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栗原俊雄さん執筆の毎日新聞記事の出鱈目さ

「補償」の意味をわからずに政府を批判する愚

 栗原俊雄さんが毎日新聞に先の対戦に関する報道や政府の姿勢について記事を書いています。ただ、その内容が「少しは調べたのか」というレベルで眩暈がしています。

 大手メディアが8月に力を入れる戦争報道を、私は一年中続けている。物珍しいのか、夏以外にもしばしば講演やトークイベントに招かれる。
 取り上げるテーマの一つが、大日本帝国の戦争と「国民の戦争責任」だ。
 1945年8月15日も含めれば80回目となる「敗戦の日」を前に、この問題を考えてみたい。
 なお、先回りして言えば、新聞の戦争責任は非常に重い。稿を改めて論じたい。

「補償」の言葉を嫌う政府

 30年前の94年12月1日。
 衆院厚生委員会で「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律案」と「原子爆弾被爆者援護法案」について議論が交わされていた。
 焦点は被爆者に対する補償だ。
 原爆に限らず、政府は戦争被害者に対する「補償」という言葉を嫌う。国の不当な行為が国民に被害をもたらした事実を認めたくないからだ。
 代わりに前面に出すのが「慰謝」。つまりなぐさめだ。
 質疑の中で与党・自民党の熊代昭彦議員が述べた。
 「戦争に走った指導者を許してしまった、そういう国民の結果的な責任ではございますけれども、そういうものがあるということで、ひとしく受忍すべきであるというのも一つの考え方であります」
 ここで言う「受忍」とは、「戦争では国民全体が何らかの被害を負った。だから、それぞれが耐え忍ばなければならない」という理屈(戦争被害受忍論)であり、被害者への戦後補償を拒む政府やそれを追認する裁判所が繰り返してきた「法理」だ。

毎日新聞「『国民にも責任があった』 酷すぎる見方に欠けている視点」

 最も大きな誤りが、「補償」という言葉に関する理解です。「補償」とは、国や地方公共団体などの正当な業務によって損害を受ける者に対する金銭などによる損害の補填で、違法や不当な行為によって損害を受けた者に対する金銭などによる損害の補填である賠償とは意味が異なります。
 戦争は軍服を着た兵士の殺し合いによって国際紛争を解決しようとするもので、侵略戦争でない限り国際法上違法ではありません。しかしながら、原爆投下は最初から兵士だけでなく民間人の殺害を目的とするものですから、その責任を米国に課すとしても、政府に課すとしても、その被害を「補償」することなどあり得ません。「補償」という言葉にこだわる栗原俊雄さんは、ひょっとして原爆投下が国際法で認められた正当な行為であるとでも考えているのでしょうか。
 なお、栗原俊雄さんが嫌う「慰謝」という言葉ですが、これは原爆投下によって死亡したり怪我をしたりしたという目に見える損害を補填するのが「賠償」で、精神的な苦痛に対して金銭などを支払うことを「慰謝」と言います。したがって、「補償」よりはよほどまともな表現であると考えるべきであると思います。記事を書いた栗原俊雄さんも何もわかっていませんが、この記事を校正したはずの毎日新聞の校正担当はまったく機能していなかったと言ってよいでしょう。