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写真の神様はいつもそこに

先月から、オンラインでの写真講座とインタビュー講座を始めた。
対象は小中学生。月2回の講座の様子は下記にまとめている。

https://www.kodomotime.com/blog


写真講座をする中で感じたこと、気付いたことを今日は書きたい。


誰もが生まれながらに持つ、創造的センス

感染症の影響により、対面での授業を延期し、ひとまずオンラインでの写真講座を開催することにした。毎回課題があり、その事前課題に基づき子どもたちは写真を各々撮影し、コドモタイムに提出する。
それを講師である写真家に講座の中で講評してもらう、という流れで講座をしている。

6月に行った講座の課題は「君の好きなもの、嫌いなもの」。
この課題で小学生3人(小学2年生〜4年生)が身近な場所で思い思いに写真を撮って、提出してくれた。

好きなものとして、ダンゴムシ、飛び出す絵本、マイケルジャクソン、自分で作った人形ハムスターの家、飼っているウサギと文鳥、お気に入りの服、一輪車、育てている大根

嫌いなものとして、バター、杏仁豆腐、マンゴープリン、アスファルトにある枯れた花・落ち葉、せっかく片付けたのに弟が散らかした部屋

みんな、素直に純粋な視点でシャッターをきり、撮影していた。

たまたまかも知れない、意識して撮っていないかもしれないけれど、
光の当たり方が素晴らしかったり、視点が面白かったり、ブレや曲がりが逆にプロっぽかったり。写真の基本を知らずに撮っていてもプロが見ても、おおっと思わずうなる写真もあったし、少しの工夫で雑誌に掲載されている写真と遜色ない写真もあった。

これって無知の知なのかもなと感じた。
子どもは生まれながらにみんなクリエイティブ。
それぞれがもつセンスを、周りの大人がどう受容し可能性を手渡していくか。


コドモタイムの講座では、子どもたちそれぞれの撮影のストーリーを丁寧に聞いている。業界でも第一線で活躍している写真家に自分の作品についてコメントをもらえる、そこにコドモタイムの講座の価値があるが、それだけではなく、どうしてそれを撮ったのか、被写体に対する思いや、写真から見える子どもたちの生活や動き、思いを細やかにくみ取り、対話していく。そうすると、子どもたちの写真作品のストーリーがより明確になり、撮影にあたっての思い、迷い、混乱など感情がより見えてくる。そうしたストーリーを聞くと、子ども自身の目線や世界が見えてきて、とても愛おしく興味深い。

大人が何も言わずとも、シチュエーションを考えて撮影する子(写真はフィクションとノンフィクションをうまく使い分けることが大切)。
道を歩き回ってたくさん撮る子(写真は数枚で諦めず、何枚も撮ることがいい作品を生み出すコツ)。
無意識に光を操り、適切な露出・感光で撮影している子(写真はつまるところ、光を撮っているもの)。
動き回っている人を撮るのは難しいけど、目にしっかりピントを当てて撮影している子(人物撮影は目に一番目がいく)。


子どもの視点や目線を丁寧にひもといき、そこに、子どもたちの写真作品を照らし合わせていくと、その子なりの創造的センスが見えてくる。
写真の講評は、写真の上手い下手ではなく、そうしたことを伝えるための時間なんだと考えている。


素朴な子どもの質問が核心をつく瞬間

ある女の子は、オンライン講座の受講中寝そべったり、お菓子を食べたり、家の猫の絵を書いたり、結構自由にしながら参加していた。対面だと「ちゃんと聞いてね」と言ってしまいそうだけど、リラックスしながら普段の自分を残しつつ参加出来るのもオンライン授業のいいところなのかなと思っている(学校や塾では注意されるかもしれないけど)。

講師の先生がお手本で持ってきた「好きなもの」の写真。
黒い背景に上にベリーがのった白いクリームのケーキが映っている写真を説明しているとき、その女の子がふと、

「好きな写真なら明るい背景で撮ればいいじゃない。どうして?」

と質問してきた。

先生いわく、

「そういう考え方もあるんだけど、明るくしちゃうとこの場合はケーキが目立たなくなると思ったので、適材適所、その時による。基本的には好きなものだから明るく撮った方がいい。白・赤を目立たせるには黒を使った。」
「普通考えると黒って暗いと思うけど、黒と暗いは違う。黒も色の1つ。」
「クリームの質感やおいしそうな感じを出したかったから。背景を明るくすると目立たなくなる。赤のイチゴを目立たせるなら明るい背景っていうのもありだと思う。」

