信州・甲斐を列車で行く(車いす、旅に出る 後編)
懐古園(小諸城址)を散策
次の日の朝、6時に目が覚めた。朝のルーティンを済ますとまだ8時だ。ゆっくり用意して出発した。
この日は長野から、しなの鉄道線を軽井沢方面に戻って、途中の小諸駅からJR小海線の観光列車「HIGH RAIL 1375」に乗り、小渕沢駅より中央線経由で帰宅する計画だ。
8時過ぎ。予定より余裕をもって出掛けられたので、のんびり駅の売店を見ていた。すると昨日もらった八幡屋礒五郎の七味が店頭に飾ってあるのを見つけた。信州のちょっとしたお土産として七味は有名なのか。知らなかった。
駅員の案内でホームに下りた。本日は普通の通勤列車で、席は埋まっていた。立っている人もちらほらいて、ローカル線にしては混雑しているようだ。
9時5分、列車が動き出した。昨日とは逆方向だが同じ道を走るので、昨日はこんなことがあったなぁとか、今日は浅間山がよく見えるだろうなぁ、などと比較出来て楽しかった。朝はいい天気なのだ。
想いを巡らせているうちに小諸に着いた。観光列車の出発までは時間があるので、ついでに駅周辺を散策する計画を立てていた。
始めに懐古園(小諸城址)に行ってみた。案内看板を見て進んでいったが、歩道橋には誰もいないし、がらんとして味気ない。ずいぶん寂しい観光地だな。時間つぶしになるかな、と考えながら歩道橋を下りて少し進むと、目の前に立派な門が現れた。懐古園の三の門だ。
振り返ると、駅に通じる地下道があり、階段があるので車いすは通れない。なるほど、私が見たのは車いす向けの看板だからか。納得。
懐古園は軽い気持ちで訪れたが、実際は素晴らしい公園だった。順路通りに進むと、石垣があちこちに聳え立っていて下から見上げる格好になるのだが、周囲の緑と青い空、そして苔むした黒い石垣のコントラストが美しい。今の時間は気温が上昇しているはずだが、木陰でとても涼しい。その中を散歩しているだけで、とても気持ち良いのだ。
散歩の途中、一番奥に着いた。そこは千曲川にせり出す崖の上にあり、遠くに富士山が望めるらしい。今日は南の方に雲がかかっていて見えなかった。過去、お城を守った藩士たちもこの景色を見たのだろう。見晴らしの良いお城だったに違いない。
ここは城址ながら「懐古園」としても知られるが、その経緯を聞くと納得する。小諸城は明治期、政府による廃城処分を受けるが、これを嘆いた旧小諸藩士が資金を集めて払い受け、きれいに整備して公園にした。その時命名したのが「懐古園」。旧藩士の思いがこもっているではないか。
手打ちの「くるみそば」に夢中
お昼前。三の門まで戻ってきて、その手前にある「古城軒」というお蕎麦屋さんに入った。この辺では有名なお店らしい。メニューがとても変わっていて、皆がこぞって頼むのが「くるみそば」だそうだ。当然私も同じものを頼んだ。
出てきたのは、山菜がどっさり乗ったざるそばと、そばつゆにすり下ろしたくるみがたっぷり入っているお猪口だ。いずれも量が多くて気取ってない。早速いただいた。
手打ちで太めの田舎そばをお猪口に浸してすする。甘じょっぱい香りがとてもいい。山菜とおそばを一緒にくるみだれにつけても美味しい。山菜はいろんな種類があって、それぞれで味も食感も変わるのが新鮮だ。
夢中になって食べ進むと、お猪口の底に砕いたくるみが入っているのに気付いた。それをそばと一緒に食べると噛み応えが楽しいし、ふわっと香りが立っておいしい。くるみが控えめに主張してくるようだ。
食べ終わる頃に、おかみさんが「今日は暑いけど、よかったらどうぞ」と蕎麦湯をもってきてくれた。しかもつゆだけの入ったお猪口も一緒にだ。気遣いがありがたい。
だが、まだくるみを感じていたいと思ったので、お猪口の変更はなしだ。そばを全部食べ切ってから蕎麦湯を入れる。くるみもいいではないか。嬉しくなって、つい最後まで飲み干してしまった。
