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段差の多い雑貨店 #創作大賞2024

「君はFUKUOKAを知っているか?」

 ひと昔前、日本人が西欧に旅をすると、よくこのように尋ねられたという。FUKUOKAは都市名ではなく、福岡正信という世界的に有名であった農家の苗字になる。もし「知らない」と答えれば、

「日本人のくせに、FUKUOKAを知らないのか」

 とお叱りを受けた。それもそのはずで、福岡がギリシャで講義をした際は、世界中のひとびとが続々と集まったほどであった。

 その福岡が提唱したのが、自然農法になる。

 文字通り、すべてを自然に委ねた農業になるが、ここで言う「自然」とは、無農薬・無肥料・不耕起・無除草と無や不の四拍子が揃った方法を指す。農業というよりは、むしろ哲学に近い。

 肥料をあげないのは意外に思われるかもしれない。しかし、不自然に肥料をあげ過ぎてしまうと、かえって虫がわき、何より野菜が水太りしやすい。これだと、たとえ大きな野菜でも、その味は水で薄まってしまう。

家内がバルコニーで育てたニンニク

 ところで、自然農法は団地のバルコニーでもできる。

 そんなものは自然ではないとまたお叱りを受けてしまうかもしれないが、上で書いたように、農薬をまかず、耕すこともせず、肥料もあげずに、草も抜かなかったならば、これはやはりささやかな自然農法なのだと少し見栄をはりたい。

 我が家でもちいさな自然農法を始めたいという方は、固定種がオススメである。固定種というのは、簡単に言ってしまえば、ひとが操作を加えていない自然の種ということをいう。

 さて、バルコニーのなかのちいさな自然で育った野菜が収穫できそうであったなら、それを盛るひと皿をもとめて、でかけてみたくなってくる。

 このようなとき、我が家の場合は大概、北鎌倉に足を運ぶ。玄関まであがるのがひと苦労だが、その頂に段差の多い雑貨店がぽつんとあるからだ。隠れた名店である。

野菜を盛るためのひと皿をもとめて

 昭和の玄関をおもわせるドアをあけると、夏場は左手にアイスクリームボックスがある。入店と見せかけて、アイスをとり、そのまま店の裏手にまわってひと息つくのもありであろう。

 過日は、茨城県笠間市で作陶されている小林東洋の器が入ったというので、それを目当てに足を運んだ。家内が東洋皿に惚れこんでいるためだ。羊窯から生み出される器の数々は、たしかに暮らしに豊かさを与えてくださるものばかりである。

 店は大きく手前と奥のふた部屋に分かれている。

 なんともなしに手前の部屋が奥様の縄張りで、奥の部屋が御主人の縄張りに感じる。東洋の作品は手前に並べられていることが多く、奥には季節によって移ろうが、御主人がタイの山岳民族から仕入れてきた小物が置かれていることもある。

 私はこの意味不明な小物を眺めている時間が厭ではない。

 近代になって、物から生命が失われたのは、何事にも意味を持たせ過ぎたからではないだろうか。大概、人生の意味を考えてしまうのも、私の場合は弱っているときで、一期に大層な意味を持たせれば持たせるほど、ひとはますます生命から遠ざかっていく。

 このようなわけで、私は御主人が海外から集めてきたニッチな小物や、もはや感性だけで仕上げられたであろう藝術作品が好きである。足を運ぶ度、書斎に飾る作品をひとつもとめようとはおものうだが、今のところ、逆に意味不明過ぎて、手がすくむ。

御主人がよくいらっしゃる奥の部屋を、裏庭から撮った一葉

 あまりお店の場所は明かしたくないけれども、北鎌倉の際にあるとだけ言っておこう。駅からは歩いて行けるから、地理的に不便というわけではないものの、妙に「際」を感じさせてくれる立地なのだ。

 新しいものは、等しく際からやってくる。

 だから、激動の時代は際に身を浸しておいた方がよい。
 そんなわけで、普段は私もよく窓際にいる。もちろんこの随筆も窓際に座って、草している。あまりに窓際に居すぎてしまって、もはや私が窓そのものになっている気がしないでもない。

 白川静によれば、「際」という漢字は神と人が出会う場所を表したものになる。気まぐれに天から梯子で降りてくる神と出会うのが際なのだ。時折、窓際にも神が音連れる所以である。

