『橋姫』 #創作大賞2024
一、@OFFICE 7/6 18:33
ジャックポット博士の噂をエマが訊いたのは、数日前の晩であった。
妹のキャメラが紅茶をいれながら、ジャックポットで無敗の男が一週間くらいまえから店に出没しているとエマに伝えてきたのだ。
「そんなの出鱈目よ」
「でも、博士は無敗なの」
「信じないわ」
「お姉ちゃんもやってみればいいじゃない。ここ数年、ジャックポットで誰も勝っていないんだから」
キャメラのバアでは、ジャックポットなるゲームが夜な夜なバカみたいにくりかえされ、客の飲酒量を強引に増やしていった。その客のなかに、神がかっている東洋人がいるというのである。ふらりと時折現れては、大概は二週間程度店に顔を出し、また何処かにいってしまう。おそらく世界各地を旅しているのではないかということであった。
「ジャックポット博士か」
キャメラは元から長い髪にさらにウィッグをつけて、髪先を巻いている。
おとぎの国から亡命してきたばかりのペルシャ人形みたいであった。
自分だけが結婚に失敗し、今はすぐ下の妹たちとここプノンペンで同棲。エマは姉妹にご飯も食べさせてもらっているこの現状から、いち早く脱したかった。
木材の違法販売で夫が逮捕されたのは、つい先週のことである。
週の五日以上は家を留守にし、ひたすら地方に木材を仕入れにいく日々を夫は送っていたため、新婚でありながら、エマはひどく孤独であった。電話しても繋がらぬことが増え、気がつけば1日に100件以上も夫の携帯電話に不在着信のマークをつける日もでてくる始末。あきらかに自分の異常さは理解していたものの、かといってどうしてよいかエマ自身にもわからなかった。
朝から晩まで泣く日々がはじまり、目をいつも腫らしていた時期が半年続いた。
離婚の決意をしたのは、地方に女がいると知ったときであった。
薄々は勘づいていたものの、あえて見ぬふりをしていた日常に、突如、終止符が打たれたのである。朝一番に女が尋ねてきて、夫は自分のものだと主張してきたのだ。いかにも気の強そうな厚化粧の嫌な女であったが、それ以上に目だけを腫らした化粧っ気のない自分が惨めであった。
そもそも他に女がいることは、結婚する前からわかっていたことではあった。しかし、この国では最初につきあった男と結婚せぬ女は蔑まされてしまう慣習が未だに根強く残っている。結婚すれば、夫は変わる。結局、そう信じてきた自分の世間知らずぶりが露呈しただけの年月を過ごしただけであった。
女がやってきた晩、エマは夫を責め、離婚の意思を告げた。
意外にも夫はサインを拒否し、
「ハニー、違うんだよ」
とおろおろし、泣き始めた。
泣きたいのはこっちであったのに。
結局、夫はそのまま数日間、家を留守にした。
こんな生活がいつまでも続くのだと絶望していた矢先、夫が逮捕されたという一報が届いたのだ。女のもとに逃げたとばかり思っていたが、夫はどうも仕事をしようとしていたらしい。
「あのクズ男が出所してきたら、問答無用で離婚してやる」
「は? 逮捕されたんでしょう。今すぐ離婚すればいいじゃん」
「したいけど、あいつ、絶対に離婚届にサインしないって散々言ったでしょう」
「バカね。伴侶が罪を犯した場合、一方のサインだけで離婚はたしか成立するんだよ」
「キャメラ、それ本当?」
「結構、有名な話だと思うけどな」
「そうなんだ。でも、お金が……」
夫と別れるということは、収入がなくなるということも意味していた。
結婚まえまではフットボールの試合を賭ける会社で接客をしており、客が勝ったときなどは気前よくチップをくれたものなのだが、法律が厳しくなり、その会社はとうに倒産している。ギャンブル好きな国民性のため、一試合に全財産をオーアダムンしてしまう者も珍しくなかった。当然、財を失う者が多くなり、結局は窃盗が増加してしまったというのが法律改正の理由であった。
「うちの店、紹介しようか。つなぎとしてはよい店だとおもうよ」
キャメラの仕事先は118通りのリバーサイド近くにある@オフィスという外国人向けバアである。キャメラはそこでポールダンサーの仕事をしていた。天井から花びらのようにクルクルと肉体をくねらせて降りてくる姿は、女のエマから視ても妖艶だ。
「でも、キャメラみたいに踊れないし」
あの長い脚とクメール人離れした曲線美を見せられては、とても同じ舞台にあがる気になれない。妹に栄養を全部とられたのか、エマの身長は155cmにも満たなかった。妹に勝てそうなのは、英語の発音くらいしかない。妹の舌はあまりに長過ぎてしまって、うまく歯茎を押せないのだ。