お会計をお願いしようと顔を上げて周囲を見ると、「自家製甘辛旨味噌、今年も出来ました」という張り紙があった。おかみさんが来た時にどういうものか聞いてみたら、甘めの赤みそに七味を効かせて豚肉と一緒に煮込んだものとの事。ご飯に乗せたらとても美味しいそうだ。
勧められて一口味見をしてみると、旨いと思った途端、後からピリッと辛さもやってくる。これはきっとご飯に合うだろう。一つ買うことにした。
私は小サイズを頼んだが、本当にそれ小ですか?と突っ込みたくなる大きな容器だ。「スーパーに小さいのがなかったのよ。これで持ってって」と笑った。手作り感が出ている。
会計を済ませて、車いすを止めた店の外に出た。すると、後ろからおかみさんがきて、「段があるけど大丈夫かしら?」といった。止めたところは狭いのでUターンは効かないがWHILLには通れるし、来た時はこの段差も問題なく登ったのだが、とても心配してくれた。
厨房にいる旦那さんを呼んで、車いすを動かしてここの平らな所を通せないかと話している。私は「大丈夫ですよ。行けますから」と言ったが、旦那さんはうんうんと頷きながら表へ出てきて、こちらの話は聞かずに、重いWHILLを動かして平らなルートに向けてくれた。
「旦那さん、腰を痛めちゃうよ。大丈夫ですか?」とつい尋ねると、「若い時、俺も一時期車いすでさ。交通事故で3ヵ月。今でも片方の足が悪くて正座ができないんだよ。だから他人事じゃないような気がしてさ」と笑顔でいった。
先ほどまで厨房にいて出てくることはなかったが、さりげなく見てくれていたのだ。申し訳なくも有難い気持ちになって、お店を出た。
暑さのあまり喫茶店へ
駅に向かって歩道橋を渡ると、その隣の公園でなにやら大きな人だかりがあった。炎天下にワゴン車を囲んでいるようだ。気になって覗いてみると、「ピーチフェスティバル」というイベントが開催されていた。
桃のジェラートや、桃のかき氷など、桃にちなんだメニューがいくつかのキッチンカーで売られている。小諸は桃の生産が盛んなのか、毎年この時期に開催されるらしい。私が気になったのは桃バーガーだ。
列に並んでみようかと思ったが、会場は人が多く、屋外で日が当たり、私には日傘もない。この暑さでは熱射病になってしまうと、残念ながら引き返した。
うらやましいが、小諸の人は暑さの中でもイベントを楽しんでいた。
駅に着くと、そこに隣接して喫茶店があった。列車にはまだ十分時間があったので、冷房のきいたお店に逃げ込んだ。ここまでの暑さに少々グロッキー気味だったので、給水タイムだ。
この店ではレジで支払ってから席に着くらしい。ふとレジ付近のポスターを見ると、「夏におすすめ 紫蘇ジュース」とあった。体がこの手の物を欲していたので、思わずこれを頼んだ。
席に着いてから一口飲む。確かに紫蘇の味がする。すぐに甘さが広がって、スッキリとしたおいしさだ。力が出る気がする。夏にはピッタリだ。
「HIGH RAIL 1375」に乗車
14時頃。電車の時間が近づいてきた。余裕を持って駅員さんに案内をお願いした。笑顔で出発ホームへの行き方を説明してくれた。
ホームへ下りると「HIGH RAIL 1375」が入線してきた。たくさんの人たちが写真撮影を楽しんでいた。せっかくだからと、私も何枚か写真を撮った。
列車に乗り込んで席に着くと、まもなく発車だ。
指定券を見ると、座席は昨日の新幹線のようにA席を確保してあって、車いす用スペースにあたるB席ではなかった。これも2席分使っていいのだろう。しかし、本日は乗り換えるのをやめた。なぜなら窓際のA席にちょうど窓枠があり、充分に景色を楽しめない場所だったのだ。B席で少し離れるが、こちらの方がよく見えるかもしれないと思ったからだ。
