちを用意してあげれば良いのです。つまり、私たち自身が負けるということです。

相手は勝ちに近付く選択を一直線に進んできます。相手が何を欲しているかを理解し、それを相手の見える所へ用意してやることができたら、私たちは勝利ではなく「負けていく過程」を手に入れることが出来るでしょう。そしてこの負けていく過程の中には私たちの側のシナリオを存分に含ませておくことができます。

もし私たちが勝負の盤上におり、どうしても相手に負けたくないと思っている存在であるならば、こうした戦略は何の意味も持ちません。しかしもし私たちが、いずれにせよ結局最後は真実の前に私も相手も融和するであろう、ということがわかっているのならば、その途中段階として一番旨味のある所を先に譲ってやり、最短で融和の段階に至ろうとすることはこの上なく効率的なのではないでしょうか。

さて、他者の”私”を操作しようとするとき、私たちは何かを捨てねばなりません。それは”私”たち自身の中から捨てなければならないのです。相手に勝利させるために自分の勝利を手放し、相手を良い道へ行かせるために自分の名声や信頼友情等々を犠牲にします。

もしそういうことが実現可能だとしたら、それは私たちが自らの行動の根底に何か大きな善意、献身的な愛情、やがて全てを公平な状態へ至らせる真実への信頼を持っているときだけに限られると思います。

真実の前に身を投げる覚悟がないなら、誰かの心に介入しても決して良い結果には辿り着きません。こうした応用的な回りくどい技術における真の問題とは、その因果関係の難解さにあるのではなく、果たして誰かの世話を焼こうとする以前に私たちは「本当に自分自身の”私”を克服し真実の前に全てを委ねきっているのだろうか?」という点にあるのです。

ー 関係の切り離し -

ある無邪気な子供が、母親に連れられて歩いています。子供はおもちゃ屋の店先に並んでいる沢山のおもちゃに心を奪われ、それが全部自分のものになったらどんなに良いだろうと空想します。

彼はまだ出歩いて外の世界を見るのには慣れておらず、世の中のことを知りません。そこに並んでいるおもちゃは高いこと、お金には限りがあり、それは生活のためにちゃんと節約してとって置かなければならないことなどを知りません。ですので彼は母親に言います。

「ねぇ、このおもちゃを全部買って」母親は最初は優しく「そんなことはできないよ」と教えますが、子供は言うことを聞きません。地面にへばり付き、地団太を踏んで「どうしても全部欲しい、絶対に!」と泣き叫びます。

こういう状態になった子供を論理で説き伏せるのはほとんど不可能なことでしょう。彼に必要なのは理屈ではなく、実感だからです。「自分はそれほどまでに自由を約束された存在ではないのだ。」という現実世界からの厳しい見つめ返しが必要なのです。まだ世界を知らない彼は自分の理想について泣き叫び、泣き疲れてようやく、現実はもっと別の形をしているのだということを心に刻みます。

現実についてのこうした学習が可能になるのは、親が子供を精神的に切り離している時に限ります。というのは、子供は自分の空想を基準に世界を非難しているのに、親がその空想に同意してしまったら彼は手応えを無くしてしまうからです。

石を壊せると思ってそれを蹴った時には、彼は自分で痛い思いをすることで石の硬さを学ぶのです。親は子供が本当に痛い思いをしないようにと間に割って入るかもしれませんが、その時でさえ「お前の力はそんなに強くないんだよ。」と説き伏せることで子供の頭の中にある理想や空想を破壊しなければなりません。

何にせよ結局は、子供は自分の心に自分でその無力さを受け入れ刻み込むのでなければ、現実を知らないままになってしまうでしょう。この「自分で学ぶしかない」という一種の諦めの状態が、精神的に切り離されているということです。

調和的な関係を構築する上で、一旦関係を切り離しておくということが有効な場面は多くあります。

例えばあなたが何かしらの偏見、事実とは異なる他者の空想を通して非難されているとき、先ずは相手のその言い分を慎重に検証することは必要ですが、それが明らかに誤解であるならば距離をとって放っておくことは良い対処法になります。