「料理写真であまり黒って使ってはいけないんだけど、使い方によっては料理を引き立てる。」

えーーー!
知らなかったよ、暗いと黒いが違うっていう概念。そんなの37年生きてきて意識したこともなかった。

よく気付いたなと感心しつつ、素朴な質問から表現の核心に迫ったことにびっくりした。
素直に質問したりコメントしてくれる姿勢もとっても嬉しかった。

子どもがもつ本質をとらえる力。
すごいなと思った瞬間だった。


オワコンのカメラ・写真業界

大手のカメラメーカーは、もうカメラや写真の裾野を広げることを諦めている。
それはどうしてか。スマホがカメラに取って代わっているから。

スマホのカメラ機能で十分足りる。デジカメはもう売れない時代。
一眼レフならなおさら。

カメラメーカーのターゲットは、あくまでコアな趣味層。
カメラの機能に付加価値をつけ、高価格帯モデルに注力している。

カメラ市場はどんどん縮小しているわけだから、当然子どもの写真教育なんてやっている余裕はない。よっぽど、レッドオーシャン的な未開拓市場が見つからない限り、日本のカメラ・写真市場は先細るばかりなんだろう。

それから、写真って誰でも撮れると思われているのも市場が広がらない一因なのかもしれない。カメラの機能が高くなっているから、子どもも大人もシャッターを押せば誰でもそれなりに撮れる。なぜスマホで足りるところ、プロっぽく十分撮れるのに、カメラをわざわざ買うのか。そんな人もたくさんいるんだろう。

でも、実際写真講座を開いてみると、確かに写真は誰でも撮れるんだけど、
少しの工夫、撮影ポイントを知って実践するだけで、ぐんと作品としてのレベルが上がることがわかる。素人から少しだけ、遠くにいるプロの技術に近づいていけるような、その扉を開けるような感覚になる。


コドモタイム写真講座の講師がこんなことを言っていた。
夏の沖縄の海の写真。真正面から、空・海・砂浜を撮影している。

「これ、誰でも撮れると思うでしょ?俺は、料理や街、人、乗り物、いろんな写真を撮っているけど、こういう海の写真は一番慎重に撮るんだよ。上が空、下が砂浜、砂浜のどこに波がくる瞬間にシャッターを押すか。すっごく迷うし、丁寧に撮る。」


続けることで見える自分らしさ

講師のこの海の写真のエピソードを聞いて、こう思った。
アートってそういうことじゃないかな。誰もが出来そうだけど、その域に到達するには素人とプロ・芸術家には雲泥の差があり、バカ高い壁が立っている。

研鑽を積み、自分の作品と向き合い、他者との競争の中で疲弊し傷つき、でも奮起して諦めずに作品作りを続けてこそ、誰にも真似出来ないその人だけの表現や技術が確率されるし、その人の作品は人の心を掴んで離さないんだろう。

その写真家がどうやって、「自分だけのものの見方」を確立したのか。
どんな葛藤があったのか。人と自分を比べて苦しんだり、自分の個性や適性に悩まなかったか。

そうしたアートを切り口にその人の人生に触れることも、とても学びになる。

子どもの写真を通じたアート教育。写真はオワコンじゃないし、子どもにとってはとてもいい教育ツールだと考えている。

コドモタイムではプロの写真家を養成することを目的とはしないないが、

写真は、情報編集・色彩感覚を学ぶことができるだけではなく、アート思考で言われている「自分だけの視点」を養い、「自分なりの答え」を作り出すにはとても適したツール。

なぜなら、写真表現の世界には答えがないから。
何を伝えたいか、誰に伝えたいか、どう伝えたいか。
それはなぜなのか、どうしてその手法を選んだのか。
すべて自分自身と向き合いながら1つ1つ選択して決めて作品を作り上げていくから。


私は諦めないで写真教育をやりたいなと思っている。
写真の神様は、子どもたちにもっと写真に触れてほしいんじゃないだろうか。
写真を撮り続けていると、ふとした瞬間に微笑んで、最高のシャッターチャンスをもたらしてくれる神様。

写真を通じて自分や他者を知ることが出来たら、
写真を通じて自己表現の手段を手に入れることが出来たら、
写真を通じて自己主張出来たら、
子どもたちは、この先もっと生きやすくなるんじゃないかな。


そんなことを模索しながら、試行錯誤しながら子どもたちと対話している。


今日はここまで。

つづく。

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