「あら、ダンサーじゃなくてもいいじゃない」
「接客なんて、もっと厭よ。西欧人は大き過ぎて怖いもの」
「じゃあ、お姉ちゃんはカウンターのなかで酒をつくっているというのはどう? そりゃあ、バーテンダーだから給料はそこまでじゃないけれど、その分、危険はないわ」
「でも……」
「一日だけ体験してみれば。博士にも会えるかもしれないわ。たまにしか来ない人だから、顔を見れるだけでも貴重なのよ。それにね」
「それに?」
「万が一、お姉ちゃんが博士にジャックポットで勝つようなことがあったら、博士のあの神がかった運気をごっそりいただけちゃうかも」
キャメラは無邪気に笑っていた。
夫の逮捕からはじまり、怒涛の一週間が過ぎた。
そのあいだに、離婚と就職ができたそうなのは大きかった。
雨季はプノンペンに限らず、客足が遠のく。
日本のODAがはいり下水整備がかなり改善されたものの、未だプノンペンの排水環境はよいとは言い難い。21世紀に入り、もうすぐ四半世紀経つというのに、通りが膝下までの水たまりだらけになるのも、珍しいことではなかった。しかし今のエマにとっては、その客の少なさがなんともありがたかった。
博士と初めて会ったときも、外は暮方の驟雨であった。
のんびりとワイングラスの手入れをしていたところに、
「なあ、君。そこのゲームをとってくれないか」
と声を突然かけられたものだから、エマはびっくりしてワイングラスを落としそうになった。いつの間に来店したのだろう。男は色の着物のようなもの姿であった。後から知ったが、作務衣というらしい。帽子は真っ白なパナマ帽である。
キャメル曰く、博士はいつもその井出達なのだそうだ。
「え、私?」
「そうだよ、君がエマだろ」
微笑する男の背後にキャメラの姿があり、こちらに目配せしている。
「あら、貴方が噂のジャックポット博士なのね」
「どうも、そうみたいだ。しまらない名前だから、あまり好きではないんだがね」
「じゃあ、本名はなんて言うの。私はそっちで呼んであげる」
博士はゆっくりと微笑し、首を横にふった。
カウンターの棚からエマはジャックポットをとりだすと、「グッドラック」と言い添えて、博士にそれを渡した。異様に長い指でそれを受けとると、博士は「オークン」と礼を言い、女たちの群れへと消えていった。
なんて女性的な指をしているのだろうとエマはおもった。
この豪雨だ。他の客はしばらく来ないであろう。
エマは化粧室に寄り、自分の顔を鏡で見た。
すっかり目の腫れもひき、一週間まえとは別人の別嬪ぶりだ。化粧室を出たら、博士の席に行ってみようと思った。仕事も暇だろうし、何よりその神がかり的な強さを拝んでみたい。
化粧室の扉をあけると、すでに博士のまわりにはすでに二十名近くの女が群がっていた。いつもは軽蔑する景色ではあったが、今宵だけはその輪に加わりたい。
背伸びして様子をみたが、ジャックポットはまだ始まっていなかった。
女たちが博士のスマホを見ては、次々と口をおさえて爆笑している。
「な、本当だっただろ?」
自慢げに話す博士のスマホには、巨大なペニスを神輿でかつぐ日本人の画像があった。
「なんでクドーが神なのよ」
「というより、クドーが人間より大きいなんて」
あまりに女たちが「クドー」を連発するものだから、博士も気になったようで、
「工藤がどうしたって?」
と訊ねる始末である。
「クドーはクメール語でペニスのことよ」
キャメラがこう言って笑うと、
「それはよい話だね。日本は工藤さんだらけだよ」
と博士は微笑した。
「クレイジー。そんな可哀想な名の人がいるわけない」
「本当だって。誰か調べてくれ。どこかのミスター工藤がすぐに見つかるさ」
勤務中、スマホはママに預ける約束であったから、誰ひとり工藤を検索する者はいなかった。メッセージが届いているかチェックするだけで、一回五ドルを店に支払わなければならない。たしかに勤務中、客を無視してスマホをいじるのはよくないとは思うが、この店のスマホ管理システムもバカげている。
「まあ、しかしアレだな。君たち、クドーの元気がない男に金は貸さないことだ」
「どうして? クドーとお金が関係あるの?」
とキャメラが楽しそうに聞いている。
「もちろん。どんなに落ちぶれても、クドーさえ元気なら男はどうにかなる」
「そんな話、聞いたことない」
女たちが盛りあがる。
