1人酒場飯ーその46「浅草外れ、中洋食堂のカツ丼」
「いいかい、学生さん。トンカツをな、トンカツを何時でも食えるぐらいになりなよ。それが人間えらすぎもしない、貧乏すぎもしないちょうどいいってとこなんだ」
この言葉はグルメ漫画の代表格である「美味しんぼ」の11巻に収録されている「とんかつ慕情」というエピソードで語られた一言だ。
非常に人気が高いエピソードなのだが、それから数十年が経ち、トンカツはスーパーでも買えるぐらい身近な揚げ物になっている。
この言葉の重みは時間の中ですっかりと忘れ去れているに違いない。
今の時代のちょうどいいはどのラインなのだろうか、哀愁と共にこのセリフの意味をかみしめたいんだ。
物が揃って、欲望が満たされる時代になったが心は豊かじゃない、あの時代の向こうに忘れ去られた人情っていうのははどこにあるのだろうか。
それを思い出させるのは情報とか、刺激とかじゃない。人と人が触れ合って初めて見えてくるものだ。
人と人の距離が近くなるのは面と向かい合ったり、話したりするのが第一だがそれと同じぐらいに身近にさせてくれるのが昔ながらのお店の存在だ。
だから、大切にしなければならない守るべきものなんだ。そう改めて思わせてくれた店が浅草と三ノ輪の間にある。
どの区分にするか結構難しめのエリアの「千束通り」にあるのだがちょうど中間地点に位置している。もともとこの界隈は歴史的な地名で言えば「吉原」だ。
こんな場所に江戸時代は遊郭があったのか、と思うほどには地元民しかいないエリア。ちょうどそのエリアの千束通りに入る裏通りにひっそりとその店はたたずむ。
通りから覗けば見える「洋食・中華やよい」の看板。
そこに惹かれれば赤い「やよい」の看板と名前通り中華と洋食両方できますと堂々と宣言しているような暖簾が見える。昭和からこの町に腰を下ろした店が待ち構えているのだ。
店内はテーブル席とカウンター席のこじんまりとした造りだが、賑わいはそれ以上。僕はちょうどカウンター席の一番隅っこに座ることとなった。角度的に何を作っているか見えるエリアだ。
ちょうどいいぐらいの豊かさを満たしてくれる、黄金の丼に僕は誘われる。誰が作ったんだ、こんちくしょう。だと声に出して言いたい、日本人の丼文化の頂点のカツ丼。それを求めてここに来たんだ。上のカツ丼いいじゃないの、それで。
ちょうどいいのがトンカツなら、普段着はカツ丼なのだよ、僕にとっては。
それに余所行きの洋食も食べてみたい、ならばポークソテーで豚肉祭りだ。豚肉がぶつかり合っても自分が美味ければ問題ない。
昼からビール片手に肩を寄せ合うカウンターの二人のお客の隣、すごく楽しそうだ。
というか、カウンターの向こうの親子とこちら側の客との一体感がすごい。ライブというか、地元に愛されているというか、とにかく深いのだ。
料理しながら色々と語ってくれるマスターさんとお客さんのやり取りを一人で聞いているだけでも本当に心が落ち着く。
この自然なやり取りが豊かな時間なんだ、人によっては店員さんに声を掛けられるのが苦手な人もいるかもしれないけどそんなのは問題ない。個の時間を共有するという体験が「歴史」と「慕情」を体験するっていうことなんだ。
カラカラとあがる揚げ物の音に耳を傾け、ビールじゃなくて水を飲む。昼からビールは今日はきついかな、と思う。そりゃカツ丼とポークソテー食えばそうなるだろうよ。
さてさて、ちょうど良くない組み合わせではあるが先にポークソテーが出てきた。分厚い、文句ない。
ポークのいい具合の焼き加減にかけられたデミグラス風のソースが実に合う。これは予想以上の良い手だ。ナイフが止まらない。肉を食う、その喜びに満ち溢れた瞬間へようこそ。
そんな調子で食らいついていけばあっという間にポークソテーは胃袋に収まってしまった。腹5分か。これでカツ丼を迎え入れられる。
そんな充実感の時間から少し間を置いて、カツ丼を待つ。というか、ここに集うお客さんたちのいい顔が実に心に来る。本当にいい店に出会ったぞ。
続々とお客が帰る頃、ついにメインのカツ丼が出された。青い丼の蓋を開ければ心がときめく出会いがそこにはあった。
カラリと揚がったトンカツを黄金の卵が閉じ込める、威風堂々としたその姿はキングオブキング。端からカツを口へと招き入れる。まだ衣はさくっとした存在感を残しているが染みた出汁と卵が重なり合って感動を産む。その深さはただの出汁じゃ出ない。
この深みはなんだ、いったい何なんだ。今までのカツ丼には感じたことが無い奥深い底の見えない旨味の塊。これは。中華のラーメンベースの出汁だ!こんなにうまいカツ丼は食べたことが無い。舌から脳へとダイレクトへ情報が伝わる。
感動で心が震える。ちょうどいい、そんな贅沢がこの丼には地元への愛と、作り手の想いがすべてつまっている。漬物も、手間がかかっている。本当に、泣ける。
あっという間に米粒一粒まで胃袋に流し込んだ僕はご店主さんに一言言われた。
「遅くなってごめんなさいね」なんて、心遣いにあふれているんだ。僕も一言、感謝を込めて言う。
「本当においしかったです。今まで食べたカツ丼の中で一番うまいです」お世辞なんていらないよ、本当に。その時の店主さんのいい顔は忘れられない。
僕にとって、ちょうどいいぐらいはこんな大衆食堂での出会いなんだな。店を背にそう思いながら浅草の喧噪へと歩いていくのだった。
今回のお店
中華洋食やよい
住所 東京都台東区浅草5-60-1
お問い合わせ番号 050-5232-2674
定休日 木曜
営業時間 11時30分~15時
17時~21時