相手は色々と空想を巡らし、あなたについて調べ始めるかもしれません。ここでもしあなたが相手を不快に思い、敵対的な態度を取っていたらそれは格好の「証拠」になるでしょう。あなたが悪い人間だという証拠です。

ですがもし、あなたがフラットな態度で相手に接し、罵倒や侮辱に対しては「いやいや、それはただの勘違いだ。知らないよ。」という態度を一貫して取っていたら、いずれ相手はあなたを非難することをやめると思います。そこには事実としての何の掴みどころも無いからです。

彼の偏見の材料は段々乏しくなり、こじ付けじみてきて、最後には言っている本人でさえ思わず笑ってしまうほど馬鹿げたものになっていきます。そうして終いに「俺は必死になって何をやっているんだろうな。」というところまで冷静さや客観性を取り戻していくことでしょう。

(但し、相手の主張が本当に空想や偏見に基づくものならば、という部分には注意してください。自分自身が自覚していないような落ち度が本当にあって、それを提示された場合に事実を否定していたら、今度は私たちの方が空想の中に逃げ込んでいることになってしまうでしょうから。)

放っておくこと、距離を保つことは和法における基本的な態度です。その表面的な意義は物理的にも心理的にも自分自身を安全な状態に保つという点にあります。

しかしより深い部分では、相手が真実へ辿り着くための最短距離を整備するということでもあります。心理的に切り離された状態では、彼は”相手”を掴むことができません。明確な相手が存在しない時にはじめて、彼は自分と世界そのものが対峙していることを感じ、自分自身が何か良からぬものを世界全部に対して投げつけていることに気付くのです。

おもちゃ売り場の前で泣いている子供に「もう知らない」と伝えてどこかへ行ってしまうのは、賢い親たちに良く知られた暗黙知です。子供が泣き止んで物分かり良く諦められたなら、「分かれば良いんだよ」と言ってそれでお終いです。棚一杯のおもちゃを与えられなくても、その日の晩に何か好きな食べ物の一つでも特別に用意してもらえたなら、子供は自分が見捨てられた存在なんかではないことをちゃんと感じ取ることでしょう。

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おわりに

今更とも思いますが、『和法』とは何かを分かりやすく言い表すならそれは「”私”という精神構造への理解を中心としたコミュニケーション技法」のことだと言えます。この技術体系の目指すところは「関係における調和」ですが、そのテーマが常に”私”というものにまつわる所へ還元されてしまうのには深い意味があると言えるでしょう。

それはつまり、調和を妨げるものの本質は”私”という自意識、この精神構造物それ自体であるという真理を暗に示しているのです。

このテキストでは専ら”私”構造に対してどのように注意しそれを制御していくかという具体的な視点からの解説を行いました。しかしこれは言わば思想の表面であり、その核心には敢えて触れずに置いてあります。

その核心とは”私”構造そのものに対する知見です。”私”構造とは何かーその答えを見出したときにはじめて、調和を実現する為の方策を真に見出していくことが可能になります。

本質ではなく表面的なことの解説を敢えて行ったのは、”私”構造について理解することがあまりにも遠大で難しい知的課題だからです。”私”とは何かという問いは宗教や心理学の分野ではかなり突き詰められてきたテーマですが、それでも尚それを理解できるのは知的にも人格的にも成熟した数少ない人々に限られてしまっています。

そこで本質を急に理解することが難しいにせよ、裾野から少しずつ具体例を積み上げ、実践を通して本質的な部分を理解するための材料にしていただく、というのがこのテキストの目的です。

そうした文脈で言うならば、調和とは「”私”とは何か」という問題に対する答えだとも言えます。調和とは、その問いを克服した人間が辿り着くある段階なのです。

形から入る、これも大変良いことではないでしょうか。誰かと分かり合えたとき、私たちの心は少なからず成長し、豊かになり、何か深い知見を得ることができるでしょう。それが人格の成長です。調和へ至る道を行くことは決して無駄にはなりません。

実践し、深めてください。自分を取り巻く世界が少しずつ、優しさと平和で満たされていくことを実感されるはずです。

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