Fingertip spectacle!~「作品の画面構成について話します。まず何故話をするのか?ということから。」vol.1

絵には構図がある。構図はとても大事なものです。なので今回の作品の構図を詳細にお話します。実は世の中に作品の構図や構成の仕方を詳しく書いた本はありません。お話しなければ学生やこれから絵を描こうとする皆さんが誰も勉強ができないのです。

このような状況には訳があります。遡ると第2次世界大戦後。絵画の潮流は厳密に画面構成された構図から離れ、画面に主題や主役といった中心を置かなかったり、自由に抽象的に殴り描きをしたりする、所謂抽象表現主義の流れに入ります。
その流れは現代まで続き、未だに大きな余韻を残しています。つまり厳密な画面構成の話を切り出すことは絵画の歴史を踏むと時代を逆行するかのような感じなのです。それが少なからず、今日の画家に影響を与え多くが画面構成について詳しく語らない状況を生んでいます。そのような空気がある中にあっても、現在は戦後とは比べ物にならないほど情報に溢れ、絵画を丸裸にして正体をさらけ出してしまえる十分な環境があります。絵画が社会と疎遠になりつつある今、距離を近づける材料の揃った今、この機を生かさない手はありません。動画が撮れて編集さえ容易になったこの時代に未だベールに包まれている絵画を世の中の皆のために裸にしてしまうべきです。有識者の手によってスムーズに絵画を丸裸にしてしまえば、絵画はすっと水に粉砂糖がとけるかのように社会に浸透するでしょう。そうすれば絵画の新しい時代の幕が上がります。


画面構成について詳しく話さないことはこの世界では暗黙の了解になっています。そこに踏み込む指導を眼にする機会はあまりありません。それでみんなが納得できていればいいのですが、納得しておらず絵画の内外とわず実際には不可解でマイナスイメージを持つ人の方が圧倒的に多いのが現実です。

マイナスイメージを無くすためにかなり詳細に画面構成について書こうと考えています。それは暗黙で了解している感覚に照らすとおかしなことなので、本題に入る前に、おかしなことをする理由の話から入ろうと思いました。

構図は大抵の場合、厳密に計算されて組み立てられてなければ、ならないものです。大事なものといいながら「大抵」というのはいかがなものかと改めて思います。

絵画の世界は、厳密に構図を組み立てることと組み立てない考え方の2つがあります。組み立てない考え方が組み立てる方を押しのけたのは第2次大戦辺りです。その頃に抽象表現主義が誕生し、その後、長い月日を経て、今では押し合いへし合いのパワーバランスは拮抗、どちらが正しいとも言えない状況に収まりつつ有るように思います。争いの当事者達は相変わらず私が正しくて相手は間違っているという感覚が根強く、私にとってはどちらも、目的に応じて、なくてはならないので、両方あればいいと考えています。彼らが闘争する理由は既得権益を守る為。結局の所は権力闘争です。そのため外野である我々は基本的に関係ありません。

どちらか曖昧な状況は我々には多くの問題を起こします。
例えばそのどちらに属するかを表明せずに指導したり、評価したり。作品を発表する側はそのような状況で闇雲に発表せざるを得ないことが横行しています。これについて誰もメスを入れません。入れないのは権力があるからです。
横行する理由は他にもあります。まず、詳しく説明できません。説明できないのは話す習慣がないので話し方がわからないからです。基本的に絵画の世界の人の多くはコミュニケーション能力が低いです。そして論理的に理解できていません。実際に説明を求めても説明する概念は頭の中にありません。又、理解できていても利益を考えると話さない方が良いと判断することも多い。話すことをおこがましいと感じる人もいます。
公募や受験などは公開することで出品者や受験者は減る。そのような背景も絡んでいます。元々パイの少ない世界ですからそこから最大限に収益を高めるビジネスモデルを考えれば自ずとそのような行動に行き着くのです。

このような横行はこの世界では自然なことです。それで当然という感覚に陥っていることによって、思っていた指導が受けられなかったり、どこで指導が受けられるか調べようもなかったり、発表したり、受験したりしてどのように評価されるかわからないけれど運を天に任せて出品したりするしかありません。評価する側も審査しながら作品を眼の前にしてはじめて、今日はどちらにするか考えているような状況です。ひどい場合はこってりしたものを食べた後だからさっぱりした作品を取ろうと入試の実技作品を採点する先生も出てくる始末。

そのような状況にあるので、私は変わり者です。
予めどちらにするかを表明するのはとてもめずらしい行為で、奇特と思われる方もおられるかと思いますが、私は自分の作品を詳細に説明します。そして、そのような状況が問題だと思うので改善されるように声を上げるとともに、構図を組み立てる組み立て方と組み立てない時の考え方を詳細に、誰でも楽に描けるようにするために話そうと思います。

今、既得権益を持つ権力者はこのような話を表に出さないようにしてビジネスモデルを守ろうとします。絵画の知識があることに対する希少性を失わないようにしています。このような背景の問題が実は画面構成を詳細に語るという行為の裏にあるのです。私が詳細に話してしまうことでこれが広まれば希少価値はなくなります。絵画の歴史の中でこの数十年は大きな変革や発見はありません。でも、絵画はこのまま新しい発見もなく終息してしまうのではなく誰もが描けるようになることによって新たな時代が切り開かれます。今はそのような時代の転換期に来ているような気がします。

厳密に組み立てるかどうか?先生や画家という立場にある人でもその2つを対比して語らなければならない事情は把握していない人が多いです。彼らが把握していないのはお互いが相手を認めないからで、そもそもどちらが正しいという闘争をしてしまい、自分が正しくて相手が間違っているわけだから相手は絵画でもアートでもなく、無い存在ということに感覚的にしてしまっている。彼らにとって絵画とは自分たちのことをいうのであり、自分たちではない人たちは存在していないのです。

やれやれです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?