「あと抱くたびに射精してしまう男もやめときな。中国では有名な話なんだけれども、歴代の皇帝のなかで秦の始皇帝だけがこの教えを守らなかったから、奴は意外と短命だったみたいだね」
クドーの話題で盛りあがる女たちを尻目に、エマは、
「品がないわね。プノンペンでは今夜はロマンチックキスデーなのよ」
と話題を変えた。
早く博士のジャックポットが見たかった。
これ以上、クドーで盛りあがっても仕方がない。
しかし、いつの間にか女たちの視点が一斉にこちらに集まっており、エマは自分の発言にハッとした。
「ほう。ロマンチックキスデーなんて、洒落ているじゃないか」
博士も話に喰いついてきたことで、エマはさらに動揺した。
「あ、いえ」
顔が赤くなっていくのが自分でもよくわかる。
「よし、今晩の私にジャックポットで勝ったご褒美は、キスに決定だな」
「いらないし」
次々に女たちはこう口をそろえて笑った。
兎にも角にも、話題が変わったのでよしとしよう。
エマはいよいよジャックポットが拝めると胸が高鳴なった。
結局、エマが見た光景はキャメラから聞いていた以上のものであった。
博士が賽を投げているというより、サイコロが博士の身体を道具として目を出しているとしか思えない景色である。
ゾロ目で消せるものはほとんどゾロ目を出して消し、7や9のような数字に関してもサイコロに細工がしてあるかのような消え方をしていった。実際、「サイコロがあやしいわ」と言った女がいて、途中、店側がサイコロを変える場面があったが、それでも博士の勢いは変わらなかった。
「なんでそんなに強いの!」
あっという間に負けた女が嘆くと、
「昔、勝利の女神とキッキルーをしてね」
などとわけのわからないことを口走り、また賽をふりはじめた。
たった二杯のアンコールビールですでに、二十名以上の女が敗れている。負けた女たちのなかには、その神がかり的な強さに飽きはじめ、カウンターにもどってしまう者も少なからず出はじめていた。いつの間にか、キャメラもそのひとりに入っている。
そしてもう10分経った頃、気がつけば博士のまわりから女は去り、エマしか残っていなかった。ゲームで1勝もできないのでは、チップにも飲み物にもありつけない。女たちの心情もエマにはよく理解できた。
「お、君もやるかい? アイリンだっけ」
「エマよ」
「それは失礼。クメール語は日本人には発音が難しくてね」
後にこの晩の積極性をふりかえると、エマは自分自身でも不思議であった。
「見ていたからだいたいの流れはわかるけれど、ルールを教えてもらえるかしら?」
「ほう、初めてなのかい?」
「ええ」
「見ての通り、ふたつのサイコロを転がして1から9までの数字をランダムに消してゆく運だめしのゲームでね。各々のサイコロが出た目、あアダムは合計の数を消すことができ、最後の数を消した者が勝ちなわけさ」
「えっと、例イブ、
⚂ ⚃
の目がでた場合、消せる数字は3と4、そして合計の7ってことかしら」
「そういうこと。エマは賢い子だね。いずれの数字もすでに消えていたのなら、サイコロをふるターンが相手に移るだけだよ。簡単だろう」
こう言うと博士がエマにサイコロを渡してきた。
よく考えたら、サイコロを持つのは生まれて初めてのことであった。
ナガホテルのカジノでは、今宵もこのちいさな立方体が振られ、法外な額の金が動いているに違いない。先月はひと晩で40万ドルも大勝ちした中国人の女がいて、カジノ側のキャッシュが足りなくなったという噂話をエマはうつつとなく思い返していた。
エマの生涯初めての目は、
⚀ ⚀
であった。エマは1を消すと、サイコロを博士に渡した。
博士は「初めてがゾロ目か」と微笑しながら、アンコールビールをひと口飲んだ。
「ゾロ目って?」
「ああ、同じ数の目がでることをゾロ目って言うんだよ」
と言いつつふった博士の目もまた、
⚀ ⚀
であった。エマが2を消した博士をにらみつけ、
「わざと?」
と訊ねると、博士は、
「たまたまをわざとにするのが趣味でね」
と答えた。
「厭な人」
「そうかい」
「そうよ、だってこんなにも運がよいんですもの」
「でも、運と才能は反比例するからね。それだけ私には才がないということなのかもしれないよ」
「反比例?」
「そう。私の経験上、才能に恵まれている者は等しく運が悪い」
「そういうものかしら」
「だから才がなければないほど他力で生きられる。で、賭けるのかい?」
博士がアンコールビールを指さして言った。
エマが敗れたら、ビールをおごれということなのだろう。
