
こころの素粒子をさがして
――ちいさな存在感覚の心理学
第二話: 小さなものと“隙間”と不可視化
~話はんぶん/まえ半分~ 〔S. Kaneko〕
この数年、小さなものによく目を奪われている。
道端の石や砂、ちぎれた落ち葉、花びら、潰れたどんぐり、ヤモリの子ども、小蝿、米粒。不思議なもので、5,6mmやそれ以上のものは道端でよく見つかるのだが、2,3mmほどのものになるとあまり見つからない。どこに行っているのだろう。
建物や乗物のなかに居るときに“いちばん小さいもの”を探そうとすると、大抵の場合は「ネジ」になる。頭の平らなものと丸いもの、錆びている鉄ネジもステンレスもある、珍しいものだとプラスでもマイナスでもないもの、回転させられないビスもときどきある。そんなさまざまな種類も面白いと思うが、そうしているうちにいつの間にか惹きつけられているのは、ネジが取れてしまったあとの「穴」である。ここのネジはどこに行ってしまったのだろうか? いや、それよりも、ネジが取れてしまったことでできた穴や、ネジが留めていた部品が浮いた少しの隙間が気になる。
そもそもなぜ“小さなもの”が気になっているのか。
ひとつは“大きなもの”に飽き飽きしてきたからだ。物体に意味を持たせるためには、ある程度の大きさや多さが必要だ。宝石にしても、指輪やネックレスに使えるほどの大きさが必要で、だから価値がある。ご飯粒も、たくさん集めるから一膳になり、おにぎりになる。紙も、一定の大きさになってやっと書類や本になる。小さくなれば砂埃になり、汚れになり、紙くずになる。大きなゴミもあるにはあるが、とにかく小さくなればなるほど、ほとんどゴミか汚れで確定なのだ。
意味があること、価値があること、効率や効果が上がること。拡張し、発展し、成長すること。それを常に求めようとする人間は、どうしても、小さなものよりも大きなものに心を奪われる。仮に小さなものに注目をしたとしても、この小さな部品に「大切な意味があるのだ」とか、小さな細胞には「驚くべき機能があるのだ」とか、そのようなことで結局は、大きな意味や価値があるものしか陽の目をみない。もしくは、例えばマイクロプラスティックやPM(Particulate Matter; 粒子状物質)などのように、環境や人体に大きな害を及ぼすものしか注目されない。そうして「何かしらの意味で大きなもの」にばかりに目を留めていく生活になっているのだ。“有用でも有害でもない”小さな塵やゴミは、見向きもされない。
数mmしかない“小さなもの”は容易に無価値化され、不可視化される。
道端を歩いていても目につかない千切れた木の葉、潰れて粉になった銀杏の実やどんぐり、砂は、おそらく風に吹かれて飛んでいったり、雨に流されて溝に流されたりする。そうして本当に小さなものは不可視化されていく。「意図的な隙間」である側溝に流されたり、「不意図的な隙間」であるアスファルトの亀裂などにおさまったりしていく。
小さなものの発生と“隙間”への侵入、そして不可視化は、あらゆるところで起こっている。物質だけのことではなく、心のなかでも起こっていると考えてもいい気がする。大きな社会的な価値が認められる活動の片隅で、小さな気持ちも生じていく。しかしその小さな気持ちは、すぐに、あるいはある程度の時間が経つと、流されていき、ついには不可視化されてしまう。これが可視化され、言語化され、商品化され、活用され、消費されていく産業の隙間で起こっている“心のなかの小さな現象”である。
(うしろ半分につづく)

~ こだちのアテンド室より ~
銀杏の葉に目を奪われませんでした?
ちょっと意味合いは異なるかもしれませんが…
《木を見て森を見ず》
「細かな部分(木)に心を奪われて、全体(森)を見通せない、
見失ってしまう」ということわざですが
その逆
《森を見て木を見ず》って言葉が何気に浮かびました。
全体や大きなモノごとばかりに気を取られて
小さな存在や、消そうな本質部分を無かったことにしてはいないかと…
みんなが注目する大きなニュースの陰で
影響を受けにくい小さなニュースが伝えられる。
そんな感じでしょうか。
《木を見て、森も見る》
そんな器用に生きるのは難しいかもしれませんが
時々スイッチを入れ替えると新鮮な気づきが得られそうです。