HIGH RAILは小諸の市街地を抜けて山ぎわへ進むと、徐々に高度を上げて森の中に入って行った。列車から見下ろすと、千曲川がすぐ近くに見える。左かと思えば右へ、右かと思えば左へ。小海線は千曲川に橋を架けて進む。まるでダンスを見ているようだ。
昨日の雨がこちらでも降ったのか、川は茶色く濁っていた。水かさも増している。車内アナウンスで「美しい千曲川の流れを…」と言っているが、見た目は少し違っていないか。本来は水がきれいなのだろう。残念だ。
車内アナウンスが次の停車駅を野辺山と告げた。野辺山駅は、JRで標高が最も高い駅だ。ここでしばらくの間臨時停車をするというので、皆外に出ている。私も自分の足で降りた。充分余裕はあるし、万が一遅れても私を少々の間なら私を待ってくれるだろうし、以前から機会があったらチャレンジしようと思っていたのだ。
さすがに標高が高いと涼しい。先ほどまでの暑さは悪い夢みたいだ。長野でも小諸でも気温は目論見を外し続けてきたが、やっと逃げられた。息を大きく吸って高原の空気を感じた。
ほとんどの乗客は、上りホームの記念碑や駅舎を目指し、階段を降りて線路を渡っていったが、私にはムリそうだ。駅舎は三角屋根があるきれいな建物で、正面から見られないのは残念だがしょうがない。下りホームにも記念碑はあるので、それと写真を撮った。
もう少し時間はありそうなので、散歩がてらにホームをゆっくりと歩いた。やはり高原の風は涼しくて気持ちがいい。残念ながら曇が垂れ込むあいにくの空模様だったが、それも高原らしくていい。満足して列車に戻った。
そこから更に標高が上がると、JRの最高地点に差し掛かるとのアナウンスがあった。そこは何てことない普通の踏切で、列車は通過するだけなのだが、乗客はわかっているようでカメラを構えている。
私は少し考えてiPhoneをビデオに切り替えた。カメラは自信がないのだ。ところが、車窓を過ぎる親子連れが、HIGH RAILに向かって手を振っているのも撮れたので、結果良かったように思う。
県境を過ぎて山梨県に入った。標高をぐんぐんと下げ、清里駅を過ぎて小渕沢へと降りていった。
小渕沢から一気に横浜へ
小渕沢駅は中央線に乗り継ぐ駅で、ここからは電化されている。次の電車まで一時間ほど余裕があるので、駅弁を買って夕飯にしよう。
日が落ち、やがて駅も電灯がついた。2本普通電車を見送って、特急あずさが来た。これに乗って帰るのだ。
今度は座席を乗り換えて、楽になった。WHILLは乗り心地がいいとはいえ、さすがに背もたれが腰の高さまでしかないと長く乗るのはキツい。
上野原駅を過ぎると間もなく都境だ。八王子が近くなると車窓から街の明かりが見えてくる。新宿から湘南新宿ラインを乗り継いで横浜へ。5時間ほど前、標高がJR最高地点にいたのに、そこから一気に“海辺の町”横浜まで下りてきた。
今回の旅も列車の時間に縛られていたので、計画的に行くことを前提にしていた。それはほぼ段取りに沿って進んだが、いくつか小さなハプニングもあった。特に長野電鉄の運転手さんと古城軒の旦那さんは、思いがけないところで起きたハプニングにも助けてもらった。
あたかも当然のように自然と振る舞っていて、彼らにとっては何でもないことかもしれない。しかし運転手さんには本当に助けられたし(もし乗れなければ炎天下を長野駅まで歩いて途中夕立にあっていただろう)、旦那さんは心根が優しくて感動した。
また、「ろくもん」と「HIGH RAIL 1375」の乗車を楽しみにしていて、それは満足だったが、スケジュールが空くので入れた「善光寺」と「懐古園」は、思いがけず楽しかった。
私にとって旅は、自信を回復するためのものだったが、今や知らない人や物に出会うこともいい経験のような気がする。これも成長か。
さて、次の旅ではどのような人、どのようなハプニングに出会うのだろうか。今から楽しみにしよう。
(終わり)