「いいわよ。もし私が勝ったら?」
「そんなことはまずないとおもうけれど、エマは何が欲しいんだい?」
「やってみなくてはわからないでしょう。私はハサミかな」
「ハサミ?」
「うん。将来の夢なの、美容院をひらくことが」
と言って、エマは2回目の賽を投じた。
サイコロには若干、博士の手のぬくもりが残っている。
⚂ ⚀
エマが3を消したあと、
「おっ、モイ・ピー・バイだね」
と博士が下手くそなクメール語で、数をかぞえた。
「で、賭けるの?」
「初めてのジャックポットでハサミを賭ける女か」
「クレイジーかしら」
「いや、おもしろいよ」
サイコロのぶつかる音がジャックポットの木枠のなかでした。
⚁ ⚁
博士は再びゾロ目をだし、4を消す。噂通り、ゾロ目でできるだけ消す気らしい。余裕の現れなのか、それともそのようにしなければならない小細工を仕込んでいるのか、エマにはわからなかった。
「ねえ、プノンペンには何のお仕事で来ているの?」
バアで働くようになってから、相手のことが気になるというのは初めてであった。
「仕事というよりは、旅かな。まあ、職業はと聞かれれば、茶人になるか」
「茶人?」
「そう。抹茶を点てて、人に美味しく喫んでもらうのが仕事だ」
「ふうん。それはお金になるの」
「さあ。考えたことないな。今日はロマンチックキスデーなんだろう。野暮な質問はなしだ。私が勝ったら、今宵はキスもつけ加えるというのがいいな」
「ロマンチックキスデーは私のただの創作。正しくはビキニデーだから、あなたが勝ったら、ビキニをはいていいわよ」
「あれ嘘だったの? それはやられたね」
博士の驚きぶりに、エマはおもわず吹き出した。
「しかも私がビキニをはくのかね?」
「私はビキニをはかないわ。だって泳げないんだもの。一回だけホテルヒマワリのプールに行ったことがあるけれど、プールサイドにつかまって一往復しただけ」
キャメラが日本人と付きあっているとき、一度だけ一緒にプールに連れていってもらった。日本にいる嫁と子どもを整理し、プノンペンに来た初老の男で、いつもハンカチを二枚持ち、一枚はバンダナのようにおでこに巻き、もう一枚は常に右手でおでこの汗をふいていた。数年こちらに住んでいるというのに、クメール語はもちろんのこと、英語もからきしだったので、妹がどうやって男とコミュニケーションをとっているのが謎であったものの、キャメラは無邪気にその日本人のことを「チンちゃん、チンちゃん」と慕っていた。男が何度も「シンちゃんだよ」と教えても、最後まで妹の発音は直らなかった。
そんな妹も再来月にはスウェーデンに嫁に行く。プノンペンに遊びに来ていたスウェーデン人の富豪と偶然出会い、互いに恋に落ち、そのまま結婚するという文字通りのシンデレラストーリーを歩んでいた。
エマがキャメラのことを考えていると、博士はおもむろにサイコロを渡してきた。
人生にそう転機というものはないであろう。
賭けにでるとしたら、今宵だ。
「ねえ、やっぱり私、ハサミだけじゃイヤよ」
エマがこう言うと、博士は嬉しそうにこちらに目をやった。控えめな目であった。
「レートをあげるのかい」
エマは博士の目を見すえて、ひとつうなずいた。
「それは結構」
「そう。もしあなたが勝ったなら、キスしてあげる」
「で、僕が負けたら?」
「私はこんな店を辞めて、自分の店をひらきたいの」
「他の店をひらくというのなら、僕はやらない。この店に失礼だ」
「バアなんかじゃないわ。さっきも言ったけど、私は小さな美容院をひらきたいだけよ」
「ほう」
博士が急にするどい視線を向けてきたので、エマは思わず目をそらした。色々な目を持つ男なのねと思った。
「で、ジャックポット続けるの?」
サイコロは博士が出した二のゾロ目のまま、こちらの様子を窺っているようであった。
「まず、今宵はロマンチックキスデーではなかったのだから、君のキスはいらない」
「失礼しちゃうわね」
エマは苦笑した。
「次に万が一もし僕が敗れたら、その美容院とやらを出してやってもよい」
「本当ですか!」
店の外の音が増した。
おそらく雨嵐になっている。
今宵の客は博士ひとりになる可能性が高かった。
カウンターの女連中は、すでにだらけきった格好で他愛もない話に花を咲かせている。
「ああ、本当だとも。君が勝った場合は来月からエマは美容院のオーナーということになるね」
「で、私が負けた場合は?」
「10万ドルの借金を背負ってもらう」
「無理、そんな途方もない額」
