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【よりらじ】仏教とウェルビーイング#2前編「お坊さんと語る・自分と向き合う難しさや怖さ」

この記事は、由宇霧さん主催のウェルビーイングプロジェクト「Yoriyoi(よりよい)」のコンテンツである、「仏教とウェルビーイング」シリーズの第2回です。

stand.fmとYoutubeでは音声で、仏教やウェルビーイングについて楽しく学び、よりよく生きるためのヒントが見つかるラジオコンテンツを目指します。

こちらのnoteでは、補足情報を追加しつつ、ラジオで話した内容をまとめていきます。

今回のラジオでは、自分と向き合うことの怖さと、それを乗り越える方法を語りました。

前回でも、浄土宗としての自分との向き合い方について話していますし、今回ラジオ冒頭で話していた「おひとり様デート」に関しては、由宇霧さんがnoteを書かれています。ぜひ、そちらもチェックしてみてください。

・前回:「【よりらじ】仏教とウェルビーイングについて#1
おひとり様デートのやりかた【ウェルビーイングプロジェクトYoriyoiコラム】


自分と向き合う怖さ

自分と向き合うのは、そもそもなぜ怖いのだろうか?

必ず物事には原因があり、それを見つめ直すことも仏教的考え方だ。なので、まずは原因から考えてみよう。

由宇霧さん曰はく、自分と向き合う怖さは、「自分のちっぽけさ」に気付くからだと言う。

他者を見ていると、うまくいってる人と比べて、自分のことをちっぽけに感じてしまう。

子どもの頃に抱いていた万能感から、自分ができないことを改めて知り、自分の無力さを受け入れなければならない。

それはある種、大人になることの一歩でもあり、そこから他者に頼ることや他者を尊重することに繋がる大事な過程だ。

だが、自分の無力さを知るのは怖いし、心の痛みを伴う。

どうすれば、これを乗り越えられるのだろうか?

出来たことも見つめてみよう

自分を見つめることで、自分の無力さを感じることもあるが、それと同時に自分ができたことを振り返るのを同時やることも大事だと、こうどうは考える。

それによって、自分の得意なことや活動方針がはっきりするし、そうでないことは他者に頼むという切り分けができてくる。

そして、自分ができることがわかれば、他のことで無力に感じていても、"できることを頑張ればよいのだ。"という前向きな気持ちにもなれるだろう。

こうどうは、よく自分が作ったコンテンツを見返すことがある。

自分が見たいもので他者は決して作ってくれないものがあり、それを自給自足するために、作っていることが多いからだ。

もちろん、こうどうもバズを狙ってみようと、他人の目を気にしたこともあるが、大してうまくいかなかったので、結局この自分の好きなものを気ままに作るスタイルに落ち着いている。

このやり方は、こうどうが小学生くらいの時から、あまり変わっていないだろう。小学校の図工の授業の時から、他の誰にも被らないような、在り来たりでないもので、自分が思う面白いものを作ろうと考えていたように思う。

Yoriyoiで目指すのは、中2の心のまま

由宇霧さんも、中2のころまで人と違うことをしていたが、高校生くらいから、人の目を気にし始めたという。

そうやって、大人になるにつれて、自分が好きなことにフタをし、他人に評価されることや認めてもらえることを選んでしまうように、誰しもがなっていってしまうだろう。

Yoriyoiというプロジェクトでは、その中2の頃のように、自分の好きなことをしていても、誰にもそれを否定されたり、嫌なことを言われないような環境を目指していく。

そのためには、多くの人に見てもらえるコンテンツではなく、合意が取れる範囲の少人数が楽しめるコンテンツであるのが望ましいだろう。

アダルトコンテンツにもよくある話だが、誰かにとっては不快なものであったり、見たくないものであっても、それを好きなもの同士の中でなら作ったものを見せ合うことは、なにも悪いことではない。

それができるようになれば、もっと前向きに自分と向き合えるのではないだろうか?

まとめ

  • 自分と向き合う怖さは、自分の無力さを知るから

  • 自分ができることにも、目を向けてみよう

  • 自分の好きなことができる環境を作れば、自分と前向きに向き合えるかもしれない。

少し短いが今回はここまで、ラジオではもう少し続きがあるが、それはまた来週に書いていくことにする。

正直、前回はボリュームが多すぎたので、少し小出しにしながらnoteは進めていこうと思う。

では、また次回の更新でお会いしましょう。

同称十念

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