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南京事件を調査せよ

著者は清水潔という日本テレビの報道記者で、桶川ストーカー、北関東連続殺人事件は非常によかったとのコメントがあったが、南京事件を調査せよでは、一次資料をほとんどあたっておらず、著者の思い込みで書き進めていて読む価値はないと苦言されている方もいた。
この本は文藝春秋社から出版されている。朝日新聞南京捏造大キャンペーンに対して徹底的に反証していた出版社であったが、このような本を出版しています。文藝春秋は芥川賞を創設し第1回受賞者は石川達三である。

wikiを読むとまるで南京大虐殺があったかのように書かれているが、阿羅健一著作の『決定版南京事件日本人50人の証言』には、石川達三氏からの手紙が掲載されている。石川達三氏は大虐殺の痕跡は見ていないし、信じていないと書かれています。


では本を読んでいきましょう。

P.40に

一次資料にあたれ

という小見出しの部分がありました。
1937年7月7日の盧溝橋事件が日中戦争の始まりと戦勝国プロパガンダの影響を受けたひとたちのお決まりのことしか書かれていませんでした。清水潔氏は一次資料にあたれというならば盧溝橋事件をも洗いなおすべきではないでしょうか。盧溝橋事件は中国共産党自身がおこなった公表したこともあると聞いたことがあります。1次資料にあたり、調べなおす必要があると思いましたので、リンクの盧溝橋事件に関する一考察を貼っておきます。藍金黄さんは、1次資料を良く調べられています。

そして1937年7月29日に起きた歴史の残る中国人による日本人大残虐殺人事件であった通州事件、8月11日に起きた大山事件を清水氏は無視し、あたかも盧溝橋事件後まもなく日本政府が派兵を決定したかのように語ります。
ここまで読み進めると清水潔氏が南京虐殺があったとしてこの本を書くにあたって不都合な事実は抹消しているのがわかります。


P.46には
この前後に起きた、捕虜や民間人の虐殺、強姦、放火や略奪などを総祢しているのが「南京事件」ということになる。現場は南京城内や中心部だけではない。南京周辺の広範囲の地域でも起こったとされていた。時期も 6週間から数ヶ月という期間だ。つまりネットなどで良く見る <当時 20万人しかいなかった南京市街で >という反論に説得力は無さそうだ。

と書かれていて、南京問題に対しての清水潔氏の理解の低さを露呈しています。中国政府は南京事件の期間と虐殺人数を南京大屠殺紀念館に示している。


南京市と南京城と安全区の地図

南京市の人口は1937年3月時点では100万人でしたが、1937年11月の南京警察の発表では20万人にまで減っていた事はNYTで報道されています。
これは清水氏が好きなNYTの記事です。



P.47には清水潔氏は
『「多くの従軍記者がいたのだから、虐殺や数多くの死体などがあれは記事になったはずだ」当時は厳しい報道統制が敷かれていた。
1 9 0 9年に成立した「新聞紙法」である。記事のゲラを提出し、検閲を受けねば発刊できなくなっていた。』と書いているが、同じ分野のジャーナリストなら、直接聞くことさえできたのではないかと思うのだが、なぜ一次資料にあたらないのでしょう。不許可の写真集も出回っていて、中身を確認すれば全く見当違いと思えるものが多いです。

1937年8月14日に、国民党軍(中国軍)の爆撃で大惨事となった上海のフランス租界の南京路。

南京戦の取材チームを取りまとめながら第十六師団司令部に従軍した朝日新聞上海支局次長・橋本登美三郎氏は、当時の報道規制をどう感じましたか?と聞かれ「何も不自由は感じていない。思ったこと、見たことはしゃべれたし、書いていたよ」と答えられた記録が残っていますが清水潔氏は不都合な記録は書き残さないようです。

P.48には。ニューヨークタイムズの1937年12月18日版のことが書かれていますが、内閣情報部は事実を曲げていったと『誣(し)ふ』という言葉を使って極秘情報として記録を残しています。

P.49には
『同じ ニューヨーク・タイムズ 1 9 3 8年 1 月 9日版では<日本軍による大量殺戮で市民も犠牲一中国人死者 3 3 0 00人に >などと特集されていた。もちろん日本人のほとんどはこんな記事を目にすることもなかった。』
と書かれていた。

