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親の希望

妊娠がわかってから性別がわからないまま 牛年に生まれるので「モーモーちゃん」と呼び時には話しかけ、時には歌いともに過ごした10か月

胎教に良いといわれるものは貪欲なまでに行い
アレルギーになりやすいから卵は出来るだけ食べないようにと医師から言われ生まれるまで脱卵の生活をするなどプレママらしい月日を過ごす

夏はとても暑くアイスキャンディーが食べたくなっても「体の中の赤ちゃんが冷えるからだめよ」と言われて速攻で我慢
悲しいことがあって泣いていても「おなかの赤ちゃんがママの泣いているのを聞いているよ」
「両親のけんかも聞いているからケンカしちゃだめよ」

そんな周りの先輩方の話をまじめに聞き入れ安定した産前

裏六甲の秋風が吹く金木製が満開の10月に息子に会えた

大きな元気な男の子

授乳タイムには助産師さんの言われる授乳タイムの1/2であっという間に予定の体重増

片方しか飲んでないのにもうすでにクリア

食欲旺盛の元気な男の子はすくすく育ちトトロのような大きな頼れる大人になりました。

生まれるまでは元気で健康であればそれ以上のものは望まない!と思っていたものの

大きくなると親というものは欲が出てくるもので、もう少し運動が出来れば

もう少し勉強ができれば…など一つ一つ希望的観測が増えてくる。

反抗期にはそれなりに経験しクリア

1歳になる前に離婚したので父親という存在を知らず、祖父が父親代わり、祖母が母親代わり。

私は働くお母さん兼お父さん いわば、年の離れた兄弟のようなもの(サザエさんとカツオの関係)

母親らしくない私は参観日に行くと周りは知らないママさんたち

「〇〇ちゃんのお母さんってどなたかしらー」など隣に座っているママさんが私に聞いてきて苦笑い・・・

「〇〇ちゃんなんでお父さんいないのー?」と息子のお友達は私を見つけて質問ぜめに会う始末

月日は流れ、父が亡くなり、母が施設に入ってしまった私達4人家族は2人だけになってしまった。

母と子として2人きりで暮らしたことも一時期はあったものの結局4人家族に戻ってしまった。

息子にしたら私と暮らすのはぎこちなかったのだろう。

ある日とても神経質な息子の部分を知った。

直そうとしたがそれが引き金となり私たちは前のような仲良し親子ではなくなった。

気が付けばずっと手を洗ってばかり…

息子にとって私の両親が親代わり。その2人がいなくなるということは息子にとって大きな柱がなくなることと同じ。

そんなことすら理解していなかった。そこにコロナという恐怖が時代を飲み込んだ

私は息子のことを理解していると勘違いしていた。

何にも解ってはいなかった。

何も・・・

子供は自分の所有物ではなく一人の人としてかかわってきたつもりだったがやはりエゴを押し付けていたのだろうか?

私私は息子のSOSに気が付かない鈍感な勝手な母親。

小さいときは元気で健康であればそれ以上のものを望まないと強く思っていたのだけれどいつしかその思いはとても小さくなってしまっていた。

息子が周りの人に父親がいないからといじめられたりしないように力をつけさせたかったそれだけ。

いつの間にか息子の心が不安でいっぱいになったのも気が付かず、ある日私に対して爆発したことでわかった。

しばらくはぎくしゃくした関係が続いた。

あの子のことを一番理解している母に相談するとこんな答えが返ってきた。

「あの子は優しい子だから寂しいだけよーそのうち元通りになるから普通にしといたらいいわ」

やはり偉大なる母だ(何といっても同じ人に私たちは育てられたのだ)

母の言う通りいつの間にか息子も元通りになって今は人生を楽しんでいるようだ。

息子のためと思っていても、彼にとっては寂しいことを我慢させれられていた事がたくさんあったのだろうなあと感じる今日この頃・・・

と反省をしながら誕生日を迎える私。


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