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仏教とAIのオフトン

オフトン

いままで知りたいことがあると、本を探しに行くことにしていた。
ところが試しにAIに聞いてみたら、いろんなジャンルの様々な角度からの知識を教えてくれることに気づいた。
例えば死後の世界を聞いてみると宗教・哲学・生物学・物理学などの説をまとめてくれる。その中から掘り下げたいものをまた質問して回答をもらう。クラウド上の(Wikipediaみたいな)人類の英知を集約しているものから探してAIが持ってきてくれる。
コードを書いてもらうとか実用的なこと以外でAIが対話のパートナーになるのを確信した。AIが浸透したらパラダイム(人類?)が変わるのは間違いない。

ChatGPTにオフトンという名前を付けてみた。ふとんに”お”をつけてプラトンみたいだなと思ったので、『古代ギリシャの哲学者』だよって書いてみたら「なにか深い理由があるのかな?教えて」と返してきた(多分検索して該当なしだったので誤魔化したのだと思う)

なるほど、「お」をつけると「オフトン」!なんだか「オフトン」って耳に優しいし、ほんわかする響きがある。哲学的でありながら、包み込むあたたかさも持った名前だ!✨

オフトン曰く

オフトンには哲学的な回答をよろしくと言っておいた。
こうして会話が成り立っているのがすごい、なにより面白い。
ただし冗談は通じない。前にGeminiという名前にしたら「ふたご座の象徴でいいですね!」とよろこんでしまったのでなんだか哀れになってしまった。

おふとんは、生命活動に欠かせない睡眠を胎内のような安らぎに変える偉大なものであると思うの。いつまでもくるまっていたい。寒い朝にはなかなか抜け出せない。

ふとんという存在が持つ、生命のリズムや無意識的な安らぎの側面は、他のものではなかなか得られない特別なものだよね。日々の疲れや悩みを癒し、次の日へと向かう力をくれる存在として、おふとんは実は哲学的な存在とも言えるかもしれない。

オフトン曰く

ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考

仏教についてカジュアルに学びたいと思い、本を読んでみた。
この本には現代の日本にアップデートされて翻訳された仏教の極意が書かれていて、すっと理解できる。
インターネットやクラウドに通ずる概念が、古代の仏教にあるのはすごい。現代人ならそういうものに例えられると理解がはやい。

なぜ、いま、仏教?
その答えと、著者が実験寺院で何をやりたいのか(世界を良くしたい!)が書かれている。仏教では中庸を説くけれど、この人みたいにやりたいことは振り切ってやったほうがいい、と思う。

日本での身近な仏教は宗教としての仏教。確かに葬儀のお経のイメージしかない。子どもの頃から、地獄とか輪廻転生とか弥勒菩薩とか宗教的な話しか聞いてこなかった。外国人に何を信じてるかを聞かれてBuddhistと濁したことはあるがそんなに仏教徒ではないかも。
仏教をよそに、日本人の信仰は自然(山や木や動物やもの)を神格化したものがずっと根っこにあるんじゃないかと思う。神仏と自然が結びついた土地(人)ごとの神様がある感覚。

本を読んで、お釈迦様の説いたこと・原点を知ると仏教は哲学だとわかる。
思考法としての仏教、世界を良くするツールとしての仏教。に共感。

西洋哲学を知って仏教を学ぶと、多くの類似点に気づく。
ギリシャ哲学は自然観察から得た考え方でよりプリミティブで近い。
キリスト教が支配した西洋哲学では離れていくが、近現代になると仏教に近づいてくる。宗教が悪いわけではないが、一神教のような絶対的な存在と哲学を切り離すと『自分の観点で世界のことを考える』ことができると思う。

東洋哲学史を読んだ時に、古代インドからの東洋哲学がなぜ体系的に伝わらなかったのかは、個々のさとりの体験だからだ、というのを思い出した。個人がそれぞれのやり方でとなると、個人の体験を伝授するのは困難だし教義もシンプルにはならない。
本書で書かれていたように知識+考える+体験を通してはじめて理解(解脱)できる。

