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論説古代史 その2「蘇我氏とは何か」
写真は蘇我馬子の墓「石舞台」
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本当の蘇我氏を探る
蘇我氏は古代史の中で最も理解されていないものの一つであろう。飛鳥時代において日本国の発展に大きく貢献した氏族であるが、一般には真逆に理解されている。
蘇我氏というのは広開土王が日本にやって来た時、その臣として随行してきた阿知使主(あちのおみ)の流れをくむ氏族である。 広開土王は後に仁徳天皇と謚された人物であるが、このことについては別途、詳しく述べる。
阿知使主は北魏にいたが、道武帝に迫害を受けた為、高句麗に逃げ広開土王の庇護を受けていたが、広開土王が日本に来るときに随行したのである。
阿知使主とその子都加使主一行は後漢霊帝三代の孫と称しており、倭漢直
(やまとのあやのあたい)の祖ということになっている。
倭漢直は一種の武力集団として存続したが、のちの坂上田村麻呂は倭漢直の系統と言われている。
阿知使主は仁徳天皇の遣使として二度、宋に行っている。一度目は宋の建国の翌年の421年でこれは建国慶賀の朝貢である。二度目は織姫を求めて425年に朝貢している。『宋書』には倭王讃が再び方物を献じてきたとある。(このことから仁徳天皇は宋から倭王讃と呼ばれていたことが分かる。この朝貢は日本書紀では応神天皇の時となっているが、応神は宋に朝貢していない。)
この時の遣使の名前は司馬曹達となっているが、これが阿知使主の事であると私は解釈している。阿知使主と司馬曹達とを直接結び付ける証拠はないが、南朝への遣使は礼を知る(後漢の流れをくむ)阿知使主しか考えられない。織姫は武庫(池田市)に着いたため、織姫を祀る伊居太(いけだ)神社が残っており、阿知使主は高句麗から宋へと案内したクレハ、クレシと共に摂社に祀られていることからみて、阿知使主が宋へ行ったことは間違いないと思う。
この司馬は中国の官職名であるが、姓としても使われたようである。
阿知使主一行はまず日本に入ってヤマトの旧族である蘇我氏を名乗ったと考えられる。蘇我氏はかって邪馬台国時代を支えた名族であったが既に凋落し、後継者がいなかったので阿知使主の一族を迎え入れたのだと思う。
これが蘇我満智であり、仁徳天皇の子の履中天皇を支える閣僚の一人、
蘇我満智宿祢として歴史に登場する。そしてその系図は、詳細は分からないが、韓子、高麗と続き稲目に至っている。蘇我稲目は欽明天皇の時に頭角を現し、大臣となり、飛鳥時代の蘇我氏の隆盛の基礎を築いたのである。
恐らく欽明天皇を金官加羅から迎える策略を立てたのは稲目であろう。
その後、蘇我氏は次の蘇我馬子の時に絶頂期を迎え、蝦夷、入鹿と続き入鹿の時に「乙巳の変」により滅亡する。ただし蘇我氏は阿知使主の系統でないものは(つまり、高句麗系統でないものは)存続することになる。なぜなら「乙巳の変」を起こした皇極帝や中大兄の皇子や孝徳帝などの百済人たちが目指したのは高句麗系統の撲滅であり、そのことにより全権を握って日本の兵力を半島に送ることであったからである。
乙巳の変の直後、倭漢直の兵は蘇我蝦夷の救援に向かおうとするが、中大兄の皇子と余豊璋(藤原鎌足)の変後の対応は万全で、「もう事は終わった、各々方引き上げられよ」という言葉に示される通り手も足も出なかったようである。倭漢直の一族はその後、高句麗色を消してヤマト王権のなかで生き残っていく。その後裔が坂上田村麻呂である。
飛鳥時代には鞍作司馬達等という人物が登場する。この名前が示す通り、仁徳天皇の命により、宋に行った遣使、司馬曹達の子孫である。阿知使主の一族は蘇我姓を持ち、一方では司馬姓も持っており、同時に鞍を作る生業も持っていた。司馬とは軍馬とその装備を司る氏族であり、鞍をつくることは本来の仕事であったのである。鞍作司馬達等の孫に鞍作鳥(止利)仏師がいるが、馬具を作る技術が仏像づくりにも生かされたものと考える。
ここで日本書紀の中で、蘇我入鹿は「鞍作臣」と呼ばれていることに注目していただきたい。 このことは飛鳥の蘇我氏は司馬曹達と繋がることを示しており、さらに「鞍作」と繋がることを示しているのである。
これでなぜ蘇我入鹿が「鞍作臣」と呼ばれたのかは説明がつく。
すべては阿知使主が司馬曹達となり、宋に遣使されたことから始まっているのである。
以上が私の蘇我氏に対する見解である。
論説古代史~その2 完