「オレがクマを食べる」の「〜が」は何の助詞だと言えるのか?
今回は助詞の「〜が」について少し考えていきたい。
(26)オレがクマを食べるんだよ。
上の例文のような位置に使われる、「オレが」の「〜が」は、ふつう「主格の助詞」であるとか説明される。主格であるとは、この場合、動詞句「食べるんだよ」の示す動作を行う主体であることをいう。もし、
(27)オレをクマが食べるんだよ。
と、「〜が」と「〜を」を入れ替えると、主格が「オレ」から「クマ」に移動するので、その説明で合っているようには見える。しかし、
(28)オレはクマを食べるんだよ。
(29)オレもクマを食べるんだよ。
のように、「〜が」を「〜は」や「〜も」に変えても、「オレ」が主格であることは動かない。この「〜は」や「〜も」は主格を作る助詞ではないが、それは「オレ」が主格であることと矛盾もしない。このことからすると、「〜が」が主格を作っていると言えるのかどうか、無くても主格が出来ることをどう考えるのか、問題になる。
ところで、ここに登場するもう一つの助詞「〜を」は、古くは「おお」というような感嘆の声を表したもので、句と句の間に投げ込まれるように使われるうちに、文法的機能を負わされるようになり、いわゆる目的格の助詞になったと考えられる。
「〜を」の場合は文献時代までに感嘆詞としての用法がかなり残っていたので、その古い姿を見ることができるが、「〜が」など他の多くの助詞も、おそらく同じような事情で助詞になったものと想定しておきたい。初めから助詞として生まれていないので、文法上の役割を“職探し”する推移があったはずである。
ということは、日本語の非常に古い段階に、助詞が全く無いか、少なくともほとんど無い時代があったろうと想定することにもなる。現代語でも、
(30)オレクマ食べる。
のような助詞抜きの表現も成り立つ。このようないわゆる他動詞文では、文頭の名詞が主格、動詞の直前は目的格の位置に、基本的にはなる。それでも「〜が」や「〜を」などを入れることで句の役割や切れ目が明確になったり、語順を変えられるという利得が取れるわけだ。
「〜が」は現代語の中だけでも、(26)のような英文法上の主語に近似する句を作るように見える位置に入るだけでなく、他にいくつかの用法がある。それは辞書を引けば載っているのでここで詳しくは見ないが(これもそうだし、辞書を引かなくても、この文章の中にも色々出ているだろうが)、それらは歴史的な“就職”また“転職”の痕跡であることを認めておきたい。
「〜が」が主格の助詞のように使われることは後期の変化に属し、古くは所有格を示すのが基本的な用法だったとみられる。
(31)我が家
のような、現代語の中でも慣用的に使われる古語的表現では、「〜が」は「家」が「我」の有する所のモノであるという、事実としての所有関係を表している。同じ構文でも、名詞を現代語的なものに変更して、
(32)私が家
と言うと、「〜が」の働きが後期のものに変化して、「家」という存在が意思を持ち、「私が家なんだけど……」と話し始めたようになる。これは「〜が」が主格を標示しているというより、「家である」という陳述を「私」に所有させていると言えないだろうか。つまり具体的所有格の助詞であったものが、その経験を活かして、構文上の句と句の帰属関係を示すもの、言ってみれば「構文的所有格」に転じたと捉えたい。
「構文的所有格」への「〜が」の転職活動は、万葉集の歌が作られた時代にはすでに始まっていたことが確かめられる。やがて放棄されるべき具体的所有格の助詞としての働きは、「〜の」の職域をわずかに拡大するだけで担わせることができる。現代語では、
(33)私の家
と言えば、古語的表現の(31)と同じ意味になる。具体的所有格の仕事を「〜の」に譲ったことで、「〜が」は助詞の整備がまだ進んでいなかった方向へ、いっそうのびのびと活躍の場を広げることができた。
結果的に、今回の例文のような場合では、「〜が」は主格の名詞と癒着し、また道連れにすることとなる。実際上、主格の助詞であると言っても差し支えないようにも思えるが、根が所有格なので、主格だと言うだけでは割り切れないような性格を持つ。
主格となる名詞の側から見ると、「〜が」はいつも必要なのではなく、「〜は」や「〜も」、無助詞などと比較し、取捨選択されるべき要素となる。選択が決定されるには、それぞれの要素が持つ特徴が見出されることが必要であり、「〜が」がもともと所有格であるという性格が影響する。
「〜が」について辞書を引くと、何条にも分けてくどくどと説明が書いてあり、読むのが面倒くさくなるほどで、どうしてそう色々な面が有るのかもわかりにくい。しかし、根底には所有格としての性格があり、その派生が現代語での用法になっていると考えれば、全体を統括的に理解できて経済的ではないだろうか。