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安田浩一さんは沖縄の集団自決の歴史を知っているのか

2月7日に取材に応じた安田浩一さん

 月刊日本3月号に「成田悠輔氏を断固批判する」という中村友哉さんによる安田浩一さんへのインタビューが掲載されています。安田浩一さんのインタビューは副題として「君は沖縄の集団自決の歴史を知っているのか」ですから、安田浩一さん不安、いやファンの私としては期待せざるを得ません。
 気になったのは、このインタビューが行われたのが2月7日ということでした。ご存知のとおり、安田浩一さんはメディアとしてタグマ!に「安田浩一ウェブマガジン ノンフィクションの筆圧」を所持しており、毎月660円を課金した読者に対して、過去記事の焼き直しというカーボン紙を重ねた2枚目ですら写っていないのではないかとしか考えられない筆圧の弱い有料記事を配信し続けています。そして、安田浩一さんは、2月に過去記事の焼き直しすら配信せずに、他人の描いたどう褒めたらいいのか困惑するレベルのイラストでお茶を濁しています。このインタビュー記事が2月に行われたことを知った私は、安田浩一さんが動かなければ何も動かないというより責任の重いタグマ!の記事を執筆することを放ったらかしていながら、インタビューに答える時間やNoHateTVに出演する時間があるのかと呆れました。ただ、安田浩一さんの立場から考えれば、インタビューやNoHateTVは、新たにギャラが発生しますが、タグマ!は記事を書いても書かなくても購読料が入ってくるのは確実ですから、前者を優先するのは仕方ないのかもしれません。

「差別と排除の思想の持ち主」というブーメラン

 まず、成田悠輔さんに対する私の見解を明らかにしておきましょう。将来的に日本において高齢者に対する福祉や保護政策が破綻する可能性があることは想定され、そういう時代がきた場合に日本はどう対応するのかという議論は有益であると思いますが、これは成田悠輔さんのようにへらへらしながら議論するものではなく、慎重に言葉と態度を選びながらなされるものであると考えます。その点で成田悠輔さんを擁護する気は全くありません。
 本題に戻りましょう。この記事の中で「差別と排除の思想の持ち主」と成田悠輔さんを批判していますが、この批判はまさに安田浩一さんにこそなされるものであると思います。安田浩一さんは、金城重明さんの「軍から何か命令があったらしい」という話が「伝わってきた」という不確かな証言をもとに、沖縄県渡嘉敷村の住民が家族を殺害したのは軍の命令によるものだと断言することこそが沖縄県民に対する拭いきれない安田浩一さんの差別感情を露呈させたものであると思います。なぜならば、安田浩一さんは、そのような根拠の薄い検証が必要な証言をそのまま信じており、それは沖縄県民が軍の命令ごときで愛する家族を手にかけるような人間性を持っているという認識が下地にあることが容易に推察されるからです。本来であれば、自分の生命と引き換えにその生命を守ろうとするかもしれないほど深い絆で結びついた家族を手にかけることは、余程の理由がなければならないと思いますし、その理由はその場にすらいない軍の命令であるはずがありません。ましてや、現代の私たちとは比べ物にならないほど家族の絆の深かった時代で、しかも自然環境の厳しい離島で、都市部と異なってインフラすらろくに整備されていない人と人のつながりが最も強い心の支えとなっているともいえる環境で、軍の命令ごときで人が家族を殺すと考える安田浩一さんは、作家を名乗っていながら人の心が全く理解できないほど洞察力に欠けた人物なのでしょうか。それとも沖縄県民がそのような人の心を持たないような存在であった方がご自身のシノギやイデオロギーに都合がよいのでしょうか。

集団自決の原因として有力な米軍の残虐行為

 それでは、渡嘉敷島をはじめとする離島の沖縄県民はなぜ集団自決をせざるを得なかったのでしょうか。その有力な理由として考えられるのが米軍の残虐行為です。私のnoteでも触れましたが、リンドバーグ第二次大戦日記 下」(角川ソフィア文庫)に米軍の残虐行為について記述があります。

1944年6月26日 日曜日
 小屋の壁の一つに、絹地の日本国旗が3枚かかげてあった。日本軍兵士の死体から取ったものだという。
(略)
談たまたま捕虜のこと、日本軍将兵の捕虜が少ないという点に及ぶ。「捕虜にしたければいくらでも捕虜にすることが出来る」と、将校の一人が答えた。「ところが、わが方の連中は捕虜をとりたがらないのだ」
「*****では二千人ぐらい捕虜にした。しかし、本部に引き立てられたのはたった百か二百だった。残りの連中にはちょっとした出来事があった。もし、戦友が飛行場に連れて行かれ、機関銃の乱射を受けたと聞いたら、投降を奨励することにはならんだろう」
(太字部分は私の加筆。以下同じ)