著者は偏った記事しか載せないので、1次資料にあたっていきましょう。
1937年12月15日の中国語の報道では、
各地で監視が始まり、市内の治安が整ったため、郊外の農民も商業の中心地に13日夜から戻り始め、14日朝は一気に戻って来た。南京の繁華街では様々な店が開店し、茶色の服に日章をつけた中国人もいる。

南京の現地に近い上海では1937年12月23日に
本日、南京にタオ・シシャンを委員長とする自治委員会が設立され、2人の副委員長と8人の委員がサポートすることになった。第1回会議後の声明で、濤氏は、過去10年間、反日・親共政策を追求し、中国人民を筆舌に尽くしがたい悲惨と苦難に導いた旧政権を攻撃したが、次のように宣言した。
「日本軍の到着により、南京で平和と秩序が回復した」
と報道されています。

1938年1月1日に南京自治員会は発足の祝賀会をしました。その時の記録映像です。

さて、P.49に書かれているNYTの報道はP.48のような誤報がかなりあります。1月9日の記事の内容を確認したところ

In defending the city as they did against all the dictates of modern military strategy the Chinese allowed themselves to be trapped, surrounded and wiped out to the number of at least 33.000, abput two- thirds of their army there.
Of this number, it is estimated, a bout 20,- 000 were executed.

DeepLを使って翻訳すると
近代的な軍事戦略のあらゆる指針に逆らってこの都市を防衛したため、中国軍は自らを罠にはめ、包囲し、少なくとも33,000人、つまり自軍の約3分の2を全滅させた。
このうち約2万人が処刑されたと推定されている。

清水潔氏のP.49によるNYT記事紹介では
<日本軍による大量殺戮で市民も犠牲一中国人死者 3 3 0 00人に >などと特集翻訳されていた。

清水氏は英語力がないのか、先入観に影響されているのか……本来の意味と全く違って解釈されています。

ところでNYTのダディン氏はこの記事で2万人が処刑されたと報道しています。南京での捕虜の処断については東京裁判でも1938年1月26日〜2月2日におこなわれた国際連盟でも問題になっていません。

なぜでしょうか。私は以前リンドバーグ日記に書かれていたアメリカ軍が行った白旗をあげて投降する日本兵をモンキーハンティングと言って銃殺して遊んでいた話を聞いて非常に怒りが沸いた時があります。このような行為をしていたアメリカ兵も国際法では問題がないそうです。
その時にいただいた返事はこうでした。
ハーグ陸戦条約では部隊として指揮官の降伏申し入れで降伏が成立する。残念ながら兵士の単独降伏は成立しない。白旗を掲げて武器を隠し持っている可能性があるから。降伏はあくまで指揮官に統率された部隊単位。
ということでした。
指揮官であった唐生智が逃げた時点でたとえ日本軍が中国兵を遊びながら銃殺していても当時の法律では違反にならなかったようです。

さて、この時の処断の人数をダディーン記者は2万人と報道していますが、13000人説、2000人説もあるようです。
南京戦史は南京戦について詳細に書かれていますが、この時の処断を13000人と伝えているようです。

P.50では、
「巣鴨プリズン」の露と消えた元総理大臣。
これらの事実を今、どれぐらいの人が知っているのだろうか ?
ちなみに戦犯とは「戦争犯罪人」の略である。
東京裁判とは別に、南京で開かれた「南京軍事法廷」では、「百人斬り競争」の容疑などで 4人の将校が死刑判決を受けて処刑されていた。

と書かれていますが、日本には戦争犯罪人はいないことを清水潔氏は知らないのか、または隠しているのか、あえて日本には今も戦犯がいるように思わせるために嘘を言っているのか…

ちなみに私は南京虐殺はNHKの放送を見てあったものと思いこんでいました。公共放送のディレクタの思い込みで作られたCG画像等が国民から集めたお金を使って行われていることに非常に憤りを感じてしまいます。
わたしは東京裁判で死刑となった松井大将が中国をとても愛していた人と知って調べているうちに南京虐殺の嘘に気が付いていきました。