「今すぐには回収しようとは思っていない。もしそうなったら、今宵から私の秘書でもやって返してもらおうか」
「でも、10万ドルなんて……」
「悪い話ではないと思うがね。君が一生ここで働いていたって、いつまでも店は持てない。それだけでも今宵に賭けてみる価値はある。加えて、勝とうが負けようがいずれにしても、君はここから出られるわけだ」
このジャックポットが終わったら、いずれにしろここから羽ばたかなければならないのか。今になって鼓動が早まってきた。
サイコロを勢いよくつかみ、
「約束よ」
と言って博士をにらんだ。
「誓うよ。人生を賭けるジャックポットは嫌いじゃない」
と博士が静かに返答した。
この晩はエマも神がかっていた。
無論、博士のサイコロも最短距離の目を出していく。
⚃ ⚃
互いにゆずらぬまま、4巡目、博士の賽が4のゾロ目をだす。
あっという間に人生がかかったゲームは終盤戦に入った。
「残りは9だけだね。君が出せればプノンペンのシンデレラになれる」
博士は8の数を消しながら、こう言った。
エマは左手でサイコロを握りながら、頭を右に傾げて、左側頭部を幾度か叩いた。
「なんだ、それは?」
「耳のなかに入った水がとれないだけ」
「可笑しな奴だな。トンレサップ川あたりで泳いだのか」
「ノー。そんなことするわけがないでしょう。水が怖いんだから」
「じゃあ、なんで耳に水が入るんだい」
そんな理由は、エマが一番知りたかった。
ストレスなのか、夫が逮捕されてから、ずっとこの有り様である。
でも、ここで9をだせれば、この訳のわからない体調もよくなるに違いない。エマの気持ちをよそに、
「そういいブ今、彼氏は?」
と博士が訊ねてきたので、
「先週、離婚したばかりだから、ノーマニー&ノーハニー」
とエマは不愛想に答えた。
「人生を賭ける晩には、もってこいというわけだ」
と博士は微笑し、アンコールビールを飲み干した。
結局、そのひと晩でエマは博士の秘書をする羽目になった。
想い返せば、エマが勝てるチャンスは、先ほどの一度限切りであった。エマが6のゾロ目をだしたあとに、博士はあっさりと5と4の目を出し、「ジャックポット」とつぶやきながら、9を消した。
「君のボスはどこだ? 君をヘッドハンティングすることを伝えなければ」
博士が席をたったあと、エマはたまたま席に残っていたコーラをうつつとなく眺めていた。酒が弱い自分がすこし接客に入らなければならないときなどは、自分はこのコーラで誤魔化してきた。本当にこんな人生から抜けだせるのであろうか。離婚から10日足らずのこの急展開がエマはただただ怖かった。
店の中央で天井から垂直に立っているポールが妙に他人行儀に映った。
キャメラとも離ればなれになってしまうのだろうか。
いや、もう2ヶ月もすれば、キャメラはスウェーデンに行ってしまうから、別れる時期が早まっただけなのだけれども。
「エマ」
「はい」
すぐ背後から声がし、咄嗟に返事をした。
「お、いい返事だ。今すぐ出るぞ」
「えっ、今?」
「今度はすぐに返事しないんだな。ママと話してきて、君は今晩から私の秘書だ」
きょとんとしているエマに構わず、博士は続けた。
「ぼーっとしている暇はない。さっさとこの店を出よう」
ふりかえると、皆がエマを眺めていた。
当然、事態が飲み込めていない様子だ。
バアにくる客のほとんどが出張でくる外国人たちである。
たとえその客のひとりにたまたま気にいられたとしても、本気で想ってくれる男なんているわけがなかった。しかも、そんな客のとりあいでの、女同士の喧嘩も珍しくない。10日足らず働いただけでこんなくだらない世界から救ってくれる人と出逢えたのかとおもうと、逆にそんな幸運が怪しかった。
キャメラが駆け寄ってきて、エマの手を握って言った。
「ねえ、博士にジャックポットで勝ったの?」
「いや、負けちゃったけど……」
「そうだよね。じゃあ、なぜ博士はお姉ちゃんを連れて帰ろうとするのかしら」
「よくわからないけれど、秘書になれって」
「秘書?」
「うん。それよりもママは?」
「大金を握って、お姉ちゃんを見ているわよ」
ママの方に目をやると、たしかに手には100ドル札の札束があった。
「キャメラ、日本人って優しいんだよね?」
こう訊ねると、怖がりの自分の背中を押してくれるかのように、キャメラはギュッと抱きしめてくれた。エマは涙ぐみながら、力強くうなずき、裏の部屋に着替えにいった。
二、@LE MOON 7/6 21:00
店を辞しても、外は未だに豪雨であった。
