貧困ぬけ〜貧困層を抜けた話〜vol,11「長年絵の指導をする時にやらないようにしていることがあります。 それは生徒にマウンティングしないようにすることです。 そして、生徒を冷やかさないこと。 生徒を立て主役にさせることです」
40年も昔の話です。
私は小学校に入る1年ほど前、なぬかいちから引っ越し岡山市に住んでいました。
なぬかいちでは大家さんに預けられ同じくらいの年の子供とそう触れる機会もなく、やっと保育園に通えるようになりました。当時の私は保育園と言う所が何かわからず、人馴れしていない私は放り込まれるように保育園に入園させられました。
岡山市では藤井ビルに住んでいて、保育園は蓮昌寺保育園と言いました。
2年前。
私が45歳の2月。経営する美術予備校の私大対策がひと段落した合間に。広島の大学に行った教え子が大学を卒業する前に一度会いに行こうと思い、粉雪が降る真夜中、愛車のAMGの屋根を開けて、かっ飛ばして埼玉から広島まで行きました。
その時期、真夜中の高速では他に走っている車は運搬用のトラックだけで、トラックの皆さんはよくわかっているようで私が近づくと皆さーと列をなして道を譲ってくれました。
岡山、広島に住んでいたのは小学校2年生の1学期までです。
40年ぶりにようやく岡山に戻ることができました。
なぬかいちの後住んでいた藤井ビルは住所がわからないのでネットで検索しました。ですが何の手がかりも得られず。通っていた深底小学校も同様で見つけることは叶いませんでした。
親が働いていた建物は当時いづみというデパートで古い果物屋のおじさんに聞いたら案の定知っていて教えてもらえたので行くことができました。もともと親が働いていた店のある5階は全てニトリになっていました。
蓮昌寺保育園はナビで検索したら出てきました。
保育園を見た時さすがだと思いました。
お寺だけあって私が通っていた時と何1つ変わっていません。
岡山に東京芸大の同級生がいたのでサプライズで、働いているおしゃれなカフェにひょっこり顔を出したら15年会っていない東京にいるはずの奴が突然岡山で目の前にいるので腰を抜かしそうなほど驚いていました。
幼少期の私の口癖は「わからん」
今も当時のことはよく「わからん」です。
私が幼少期になぜ「わからん」が口癖だったかというと、本当に「わからん」からです。
ただ、「わからん」には色んな意味があります。
大人から教えてもらっていないわからん。
会話の返し方を教わっていないからわからん。
余計なことを言わないように止められているので苦し紛れのわからん。
言うとキレられるのがわかっているので言わないようにしているわからん。
言っても会話が成立しないので言っても仕方がないわからん。
などです。
なんとも便利な「わからん」です。
私の両親はコミュ障でした。
はっきり言って会話が成立しない。
何を言っているかもわからないし、人の話も誤解して受け止めている。
極め付けはその夫婦なので殺し合い寸前の喧嘩にすぐになる。
荒れ狂う2名を前に子供らしく伸び伸び生きて、子供らしい朗らかで天真爛漫な振る舞いなど、できようはずはなく、絶えず恐怖に恐れおののきながら、絶えず両方にマウントを取られている状態で、何を聞かれても差し支えない「わからん」で逃げていました。
当時、本当に天真爛漫にできる時がなかった。
それでも、当時は私の人生の中で最も幸せな時間でした。
あの当時一番大きかったのは父親の収入が安定しているので、わけのわからない両親でも、食べていくことができる安心感はありました。
それがどれだけ幸せなことだったか。
岡山に出た後、貧困に苦しむようになります。
いまだに当時のような安堵感が得られないでいます。
無意味なマウントを取られっぱなしなので、自由に伸び伸びと言った時間は全くありませんでした。それでも幸福感がありました。
私が育った頃はまだまだ厳しい親や先生が多く、親や先生がマウントを取ることは当たり前でした。
子供や生徒に自分の意見などなく、如何に静かに言うことを聞くかが良い子には重要なことでした。
