観劇「眠れない夜なんてない」
2月6日(土)、伊丹アイホールにて青年団の「眠れない夜なんてない」を観た。若い頃に観て以来、ずっと平田オリザさんのファンである。ファン歴もうすぐ30年になる。静かな日常を描きつつ日本社会のリアリティをえぐる。余白がたくさんあるから観客に想像させる。説明的じゃ全然ないのに、刺さる。そこがたまらない。
ストーリーはこうだ。(公式サイトより)
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1988年、マレーシアの架空の日本人用保養地。定年移住をしてきた中高年の夫婦たち、父と母を久しぶりに訪ねてくる姉妹。退職後の安住の地を探しに来る夫婦と、それを迎える高校時代の友人。妙に明るい短期滞在者。娘と二人で暮らす寂しげな初老の男。様々な人々がここに集い、静かな時間を過ごしていく。熱帯のジャングルの中、聖域に住む蝶のように、死を待っている日本人たち。思い出される長い長い過去と、思いを馳せる残り少ない未来。
リゾート施設のラウンジを舞台に、そこを通り過ぎていく人々の、砂上の楼閣のような生活を淡々と映し出す。
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12年前に他界した姉が、いつだったか「老後はマレーシア移住がいいらしいよ。物価が違うから悠々自適なんだって。」と教えてくれた事があった。「へえ、ええやん。」と返事したと思う。記憶の奥底にしまわれていたけど、忘れてはいなかった。「マレーシア移住」という言葉を見ただけで記憶が蘇った。姉が生きていたら、今頃この芝居の登場人物みたいにマレーシアに下見に行っていたかもしれない。でも、私自身は姉が他界した後に人生がすっかり変わってしまい、マレーシア移住など考えもしない人間へと変貌したのだった。「マレーシア移住」というモチーフにはそういう不思議な距離感というか因縁を感じる。そんなことを思いながら観に行った。
平田オリザさんの作る演劇は「静かな演劇」と呼ばれたりする。人々の何気ない会話が本当にリアルだ。開演前には既に役者が舞台に出ている。今回の場合、リゾート施設のラウンジにワンピース姿のしっとりとした女性が座って本を読んでいる。男性がやってきて挨拶を交わす。男性はソファに座ってウトウトし始める。普通の演劇では一般的な、照明が落ちて「ハイ今から」という切れ目が、青年団の芝居には無い。いつの間にか始まる。人間ウォッチングしている感覚に陥る。開幕の切れ目がないことと、観客と舞台の境目が無いことはリンクしている。
今回の舞台上に展開したのは、リゾート施設に暮らす人々がのんびりとプールで泳いだり散歩したりお喋りしたり訪問者を迎えたり。様々な人間関係が立ち上がる会話の中で、全体を貫くのは「夢」(夜に見る方の)。夢を覚えてる人、覚えてない人。どんな夢を見るか。それは潜在意識の話で、実は重要な話につながる。
リゾート地なのに全体的に漂うなんとなく重い雰囲気。私達の日常を覆うしんめりした粘膜のようなものに、あなたは気づいているか、という問いが埋め込まれている気がする。
日本人のよくある会話と社交の連続なのだけれど、見慣れてない事が1つあったな、とふりかえって思う。それは登場する2人の老いた父が娘達に慕われ愛されているという事と、矜持を漂わせている事。物語に描かれる父親像として最近はあまり見ない。彼らがそういう人物である理由は、おそらくラストシーンに描かれることと関係している。昭和の終わりに引退していた年齢の人達。1989‐60=1929。昭和を丸々生きた、ということになる。
私自身も還暦がそう遠くない年齢になっているけれど、改めて、どの時代に生きたかということがどれだけ人にとって大きな意味を持つのか、その意味を考えさせられた。令和3年の私たちはコロナ禍を生きている。それもいつか振り返ると私たちひとりひとりに何らかの影を落とすのだろうか。
そんな時代の隔たりもあるというのに、この作品に描かれる「日本らしさ」は決して懐かしむものでもなく、全く変わってないじゃないか、と私は思った。この舞台の虚構は、実際の現実より少しはマシなのだろうか。
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