 このセレクトショップに際を感じるのは、おそらく段差があるからであろう。
 
 前述した通り、店の玄関までは階段が多く、グーグルマップ的にはもう着いたはずなのに、実際はなかなか着かない。おそらくこの焦らしが、店を際立たせているのではないか。

 兎にも角にも、入店という一手ですむ平凡なものに、手間がかかる店が好きだ。その手と手のあいだに、ちいさな偶然が生まれることも少なくない。

自然農法でできた野菜たちを東洋皿にのせて

 家にもどると、早速、店で求めてきた東洋皿に野菜が盛られてでてきた。野菜は家のバルコニーでとれたものもあれば、八百屋からとりよせたものもある。

 野菜がたしかな場合は、素材を活かした料理がやはりよい。油をさっとかけただけで、美味しいサラダができるし、アスパラガスなどを塩胡椒で軽く焼けば、肉のステーキにも負けぬ満足感が得られる。

 概して、今の野菜は不自然に大きく、不自然に甘い。現代人は、人為的に操作された味にあまりに慣れてしまっているから、野菜や果物によっては、自然の味に美味しさを感じず、自然農法家も販路に苦戦される傾向にある。

 すでに私もだいぶ舌が壊れていよう。

 しかし、できる限り自然のものをしばらく口に運ぶようにしていると、或る日を境に、いわゆる添加物の味がわかるようになってくる。舌が繊細になるのであろうか。味のなかの自然なものとを不自然なものを、分けられるようになるのだ。

陰陽調和がなされた味噌汁

 味噌汁に野菜を入れるならば、陰陽を調和させた状態で調理をされるとよい。

 陰陽とは易学からきたもので、簡単に言えば、陽がお日様の仲間、陰がお月様の仲間になる。野菜ならば、ダイコンやゴボウ、ネギなど、地中へと伸びていくものが陰。キノコやトマト、ハクサイなど天へと伸びていくものが陽である。そして、陰の野菜は鍋の底に置き、陽の野菜は鍋の上に持ってきて調理するのが、陰陽調和料理である。

 陰陽が調和された味噌汁は、ひと口いただくと、美味しいというよりも、ホッとする気持ちがまず湧いてくる。田舎のおばあちゃんの味噌汁といったところだろうか。

 私が体調を崩すときは、概して陰陽調和味噌汁からやや離れたときである。

 では、陰陽が調和するとどうなるか。意外に思われるかもしれないけれども、易学では陰陽調和後、すべてのものは消えてなくなる。

 おそらくこの世を受けるというのは、陰と陽のあいだに段差がないと起こり得ない。だから、仏教では中庸が説かれ、その方法は陰陽を調和させることと酷似しているが、完全に中庸に身を置いてしまうと、現世には居れないのであろう。

 たとえ調和から外れても、その微かな段差が美しいと感じる境地がある。

 兎にも角にも、根菜は上に、葉物は下にするのが、料理における自然なのだ。まずは口にするものの陰陽を調和させると、日々の暮らしにホッとする時間が増えるかもしれない。

小ネギと柚子胡椒が入った家内の卵焼き

 また、物事を美しいところに置こうとする気持ちも大切にしたい。
 東洋皿に卵焼きや野菜をきれいに盛るのはもちろん、その皿もまたテーブルのなかの美しく感じるところに置きたい。これも陰陽を調和させる先人の知恵だ。

 実は、日本の美はすべて法隆寺からはじまっている。

 聖徳太子が建てたことになっているが、実際に建てたのは、無論、当時の無名の大工たちで、彼らの類稀な美の感覚が共鳴し合って、一座建立の美が即興で生まれたわけである。

 このような日本古来の美をカネワリという。

 カネワリは茶道においても書道においても秘伝であるから、あまりお伝えできないけれども、西欧のいわゆる1:1.618の黄金比と結果的にはかなり似た点を絶対美と見る。要は、美しいと感じる点に東西はないということだ。

 ところが、日本の美意識はここにひとつ段差を加えた。

 「三分がかり」といって、あえて九mmほど絶対美からズラすのである。これが利休の秘伝であった。つまり、絶対美を知りながら、そこからあえて微かに外すというのが、日本のはじまりになる。

 カネワリには、三ツカネ・五ツカネ・七ツカネとある。
 ご存じ、七五三はここから生まれたものだ。

非公開を背負い、閉じる

 秘すれば花が通じなくなって久しいけれども、もし段差の多い雑貨店を見つけたならば、ちょっと非公開を背負って欲しい。

 秘するべき花は、このひとは、と感じる方のみに一輪贈るとよい。今世で出会えなかったら、その花はどなたにも見せず、そっと天の玄関にでも活けておいてはいかがであろうか。おっと、そこにはもちろん段差があるから、転ばぬように注意していただきたい。

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KODO
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