なので、大人しくさえしていれば少々頭が悪くても、頭のいいやつよりも良い立場でいられる。そんな不思議な逆転もできる。そんな時代でした。いや今でもか。そのため我が家の方針は兎に角出しゃばらず、先生と親の言うことは絶対に聞くこと。そのように躾けられる為に、よく激昂され、殴られ、そのような暴力が根底にあるのでニコニコしながらも、絶対服従の抑鬱された毎日を送っていました。
私は今、美術予備校を経営しています。
私が長年絵の指導をする時にやらないようにしていることがあります。
それは生徒にマウンティングしないようにすることです。
そして、生徒を冷やかさないこと。
生徒を立て主役にさせることです。
アーティストは大まかに2通りのタイプがあります。
歴史に残る技芸などの型を忠実に受け継ぎ守るタイプ。このタイプは先生に指導されたことを忠実に覚えてできることが大切です。
もう1つは、歴史にない技芸などの型を創造し、新たな道を切り開くタイプ。このタイプを育てる必要があるので、先程のマウントと冷やかしをしないように細心の注意を払っています。
そして生徒が、自らを主体として、1つひとつの物事と向かい合えるように、十中八九控えめな生徒を、一度立ち止まらせて、自分を仕事の世界をよく頭に思い浮かべ、その世界の中心に自分を置き直して、自分を軸において世界を見るようにさせています。
具体的に言えば私は最初お題(課題)を出しません。
最初はしばらくずっと世界(色んな物事)を観る力に気づかせるようにしています。
そして、私は、皆の作品を並べて批評する講評を殆どしません。
それによって見えてくる世界があるのです。
それで十分に結果が出ます。
私は美術に限らず日本の教育全般の質はこれから変わると考えています。
これまでのやらせる。覚えさせるという受け身でインプットの教育。
それから〜
主体的に考えさせるという能動的なアウトプットの教育に変わると考えています。
我々世代(私は昭和47年生です)は半数以上は労働力として働いています。
その為のやらせる。
指示を忠実に実行させるには指示をしっかりと覚え、忠実に実行する人間として教育し育てる必要があります。それによって我々世代の多くが寡黙な労働者に育ち、社会は大きく発展してきたのではないかと考えています。その一方で低所得者層から抜ける術を知らない労働者も多く生まれました。言われた通りにやって生活が保証され続けるのであれば何の問題もありませんが、私たち世代の老後を考えるとそんなわけにはいかないと思います。
我々世代が教育を受けた頃学校では、先生は自分で考えさせたり、発言させたりはさせません。兎に角耐え凌ぐ人間を教育して作っていたと思います。
その為に、これまでの先生は生徒たちを兎に角厳しく指導し、言うことを聞かせ、教えたことを1つでも多く覚えさせる。多くの先生が生徒をマウントし、職場でも上の者が下の者をマウントすることが常識だったと思います。
でも、これからは変わります。
多くの方が時代の節目を感じていることと思います。
私は生徒に主体的に考えさせる能動的なアウトプットの教育を実践する為にマウントしたり、冷やかしたりしないように心がけています。
たまに生徒にマウンティングしてしまう先生がいますが、私はダメな先生だな〜と思います。そして正直申しまして、私はそのような先生が大っ嫌いです。
それでそういう先生にたいした人が今までに1人もいないことが余計に嫌いにさせています。
本当に素晴らしい先生、つまり、本当に勤勉で、指導力があり、能力がある先生は生徒にマウントなど取る必要がありません。とても謙虚です。
私の通った東京芸大やその他の大学、これまでに出会った著名人の方々の全てがとても謙虚でした。
つまり、マウントを取れてしまう先生はおそらく本当に凄い人に触れたことがないのだろうと思います。
そして生徒を主体的に育てようとする気がない。
育てる気がないか、猟奇的か?支配欲が強いか?まあ、考えても良い所はありません。
生徒が誤りを犯してしまえば、厳しく指導する場合やその場を制するというのは話が別です・・。
生徒に意味なくマウントする時の目的は何でしょう?
