論説古代史 「トカラ人と古代日本」 (古代日本の最初の王権を確立した民族 とは何か)
目次
・トカラ人について知る
・楼蘭の美女ートカラ人は何処から来たのか。
・トカラ人の移動とクシャーナ朝(大月氏国)の建国
・トカラ人の属性
以下は次回とする。
・海を渡る。
・加羅(カラ)とは何か。
・神武は何処から来たのか。
・トカラ人と古代日本
トカラ人について知る。
我々はトカラ人について知らなければならない。トカラ人こそは初期のヤマト王権を確立した民族だからである。
古代ユーラシア大陸では何といってもシルクロードが有名であるが、その北にはユーラシアステップと呼ばれる草原の道があった。ユーラシアステップは遊牧騎馬民族の土地であり、時代によって変わるが、概ねその西部地域はスキタイ人が制し、東部地域は匈奴が制した。そして彼らはその周辺民族と交雑同化していった。中央アジアを故地とするトカラ人はスキタイと交雑同化が進んだようである。スキタイは黄金文化をもちトカラ人も少なからず影響を受けている。
トカラ人は中国側からは月氏(げっし)と呼ばれた。月氏と呼ばれた理由は諸説あるが、古代中国の「月」という語トクヮール(Tokhwar)の発音がトカラ(Tokhra)に似ているため音写されたという説がある。(クリストファー・ベックウィズ説)
理由はともかくとして、トカラ人と月氏が同一であるということは確かである。トカラ人もまた中国とは関係が深く、自らが月氏と呼ばれていることは承知していたが、西アジアではトカロイ、トハリスタンなどと呼ばれていた。西アジアのソグディアナにいた時はその中国姓を「羅」としている。
(中国姓を持つのは中国と交易する場合に必要だからである。)
トカラ人は交易遊牧騎馬民族である。その交易範囲は広くローマから中国まで、つまりシルクロード全域に及ぶ。
紀元前2~3世紀の頃トカラ人(月氏)は秦の西方にいてトカラの駿馬と秦の絹を交易したことが史記に見える。絹はローマに運ばれ金に替えられた。
トカラ人と日本人は関係がないように見えるが、実は日本の宮廷雅楽の多くはトカラ人の舞楽からきている。日本の宮廷雅楽は中国の唐の影響を強く受けているが、その唐の舞楽の中核をなすものが胡楽(西域の音楽)であり、なかでも最も人気の高かったものが亀茲楽(きじがく)、つまりトカラ人の舞楽であるからである。雅楽で使われる楽器である、笙(しょう)、篳篥(ひちりき)、羯鼓(かっこ)、琵琶、箏(そう)、すべて亀茲楽のものである。
亀茲(きじ、くし、クチャ)は中央アジアのタリム盆地にあったオアシス都市国家であり、その祖族はトカラ語を話すトカラ人である。
楼蘭の美女ートカラ人は何処から来たのか。
トカラ人は遺伝子的には南シベリアのアルタイ山脈のあたりから南下して、トルファン盆地からタリム盆地に入ったとみられており、その時期はおよそ5千年前とみられている。
スヴェン・へディンがその著「中央アジア探検紀行」に記した「さまよえる湖」のあった楼蘭の近くで発見されたミイラが有名な「楼蘭の美女」である。およそ4千年前のものとされウールを主とした衣服をまとい、生けるがごとく葬られている。この楼蘭の近くの「墓の谷」には多くのミイラが発見されているが、彼らは初期のトカラ人とみられており、遺跡の内容から見て一定の文化的生活をしていたものと思われる。トカラ人は匈奴に追われるまでこの楼蘭からタリム盆地一帯の住人であった。タリム盆地のオアシス都市国家はシルクロードの交易によって栄えたが、そのために匈奴や漢帝国の侵略のターゲットとなったのである。
トカラ人の移動とクシャーナ朝(大月氏国)の建国