チャールズ・A・リンドバーグ 新田哲夫 訳 「リンドバーグ第二次大戦日記」

1944年7月21日(金曜日)
 今朝、ビアク島の断崖にたてこもる日本軍の強力な拠点に再度の攻撃を加えることになった。
(略)
 今日の午後、断崖の上に佇み(発疹チフスに罹る恐れもあるので地面にはとても坐れぬ)、砲撃が尾根に撃ち込まれるのを眺めやった。もう何週間も、二百五十名から七百名の間と推定されるいわばひと握りの日本軍は圧倒的な強敵に対して、また充分に補給された火器が撃てる限りの猛砲撃にも、その拠点を死守し続けてきたのだ。
 仮に攻守ところを変えて、わが方の部隊がかくも勇敢に立派に拠点を死守したのであれば、この防衛線はわが国の歴史上、不撓不屈と勇気を犠牲的精神との最も栄光ある実例の一つとして記録されたに相違ない。が、安全でかなり贅沢な将校クラブに坐しながら、これらの日本人を「黄色いやつばら」と表現するアメリカ軍将校の言に耳を傾けなければならないのである。彼らの欲求は日本兵を無慈悲に、むごたらしく皆殺しにすることなのだ。オウィ島に来て以来、敵に対する畏敬の言葉も同情の言葉も聞いた覚えは全くない。

チャールズ・A・リンドバーグ 新田哲夫 訳「リンドバーグ第二次大戦日記」

1944年7月24日(月曜日)
 午後、クローズド・スタップス少佐ら数人の将校とジープで木目る西方の洞窟に出かけてみる。日本軍が最も頑強に堅守した拠点の一つだ。
(略)
 ある場所では(日本兵の)一個の遺体に二つの首が並んでいるかと思えば、他の場所では遺体に首が無かった。なかには四肢がばらばらになり、身体のかけらしか残っておらぬ死体もあった。そして同行の将校が言ったように「歩兵はお得意の商売にとりかかったようだ」。つまり、戦利品として金歯をことごとくもぎ取ったというのである。
 洞窟群にたどり着くまでには山道を横切り、もう一つの丘を登らなければならぬ。山道の片側にある爆弾で出来た穴の縁を通り過ぎる。穴の底には五人か六人の日本兵の死体が横たわり、わが軍がその上から放り込んだトラック一台分の残飯や廃物で埋もれていた。同胞が今日ほど恥ずかしかったことはない。敵を殺す、これは理解できる。戦争の欠くべかざる要素だ。敵を殺戮するいかなる方法も正当化されるだろう。しかし、わが同胞が拷問によって敵を殺害し、敵の遺体を爆弾で出来た穴に投げ込んだ上、残飯や廃物を放り込むところまで堕落するとは実に胸くそが悪くなる。

チャールズ・A・リンドバーグ 新田哲夫 訳「リンドバーグ第二次大戦日記」

 このような人種差別意識から日本軍兵を人間扱いしていない米軍兵士は日本軍兵士の遺体を土産として持ち帰ることが常態化していました。

1944年9月14日(木曜日)
 日の出に目が覚める。頭上で積雲が晴れるところ。グリニッジ常用時18時2分、ジョンストン島に着く。
(略)
 到着したとき、海軍航空輸送事業所にはたまたまジョン・ヤング大佐ら数名の海兵隊将校が居合せていた。大佐からエワで一夜を過すようにと招かれる。通関をすませ、車でエワの基地に向った(税関吏は荷物の中に人骨を入れていないかと質問した。日本兵の遺骨をスーベニア(土産物、記念品)として持ち帰る者が数多く発見されたので、相手構わずこのような質問をせねばならないのだと言う。税関吏はまた、手荷物の中にまだ「緑色をしている」日本兵の頭蓋骨を二個も忍ばせた男を発見したことがあるとも言った)。

チャールズ・A・リンドバーグ 新田哲夫訳「リンドバーグ第二次大戦日記」

 米軍は、日本軍の兵士の捕虜をほぼ皆殺しにし、その遺品を奪い去り、遺骨もまた土産や記念品として持ち去っていたわけです。
 戦時下、しかも最前線になってしまうのではないかと考える恐怖から沖縄県民は安全に関する情報に敏感となっていたことが強く推認されます。徹底的な情報統制をなしたとしても、どこからか米軍の残虐行為を推認させる情報は流れてくるものです。そして沖縄戦の敗戦が間近になることによって沖縄県民にとって米軍の残虐行為はまさに現実の恐怖となってしまい、そのような残虐行為によって無残な死を迎えるより自らの手で少しでも苦しみを減らし人間としての尊厳を損なわないような死を迎えさせてやりたいと考えた気持ちが集団自決につながったものと思います。