先生は可愛がりのようなことを言うでしょうね。
可愛がりについてはVol.8の東須磨小学校の愚かな女帝のケースでお話しました。
女帝のようなこの行為は同僚、後輩、生徒を奴隷にしたにすぎません。
その為これは断じて教育ではない。
生徒は先生よりも立場が弱い存在です。その弱い生徒にさらにマウントすることにより、気持ちが高揚し、いい気持ちになりたいのです。
又、学校内での出世欲や保身‥パワーバランスを保つための見せしめでもあると思います。重ね重ね言いますが私はそう言う先生が大っ嫌いです。
私の予備校の絵画教室では兄弟で受講することをなるべく避けるようにしています。
何故ならば兄弟ではどうしても冷やかし合いになるからです。
そうすると大体上の子の方が強いので、下の子は冷やかされてしまい、手、気持ち、頭、感覚など全てが強張り、萎縮して力が出せなくなります。
上の子にとっては良いですが、下の子が犠牲になることがどうしても放っておけません。
下の子が冷やかしで萎縮すれば、自分を世界の真ん中に置くのではなく、上の子の言うことを兎に角聞き逃さないようにし、冷やかされて傷ついているので次に何を言われるか耳がダンボになり、制作どころではありません。完全に上の子に喰われてしまったので下の子の世界は上の子を世界の中心軸に置いてしまっています。
つまり、下の子は上の子がいなければ普通に伸びますが、上の子の冷やかしの為に全く伸びなくなります。下の子も、上の子も本当に伸ばそうと思えば、兄弟はバラバラに受講させなければなりません。
私が講評をしないのも、このような心理的状態に陥ることを避ける意味もあります。
でも、実際そのようにバラバラにさせるのは難しいのでそうすると両方とも送迎の都合で来なくなってしまいます。
売り上げも減るし、苦渋の決断ですが、どう見ても下の子が育たないので絵画教室では絶対にバラバラにしています。
教えていることが全く生きず、無駄になることは私としてはどうしても気持ちが許せません。
それと、下の子が萎縮することは絵に限らず、他の物事全般に現れています。それに親御さんに気づいて頂くためのキャンペーンをしているつもりでもいます。
兄弟を抱える親御さんにはご迷惑をお掛けしますが、絵画教室では兄弟は別に受講して頂きます。
冷やかしをなくすためのキャンペーンの為に我が家の残念な話をしましょう。
私の父は支配欲の塊でした。
父は生涯時給千円程度の社会的弱者です。
職場や外では弱い立場です。唯一家庭で私に対しては番長でいれた。
その為、私に対するマウントは酷かった。
彼にとって私は慰み者になればそれでいいのです。40過ぎまで反抗期は一度もなく。一度もないのは私が耐え忍んでいたからですが、毎日愚かな「可愛がり」の責め苦に耐えて生きていました。
その為、「可愛がり」が如何に教育上良くないか‥
私はそれを体で理解しています。
彼の「可愛がり」の1つをご紹介しましょう。
彼は歌を歌うのが趣味でした。
私をたまにスナックに連れて行きます。
そこで、自分は歌が上手いということを散々聞かされます。
実際、全然上手くはありませんが、自分では上手いと思っています。
問題は下手でも気持ちよく歌えるかどうかです。
父は私と歌を歌う時は、私に歌う前に散々「歌下手やの〜」とか「お前は歌はあんまり得意じゃないな〜」とか何度も呪文のように連呼します。そうするとだんだん体が萎縮し、喉が閉まります。歌は喉を開くことが大切です。しっかりと開いてから歌うこと。歌っているうちに喉が開いていくものです。その逆で、「歌下手だよね〜」と連呼していけば喉はだんだん細くしまり、全く声が出なくなるまで細く締まります。知らなければ歌おうとしても声が出ないので、「あ、あれ?」「おかしいな?」という具合になります。飛んだ赤っ恥をかいて、それをみて父はその姿を嘲笑い、自分を褒め称え、恍惚感に浸ります。
母はよく父のことを「自分が可愛い」と表現していました。
まさしくその通りの人です。
まあ、そのようなくだらない冷やかしを毎日受けて育ちました。
その為、「頭が悪い」「モテない」「才能がない」「運動神経が悪い」など
自分が冷やかされたロジックを振り返れば、生徒に投げかけてはならない言葉は良くわかります。中卒のエセ教育者の父が反面教師として良く役に立っています。
その為「キモい」「デブ」「頭が悪い」「モテない」などの言葉は惨めにならない範囲で自分に向けて言うようにしています。
続く
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