P.50には『100人斬り競争』の容疑などで4人の将校が死刑判決を受けて処刑されていた。
と書かれていますが、いずれも冤罪でした。
100人斬り競争は、東京日々新聞の浅見記者の想像で書かれた記事でした。野田少尉と向井少尉の写真を撮られた佐藤カメラマンは次のように語っています。
「よく聞けば、野田は大隊副官だから、中国兵を斬るような白兵戦では作戦命令伝達などで忙しく、そんな暇はありません。向井も歩兵砲の小隊長だから、戦闘中は距離を測ったり射撃命令を出したり、百人斬りなんてできないのは明らかです」

死刑判決を受けたお二人は遺書を残されています。

向井少尉の遺書
私は、神、天、地、そして人類に誓って、一人の捕虜も殺していないことを誓います。南京大虐殺の責任を一切認めません。私は死が私の運命であり、日本の少年として中国の土となることを信じています。そして、私の魂は大安に帰るのです。私の死が、日中友好、東洋の平和、中国との8年間の戦争の恨みを払拭することになるなら、私は捨石となることも厭わない。中国の奮闘を祈る。中国万歳、日本万歳、天皇陛下万歳、私は死んで国防の鬼となる。

野田少尉の遺書
(中国法廷のお礼に続き)ただ俘虜、非戦闘員の虐殺事件の罪名は絶対お受けできません。お断りします。死を賜りましたことについては天なりと観じ、命なりと諦め、日本男子の最後のいかなるものであるかをお見せいたします。

メディアの方々に傷つけられた向井少尉のご子息のお話を読むと涙が止まりませんでした。

P.54-P.122の64頁が陣中日記となっています。
陣中日記で有名な犯罪報道を朝日新聞が行っています。
都城23連隊の朝日新聞の報道を調査し続けた元都城23連隊の方の資料を見た時がありますが、次のように書かれていました。
『わが国の報道機関は旧日本軍を糾弾できるとなると、一読してどうかなと思えるような「証言」や「資料」に飛びつき、大報道に仕立てあげることに血道をあげてきました。』
清水潔氏がおこなっていることはこのことなのだと思いました。
陣中日記に対しては
杭州湾上陸時、兵士は胸まで海水に浸かって陸地に上がった。当用日記をどうやって濡れからまぬがれたのか
戦闘期間は露営が主で、たまに部落に泊まることもある。夕方部落に到着しても兵は食糧の徴発や炊事、また翌日の準備に追われ寝るまで休むヒマもない。中隊長の部屋でさえ作戦命令、戦闘報告書などを書くのに灯があれば良い方で、兵の部屋までは行きわたらないと書かれていて、陣中日記の信ぴょう性はとても低いと思いました。

第3章は揚子江の惨劇なのだが、捕虜の処断について長々と書かれている。
これについてはアメリカ兵たちが白旗をあげた日本兵を遊びながら射殺していても国際法的に問題がないといわれていることなのです。

南京の便衣兵の中国側の記録には、
中央(国民政府)の便衣隊約五、六人が入城し、中華路付近の地下室内に潜んでいた。ちょうど五人の獣兵(日本兵)が三、四人の人夫をともなって北から南にやって来ていて、我が便衣隊の近くに来た。彼らはすぐさま発砲して獣兵を皆殺した。(郭岐「陥都血涙録」)便衣兵の中国側記録。

とあります。モンキーハンティングを行って遊んでいたアメリカ兵と同じように日本兵も殺されていたのです。南京は戦場でした。

P.173
 中国政府は、かねてから南京大虐殺の資料をユネスコ (国連教育科学文化機関 )の「世界記憶遺産登録」に申請していた。一方、日本政府は中国のこの動きに対し「ユネスコの場を政治的に利用している」と抗議していたという。ところが放送直前のタイミングでユネスコでの審査が始まったのだ。これらの動きは全くの偶然だった。
 自民党国際情報検討委員会の委員長を務める、原田義昭元文部科学副大臣は「南京大虐殺や慰安婦の存在自体を、我が国はいまや否定しょうとしている時にもかかわらず、申請しようとするのは承服できない」と記者団に語った。
これが放送の 2日前のことだった。
と書かれていました。これは中国がユネスコに申請することを知っていて放送したことを暴露しているんですかね。