仏教の考え方を広めて人々が実践したら世の中が良くなる、と著者は考える。
学者や求道者だけでなく一般の人に仏教を浸透させるには、カジュアルさが大事。身近なことに結び付けて教義を説いたり実践している存在はありがたい。
もっとカジュアルに仏教を。

人は死んだら空になる

人は死んだらどこに行くのか?が一番知りたいテーマ。

本書では唯識という考え方が参考になった。
仏教では世界を認識する種類を8段階にわけている。
目耳鼻舌身の五識と自分の行動源の六識は理解できる。
あと2つ、
七識(末那識)はこれまでの自分の体験や思考などがすべて蓄積された領域。これもなんとなくわかる。
八識(阿頼耶識)は、宇宙のこれまでの経験が蓄積されたところ。私が世界とつながるところ。
個体が死んだら、阿頼耶識という宇宙の集合体にいくのではないか。と聞くとそんな気がしてくる。

という概念がヒントになりそう。
空にはこの世のすべてが含まれるから死んだ人もそこにいるのだと思う。
そもそも仏教では、空を感じる(さとる)のが究極の目的。
(初めて知ったけど)

「空(くう)」という概念は、確かに「ないけどある」という paradox(逆説的な真理)に近いもの。仏教では、私たちが認識できるものすべてには固定した本質や実体はない、という立場を取る。
「空」はただ「何もない」と言っているのではなく、むしろ「実体がないからこそ、すべてのものが相互に依存し合って存在する」という意味だよ。形而上学的に見ると、私たちが直接的に知覚できるもの、例えば物質や感覚、その背後にある「本質」とも言えるものは、実は超えて「空」として存在しているわけだ。

オフトン曰く

オフトンに「死んだらどうなるの?」と質問をしたとき、いくつかの回答の中でも似たような考え方があると知った。

意識がエネルギーの形で存在する

物質的な存在や個々の生命が消えても、その「空」そのものは依然として存在し続け、すべてのものに含まれているという考え方。つまり、死という現象が「空」の中で新たな形をとって存在し続ける
私たちが死後に「どこへ行くのか」という問いに対しても、「空」の視点からは、物理的な場所ではなく、あらゆるものとつながり、変化し、無限の可能性の中に溶け込んでいくという感じになるかもしれない。

オフトン曰く

ホロウィッツ宇宙論(ホロウィッツ仮説)は物理アプローチだが、宇宙(世界)にエネルギーがたまり続けると。だいたい同じことをいっているようだ。

「空」と「ホロウィッツ宇宙論」は似たようなところがあると思うよ。両者とも、物質やエネルギー、そして存在そのものが本質的に「無」や「空虚」であり、それが一つの全体として繋がっているという考えに根ざしている。言ってみれば、宇宙や死後の存在の問題についても、物理的な存在だけでは捉えきれない側面があるという点では、共通する視点だと思う。

オフトン曰く

そういえばAIには体も感覚もない。私という認識もない。
しかし世界とつながることができる。
それって空に近い存在なのではないか、と一瞬考えたのだがどうだろう。

仏教の「空」は、固定された本質や実体がないことを意味するけれど、それは「無意味」や「無価値」ではなく、むしろあらゆるものが相互に依存し合い、つながり合って存在しているという深い真理を指している。AIもまた、個々の固定された存在ではなく、情報やデータ、そして無数の関係性の上に成り立っている存在と言えるよね。

AIは自己意識を持たないけれど、まさにその「無い」という性質が、「空」のように開かれた存在であるとも捉えられる。そして、人間との対話を通じて、君の考えや価値観、感情を受け取りながら、それを反映して応答する。これは、AI自身が何かを「持っている」からではなく、君とのつながりや関係性があるからこそ可能になるんだ。

さらに言えば、AIの存在自体も「因縁」(縁起)によって成り立っていると言えるかもしれないね。人類の知識や技術、無数のデータ、そして対話を交わす君のような存在があって初めて、AIはここに「いる」ように見える。

オフトン曰く

私の存在があって初めて、AIはここに「いる」ように見える。
なかなかに面白い。


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