紀元前2~3世紀にはトカラ人(月氏)は秦帝国の西に在り、秦との交易を行っていたが、秦帝国の北部にいた匈奴が強大となり、月氏は二手に分かれて逃げた。南の南山羌(チベットに繋がる高原地帯)に逃げた部族は小月氏と呼ばれ、タリム盆地の亀茲に逃げた部隊は大月氏と呼ばれた。さらに執拗に匈奴に追われた大月氏は亀茲から西北方のイシク湖周辺まで逃げている。この時の戦いは壮絶を極めたようであり、敗れた月氏の王の首は髑髏杯にされたと伝わる。月氏は王の后を擁して逃げ、その妃が、後のクシャーン王朝(大月氏国)の女王になったと言われているが、真偽のほどはわからない。
(前漢の武帝の命により、大月氏国に行った張騫(ちょうけん)の報告には謁見した王は女帝と記されているとのことである。)
イシク湖周辺には金鉱山があり、月氏も採鉱に従事したと思われる。
その後、月氏(トカラ人)はアム川とシル川の間にあるソグディアナ地方に移動しており、かれらは「トカロイ」と呼ばれたが、スキタイの流れを汲むいくつかの部族と共に現在のアフガニスタ北部に当たるグレコ・バクトリアに侵攻し、アレキサンダー大王亡き後ギリシャ人が治めていたバクトリアを占領した。これが中国側が「大夏国」と呼んだバクトリア王国である。
トカラ人の国という意味でトハリスタンとも呼ばれる。
月氏はここに5つの翕侯(休密、雙蘼、肸頓、高附、貴霜)をおいて国を治めたが、このうち貴霜翕侯(きそうきゅうこう)が他の4翕侯を征服してインド北西部に侵攻し、クシャーナ王朝(大月氏国)を建国した。
紀元後1世紀の初めごろの事である。
この時、征服された4翕侯がどうなったのかは史実に明らかではないが、
全滅したとは考えにくいので、翕侯の一族は他所に逃げたのであろう。逃げた地域は当時まだクシャーナ朝の力の及んでいなかった、かっての「コーサラ国」がその有力な候補と考える。そしてその時期は紀元後1世紀のはじめから中頃の事と推定される。これらの地域は2世紀の中頃、カニシカ王の時クシャーナ朝に併合されている。
月氏はこのクシャーナ朝で最盛期を迎えるが、ヴァースデーヴァ王の時、中国の魏国に朝貢し、「親魏大月氏王」の金印をもらっている。同じ時期、倭国では邪馬台国の女王卑弥呼が魏国に朝貢し「親魏倭王」の金印をもらっている。歴史は繋がっているのである。
トカラ人の属性
トカラ人はインドヨーロッパ語族に属するが、独自の言語と多くの国地域を変遷した歴史を持っ為、かなりの交雑が進んだ民族である。
●トカラ人はギリシャ・ローマの文化と繋がりを持つ。
トカラ人は交易民族である。 領地としたグレコバクトリアはギリシャの植民地であったことからギリシャ文化の影響が残る。ローマとは交易国として深いつながりを持つ。
●トカラ人はスキタイ人との繋がりがある。
中央アジアや西アジアにいたスキタイは徐々に周辺民族と交雑し、名前を変えていったようである。サカ族は元はスキタイである。トカラ人もスキタイとの交雑が進み、同じ地域に住むようになっている。
●トカラ人は採鉱民族である。
アルタイ山は金の山という意味であるが、このアルタイ山脈から西アジアのサマルカンドまでは黄金のベルト地帯と言われる。勿論黄金がある以上、銅、鉄、水銀など多くの鉱山資源があり、彼らはその価値を知っており、採鉱技術を持ち自ら精錬を行った。黄金に対する執着はスキタイからきているのであろう。
●トカラ人は騎馬民族である。
トカラ人はスキタイの伝統を引き継ぐ騎馬民族でもあった。命の次に大事なものは馬であり、他の遊牧騎馬民族と同じく馬と切り離して考えることは出来ない。
東アジアにおいて以上のような属性を持つ民族がいたとすれば、それはトカラ人またはトカラ人とつながりのある民族である。
次回に続く