P.182には
 『当時の人口十数万人というのは、南京城内の「安全区」の人口であり南京周辺の人口としては 1 O O万人前後と言われていること。ニューヨーク・タイムズやワシントンポストなどでは「南京事件」が報じられていることを指摘した。すると原田氏の説明は次第に支離滅裂となり、なぜか荻上氏の名前を「はっとりさん」などと言い間違えてしまう。
荻上氏が、日本政府の見解も「南京事件」を認めているが、と重ねて尋ねると、原田氏は言った。』
と書かれているが、和田議員は下記の動画のように語られていて、日本政府は「南京事件」を認めていませんと強調しておられます。

動画の文字おこしをしておきます。

8月15日の終戦の日が近づいてまいりました。先週のことになりますが、この議員会館において、外務省ホームページの南京事件に根拠なしという集会が開かれまして、私も講師として講演をして参りました。この中では、南京戦における外務省の一般の住民に対して、日本軍が殺害を行ったとされる文章というものが外務省内に存在しないという私の国会質疑を中心に講演をして参りました。けれども、この8月15日が近づきますと、根拠のない番組などが作られ、また紙面などに掲載をされ、これが事実でない戦後史観として述べてまいりました。外務省ホームページの南京事件に根拠なしということでありまして、私は実は南京事件という言葉も使いません。正確な言葉を使う必要があるという風に思っておりまして、私は南京事件ではなく南京戦、南京攻略戦と言っています。さらに正確に言うのであればですね。支那事変下における南京攻略戦と言っておりますし、私は太平洋戦争という言葉も使いません。これは戦後GH Qが大東亜戦争とそのまま呼ばれると都合が悪いという風に考えたことから、太平洋戦争という呼称を広く提唱しました。けれども、これはまさに我々は大東亜の民族の開放独立のために戦ったわけでありまして。私は大東亜戦争もしくは先の対戦ということを、国会の質疑でも公式に使わせていただいています。こういう正式な歴史に載っとった用語を使うということが、東京裁判史観というものからの脱却につながってくるわけであります。
先人たちは極めて悪いことをしたそういうようなことが学校教育現場でも教えられて、まさに戦前たちが命をかけて戦った先の戦いというものが何なのかということがわれわれに正確に継承がされていない形になります。 NHKスペシャルも8月15日に向けて様々なものが作ら作られるわけでありますが、例年非常に歴史的事実からそれまた確認というものがしっかり行われていないような番祖というものも作られます。また、これは朝日毎日を始め新間紙面でも同様のことがありまして、私はこういったものをしっかりチエックをいたしまして、おかしなことがあれば指摘をして、そして皆様にもお伝えをしていきたいという風に思っております。で、この南京戦についての集会でありますけれども、外務省のホームページで日本政府としては日本軍の南京入場後、非戦闘員の殺害があったことは否定できないと考えていると記述があるわけにあります。けれども、これについて、私は国会質疑で明らかにしたのは、外務省内にこの根拠となる文書は存在しないということ。また外務大臣は根拠となる文章が存在すると言ったんですが、これを突き詰めていくと、戦後30年が経過した1975年(昭和50年)になってからまとめられた「戦史囂書支那事変陸軍作戦」防衛庁防衛研修戦史屋編に「無辜の住民が殺傷され」という記述がみられ根拠としているということでした。
非戦闘員や住民が巻き添えを食らって死亡したとの前提の上で記しているものでありますので、日本軍が意図的に一般住民を殺害したといういわゆる南京大虐殺が、日本政府の公式文書からは全く確認できないわけであります。
こういったところからも東京裁判史観というものを脱していかなくてはならないわけであります。東京裁判史観にとらわれている最たるものは日本国憲法であり、これはGHQが英文で原案を書いて日本政府に渡したものであるわけであります。まさにこういったことを正統性につなげているわけであります。これはまさに米国がやった無差別殺戮、2つ原爆、東京大空襲で無辜の市民の10万人の無差別殺害ということを米国が行ったということを考えた時に、東京裁判で、米国はそういう一般住民を殺害した理由として、南京におけることであるとか、そういったものをあげて、だからこういったことをやったんだという正統性につなげているわけです。

さて、南京いた外国人たち(ほとんどがアメリカ人宣教師)が作った難民区の代表になっていたドイツ人のラーベ委員長は次のような手紙を南京陥落後の12月14日に日本軍の松井大将に送っています。