しかしエマの目には見慣れた夜景がまったく違って映った。ついこの間まで、夫とすれ違い、ずっとこのような不幸な生活をしていくのだと己の人生を嘆いていた自分が嘘のようである。
エマは雨のなか、道むこうに停車しているトゥクトゥクに向かおうとしたが、博士がそれを制し、傘をエマの上にかかげた。
「どうせ濡れちゃうのに、なんで」
と訊ねると、博士が、
「濡れたとしても、今の身体を気遣ってやることは大事だよ」
と答えてくれた。
相合傘が意味をなさない大雨であったけれども、エマはふたりでびしょ濡れになっていくこの時間が嬉しかった。
たしかに濡れても、ふたりで傘はさしてゆかなくては。
トゥクトゥクにエマが乗りこもうとしたとき、博士専属のドライバーなのだろうか、不安なエマを察して「この人はたしかな人だから、心配することない」とクメール語でそっと耳打ちをしてくれた。顔に火傷のあとが大きくあるが、優しい目をしたクメール人であった。
ドライバーの名はパンといった。若い頃、日本語学校の壁に寄りかかって、教室から漏れてくる授業の声で、ある程度、日本語が話せるようになったという。
「ここら辺にスカイバアはあるかね?」
「ある!」
とパンはぶっきらぼうな日本語で博士に返事をしていた。
座席の足元には、縦長の木箱が置いてあった。
「これは何ですか」
エマがこう訊ねると、博士は微笑しながら箱をとり、前面の木をとり外した。中には棚があり、そこには茶道具が綺麗に収められている。
「店に行く前に、クメールタイムズのギリシア人記者に茶を点てていてね。茶道具を置いてくる暇がなかったんだよ」
「嘘。ずっとジャックポットしていたじゃないですか」
エマは思わず笑ってしまった。
「たしかに」
博士もつられて笑っている。
「さすがに茶碗はわかるか。これは何かわかるかい」
博士は茶碗の中から、小さな箒のようなものを取り出すと、エマに訊ねた。
「わかりません」
「茶筅といって、茶を点てる道具だ。こちらは柄杓で、北斗七星みたいでしょう。水や湯を汲む。あとは茶杓も見ておきなさい」
エマは次々と茶道具を見せてもらった。
どれも古いもののようであったものの、大切に扱われてきたのがわかる。
自分もこの茶道具のように、大切に扱われていくのだろうか。もしそんな未来であったなら、どんなに幸せだろうとエマは思った。
数分ロイヤルパレス方向にトゥクトゥクを走らせると、ラ・ムーンというスカイバアがあった。一階がホテルのフロントになっており、三階まではエレベーターで上れた。エレベーターを降りて左に折れると、途中に巨大な鏡があり、そこにエマと博士の姿が映った。
凸凹の身長差が恥ずかしかった。
博士と会うときには毎回ハイヒールを履こう。
エマはそのようなことをうつつとなく考えていた。
屋上のバアは屋根もしっかりしており、スコール越しにトンレサップ川を眺められた。雨のせいであろう。こちらも客が少なかった。バアの壁には印をくんだような巨大な手が、橙色を背景に緑色で描かれてあった。
たしかな幸せの予感はあるものの、実感が追いついてこない。
しかし、それも徐々に噛みしめていけるように思えた。
「あの、なんで私だったのですか」
「なんでって?」
「いや、他にも綺麗な女の子はいたし」
こうエマが訊ねると、
「お酒は飲むのかい?」
と答えをはぐらかされた。
「私は赤ワイン」
「赤ワイン?」
「いつか飲んでみたかったの。こういう場所で」
「初めてか、それはいい。私はヤマザキのシングルオンザロックをいただこうか」
リバーサイドには、様々な国旗が立てられてあった。
夜の雨風のためか、今は旗が外され、無数のポールしか立っていなかったが、これから博士と諸外国に仕事へ向かうこともあるのかもしれないと妄想した。キャメラにもスウェーデンで会うのかしら。一緒にいて恥ずかしくないように、スーツも妹たちから地味なやつを借りなくては。
無数に並ぶポールを手前から目で追うと、すこし向こうにロイヤルパレス宮殿のまえで光り輝くタワーが視えた。あのタワーの下には、どんなに辛い日でも祈りを奉げつづけてきたパゴダがある。暗澹たる気持ちで歩いていた先週でさえ、祈りを欠かさなかった小さなパゴダだ。
ひょっとしたら仏様が自分を救ってくださったのかもしれない。
今度は博士もつれて、また祈りを奉げにいこう。
そう思った矢先、博士に耳をつままれた。
「ラビットイヤー。なかなか君を発見できる男はいないとおもうが、強いてわかりやすく言うならば、これだな」
