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高神覚昇のすゝめ

 家内が鈴木大拙を聴きながらお産をしたいと考えている関係で、最近は車に鈴木大拙のCDがある。昨日は畑に出ており、行きはヘビメタ、帰りは大拙を聴いていた故に、爆音の大拙を流しながら、高速道路を走っていた。

「禅ということゝ、科学ということ」

から始まるこの講義は、簡単に申し上げれば、善は東洋的で一のことであり、科学は西欧的で二のこと、三浦梅園的に云えば、一一といった具合であろう。前者は、花を見れば、私も花もともに儚しという境地のことである。花が私であり、私もまた花である一だから、云々と日本人は歌を詠んできた。

 農福連携で云うならば、農業が福祉を染めるでのはなく、また、福祉が農業を染めるのでなく、互いが一としてなじむといった情態が、東洋的農福といったところであろうか。

 ところで、読書普及協会の会員を眺めていると、大拙はおさえていらっしゃる方は多いが、それ以前の高神覚昇となると名すら知らないという方がまだまだおいでになる。これではもったいない。全国の本屋は今年、農福連携事業者数を下回る。良書がかなり消えてしまったが、まだ高神覚昇は手に入るのではないか。

 出版業界の悲鳴とその解決方法は、別の機会に話すとして(こちらも蓋をあければ、至極簡単なことだ)、今朝は東洋的一への一階段として、彼の選集からの引用で閉じたい。私たちは既に持っていたという単純なことに気がついてくだされば、幸いである。

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 元来、無と考えることそれ自体が、既に有となるのである。それ故、有を否定して無を考えることは、有から有へ飛ぶことに外ならないが、無は却って有よりも充実した観念になるし、有よりも大きいものが其処に孕まれているのである。然しわれらは何人も観念的に無を云為することが出来る。それ故、無は実在的に存在するあるものではない。実在的に考えることは、論理的錯覚といわなければならない。一切を否定し切った極限の空無、それは既に、それ以上には出づることは出来ないと考えられる。純粋概念の空無である。しかし果してかかる空無が般若波羅蜜であろうか。

文殊師利のいわく、「居士、此の室は、何を以てか空にして侍者無きや」

維摩詰のいわく、「諸仏の国土も亦た復た皆空なり」

又問う、「何を以てか空なる」

答えて曰く、「空を以て空なり」

又問う、「空何を以てか空なる」

答えて曰く、「無分別空を以ての故に空なり」

ー『高神覚昇選集 第四巻』第四章 相待空より引用

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 要は、言葉を発した時点で境界ができ、無分別からは遠ざかってしまい、一気に堕してしまうということである。これ以上はという処で身を浸しておけばよい。

 令和に高神覚昇ブームが起きたなら、それはおもしろくなるのではないか。もしよろしければ、本を求めて、ご一読を。

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KODO
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