『私どもは貴砲兵部隊が安全地帯に砲撃を加えなかった立派なやり方に感謝し、安全地帯の中国人一般市民の保護に関する今後の方策について貴下との接触を確立するために、この手紙をお送りしております。』


ラーベの手紙 第1号

松井大将時は、この日(12月14日)に南京にいた中国人良民に安民布告を発布しています。

1937年12月15日 朝日新聞

日本軍は南京市民の食糧確保を行うために、12/14から良民証の発行作業を行い、12/24までにほとんどの部隊が南京から出て、残ったのは4000人の警備兵でした。12/23には南京自治員会が発足し、翌年1月10日には南京警察庁が発足しました。画像右は中国人警察官、左は中国人婦人警察官。

さて南京事件について書かれた1次資料である
『南京安全地帯の記録』
『南京事件資料集・米国編』
『ヴォートリン日記』
『ラーベ日記』に記録された殺人事件を合計すると、事件総数94件(犠牲者数2,858人)(重複計上を含む)となります。
しかし民間人の殺害は53人でした。
しかもその殺害方法は通州事件に似ていて、日本軍がやった確証はありませんでした。
南京の女性と子供の死体の割合は 0.3% でしたが、
東京大空襲は 死者の6割が女性でした。最も多くなくなった年代は9歳以下の年代でした。

アメリカ軍は日本本土攻撃で日本人民間人ホロコースト焼夷弾爆撃を繰り返し、ナチスよりも残虐なことをし続けました。米軍スティムソン陸軍長官の6月6日の日記にはアメリカがヒットラーよりはるかに残忍な行為をしているいう悪評を受けるようにはなりたくないと書かれていました。

https://www.youtube.com/watch?v=Tk3d_d5FI44リンク動画より

ナチスが行ったアウシュビッツでおこなったユダヤ人ホロコーストは10日間で約5000人でした。

7月1日から9日までに
アメリカ軍がホロコースト焼夷弾爆撃で虐殺した日本人民間人は1万4千人

7月10日から9日間に
アメリカがホロコースト焼夷弾爆撃で虐殺した日本人の民間人は9000人

アメリカは日本全土をホロコースト焼夷弾を使ってアウシュビッツに変えていきました。

東京大空襲は150分で10万人をホロコーストしました。
長崎・広島では一瞬で数万人が灰になりました。アメリカが行ったことはナチスよりもはるかに残虐な行為でした。
アメリカ政府は日本に原爆を落とすまで和平の交渉につかなかった。20億ドルかけて開発した2種類の原爆を日本人に落とせたので、和平のテーブルに着いたのが事実だった。戦勝国プロパガンダに洗脳された人々は言います。原爆は戦争を終わらせた。原爆は多くの人を救ったと。悪魔に騙されていることに気が付かない悪魔と地獄に行く人の論理です。

1945年1月に日本の和平案にアメリカがテーブルについていれば、終戦時と同じ条件だったのでアメリカ兵の損害もほとんどなかったでしょう。アメリカ政府は組織的に虐殺を行った戦争犯罪国家の汚名を着る必要もなかったのです。
1945年1月時点ではルーズベルト大統領は生きていたので、戦争を始めたことと継続したことの大きな責任がルーズベルト大統領にはありました。

真珠湾攻撃のほぼ5か月前の1941年7月23日、ルーズベルト大統領と他の米国の指導者たちは、その年の9月下旬にフライングタイガースが日本本土を突然爆撃する計画に署名しました。宣戦布告なしで戦争を始めていたのは米国でした。

1944年9月18日の「ハイドパーク覚書」で
ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相は、原爆を「日本人」に「繰り返し」投下することで合意していました。2人の非人道性を感じます。

ルーズベルト大統領は神に叩かれ、1945年4月に亡くなりますが、後を引き継いだ副大統領だったトルーマン大統領は原爆開発20億ドルの賭けに勝ったと原爆投下を喜んでいます。

ヒロシマのウラン型とナガサキのプルトニウム型の2種類の原爆をトルーマン大統領は開発費の議会承認を容易にするため同時に投下命令を行っている。彼の決定で20万以上の民間人が虐殺され、アメリカ人はそれを喜んでいるのです。

南京事件を調査せよは、5章として南京事件とは関係ない旅順の話が続いています。あまり読む価値がない本と思いました。

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