と言って博士は微笑している。
「ラビットイヤー?」
エマが訊きかえすと、
「そう、エマの耳は兎みたいに上に伸びているだろう。そういう耳の女性は賢く、強運なんだ。もっとも神門をつまんで、もう少し上に引っぱるクセはつけたほうがよいがね」
こう博士は答え、耳のツボのひとつをつまんで、さらに上に引っぱった。
「痛い」
しかし厭な痛みではなかった。兎耳だから自分を選んだというのだろうか。
見上げると、離陸直後の飛行機が雨の夜空を点滅させながら、横切っていアダムずれあれに乗らなければならないとおもうとゾッとする。鳥が飛べる理由はまだわかる。でも、鉄の塊が飛ぶ理屈はエマにはまったくわからなかった。
「実は私、飛行機も怖いの」
「君は水が怖い、飛行機が怖いと、怖いものだらけだね」
「あと幽霊も怖いかな」
「本当に怖いものだらけだな」
博士は爆笑した。
「クメール人だったら、皆そうよ。お化けが怖いから、ひとり暮らししないの」
「すごいな」
「でも、博士のことはなぜか怖くない」
「それはありがとう。しかし、ありとあらゆるものが怖いなんて、赤ん坊みたいだ」
「博士のクメール語の発音の方が、よっぽど赤ん坊っぽいわ」
「え、そうなのかい」
簡単なクメール語をいくつか必死に発音してみせる博士の真面目さが可笑しかった。日本人は耳が悪いのだろうか。読み書きをさせると素晴らしいが、話すと大概、音を外す。しかしその分、中国人やベトナム人と違ってうるさくなかった。
「ねえ、秘書の仕事って、具体的に何をすればよいのかしら。私、今、自分の身に起こっていることがあまりに幸せ過ぎて、よくわからない」
胸を高鳴らせてエマが訊ねると、博士が微笑しながら答えてくれた。
「超絶だね」
「ちょうぜつ?」
「他の人が一生かかってやることを、一夜でやるということさ」
「おお。たしかに今、超絶なのかも」
飛行機の光が、バースデーケーキの蝋燭のようにフッと消えた。
「もし君の耳がラビットイヤーでなかったなら、エマがこうして僕の傍らにいることはなかったよ。耳輪といって耳の上部が綺麗に発達している人は、統計学的にも強運だからね。あとは、ジャックポットをしているときの所作もよかった」
「そうなんですか」
「ああ。途中から私の真似をしていただろう?」
「はい。だって、博士はジャックポットで無敗なのでしょう」
「いや、誰にだって負けたことはあるさ。その話は尾びれが付き過ぎているな。でも、近いうちに茶の点前を見せる機会もあるだろうから、そのときは私の影法師をよく見ておいて欲しい」
「博士の影を見るのですか」
「そうだよ。先ほどのジャックポットも、私の影を真似していたならば、君は勝てたかもしれないね」
ジャックポットで負けた自分がなぜ選ばれたのか。
その理由の欠片が少しわかっただけでも、ホッとするところがあったが、あとには引き返せない借金をひと晩で背負ってしまった気がする。
「あの、先ほどの借金のことですが」
「お金は心配することはない。私の茶会を手伝ってくれれば、それこそひと晩で返せる額だよ」
と博士が続けてくれた。
気休めなのだろうか。
伝統藝術の業界はまったくわからないけれども、たった1回の茶会にそれだけのお金が動くなんて、エマにはとても信じられなかった。
激しいスコール越しにも、トンレサップ川の中洲にあるソカホテルには、相も変わらず客がいないのがわかる。ただ最上階のダンシングフロアだけ、妙に何色ものライトが回転しており、綺麗ににじんでいた。
博士が注文していたヤマザキが運ばれてきたが、エマはそれを横どりし、味見をした。@オフィスで最初にウイスキーを飲まされた苦い思い出がよみがえった。
やはり苦手な味であった。
これのどこが美味しいのだろうか。
しかしその@オフィスに明日から行かなくてよいのだとおもうと、さすがに心が踊る。
「赤ワインがきたら、乾杯だな」
「はい」
「あと仕事の話だったね」
「はい」
「よい返事だ。まず私は来月で五十一歳になる」
「えっ、五十一歳?!」
エマはおもわず立ちあがった。
「そこは『はい』と返事してくれないのか。二十くらい若く見られることが多いからね」
博士は苦笑しながら、話を続けた。
「最初に言っておくが、他の日本人連中がやっているような国際結婚はしてやれない」
結婚という言葉に、耳のなかの水が反応した。
なぜそのようなことを最初に博士は言うのだろうか。
カンボジア人が日本国籍を取得するのは一筋縄ではいかないけれども、日本人が日本国籍を棄てずにカンボジア国籍も取得するという、いわゆる二重国籍モデルは可能であった。そのスキームを使って、多くの日本人がこちらに土着してきたのも事実である。
「次に勤務時間だが、こちらはなるようになるだろう」
「はあ」
「横着が私の経営方針でね。まあ、話がわからなくても『はい』と返事をすることだ」
「はい」
エマが姿勢を正して返事をすると、博士は左腕をおもむろにとってきた。
「あと横着でありながらも、時間は厳守だ」
博士がこう言い終えると、いつの間にかエマの左手首には紅い腕時計がついていた。秒針が鮮やかな色で時を刻んでいるデジタル時計である。
何もかもが魔法のようであった。
「なんで時計が用意されているの」
「いつ人生の秒針が進むかわからないから、常に予備のひとつは持っておかないとね。ついでにこのサイコロも御守り代わりに持っておきなさい」
と言って、博士は懐から白い長方形の紙束を出すと、その上にサイコロをふたつ置いた。
たしかにジャックポットのサイコロだ。いつの間に、盗ってきたのだろうか。
「悪い人ね」
と苦笑して、エマはサイコロだけを鞄のなかに入れた。
すると博士は、「こちらも持っておきなさい」と言って、紙の束も渡してくれた。
「懐紙といって、何かと重宝するよ。男性用だから、本当はエマには少し大きいのだけれど、まあ、最初はよいでしょう」
懐紙もしまうとすぐに、赤ワインがやってきて、ヤマザキと乾杯した。エマが飲む姿を見て、博士が「君と一緒で若いワインだね」とつぶやいた。赤ワインがグラスを流れる様を見るだけで、どうしてその若さがわかるのだろう。
「お給料は最初800ドルでどうだい?」
ウイスキーをもうひと口なめた博士が言った。
今の給料の約5倍である。駄目な理由なんてなかった。
「まずは英語だけでなく、日本語も憶えてもらわなくてはいけないね」
「はい」
「あとは茶も」
「茶ですか」
エマが理解に苦しんでいると、
「そこも間髪いれないで、『はい』と云えるようになるとよいね。茶道は立派な日本の古典芸能だよ。もっともペットボトルばかりの世の中になってしまったから、実に古くさい仕事になってしまったけれどね。こちらも手伝ってもらう予定だ」
と博士が説明を添えてくれた。
「はい、何でもします」
本心だった。
この人のためなら、何だってしよう。
「そもそも茶道は悟るための方法でね」
「悟る?」
「そう、この夢の世界から目覚めることさ」
「この世は夢なのですか」
「そうだよ。一期は夢さ」
「はい」
訳も分からず、ただ日本語で返事した。
「しかし、君みたいな女は日本に減ってしまったな」
博士が小ぶりになった夜空を眺めながら言った。
「えっ、どういうことですか」
「明治あたりから日本という国は毀れていたのだろうけど、女がまだよかった。ところが今はその女が減ってしまったから、もう国はもたないだろうということだ」
「私にはよくわかりません。でも、何でもすると言ったのは本当です」
本心であった。あの日本がもたないというのは想像もつかないが、エマの覚悟を伝えると、博士はこう答えた。
「では、まずは島が欲しいな。綺麗な月が見える島を丸々もとめたい」
最初はワインで自分が酔っぱらってしまって、また聞き間違ええたのかしらと思った。しかし、そのあとの博士はたしかにこうもつけ加えたのである。
「明晩までだ」
エマの耳の奥に潜む水がまた激しく揺らいだ。
たしかに博士は経済的余裕を感じさせる雰囲気を纏っている。給与の話も本当であろう。しかし、島を明晩までに買おうとするのは冗談にしか聞こえなかった。今宵のジャックポットの目は、果たして本当に幸運の訪れなのか。エマは一抹の不安を抱き、赤ワインを一気に飲み干した。
なんて不味い酒なのだろう。古い血の味がする。
「おいおい、ワインはビールのように飲むものではないよ」
博士は苦笑し、
「もっと夜景を愛でられる席に移動しようか」
と続けた。
気がつけば、先ほどまでの驟雨が嘘のようにやんでいた。
店のスタッフが濡れた椅子とテーブルをふいている。
その先には宝石箱のような夜景があった。
「はい!」
エマは勢いよく日本語で返事をすると、高い椅子から飛びおりた。
もう自分の人生に思考を挟むのをやめよう。だって、つい十日まえまで夫のことでくよくよしていたのだから。今晩はきっと「ジャックポット!」と夜空に叫んでよい日なのだ。
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