"等身大"の話
等身大の私を見て欲しいとかいう話ではなくて、自分をフラットに見ることによる安定感と安心感について。今モヤモヤしているからこそ残しておこうかなと思います。
私は私の両親のもとに産まれることが出来て幸運でもあり、不幸でもあったなと常日頃から思っています。芯のしっかりした教育方針はよくもまぁそこまで貫けたね、と感嘆に値するところもあれば、そこは子供の言うこと聞いてくれても良かったんじゃないの?疑念を持つところもあります。
良かったなと思う一つの教育方針が「あなたは中心人物でもなんでもないんだからね」というものでした。人生のピークが間違いなく幼稚園時代だった私に耳にタコができる頻度で繰り返し諭されました。幼稚園児にこれを言うのもどうなの、と思わないでもないですが、多分危うさを感じるくらい飛び出ていたのだと思います。
幼稚園生の飛び出しになんて本当に大したことのないことです。ぶらんこを器用にこげるとか、一輪車に乗れるとか、二重飛びができるとか、足が速いとか。加えて公文にも通っていたので先取りで学習していたこともあり、英語も読めるとか、そんな些細な事。
でも田舎では、これくらいで突出した存在になりえてしまう。すごい、すごいと褒められて、性格に難ありだったら差引ゼロといったところですが、幸か不幸か幼稚園生の私は性格もめちゃくちゃ良かったんです(うっすら覚えていることもあれば、伝説級に未だに地元の人に言われることもある。その話を信じる限り、確かに怖いくらいに良いやつ)。
それを細かく感じ取って、理解できるか出来ないかに限らず言い続けた両親は凄いと思います。
「わたしが、わたしがってなんでも言ってはいけません」
「〇〇ちゃんが話しているのに話を取ったらだめでしょう?」
と、幼稚園生にはハードル高すぎですね、改めて書くと。
でも、その教育があったから、突出した存在からだんだんと”まぁこの町ではそこそこデキる奴”に格が下がった後でも、過去の自分に嫉妬することなく、「まぁそもそも自分はこんなもんだよな」と思える私になれたとそう思っています。他者から褒められても大体のことを「そういう社交辞令」として捉えるようになっていたおかげで、自分が特別だなんて感情をほぼほぼ抱くこともなく、今に至っています。
常に私は今ここに存在している等身大の自分を認めてあげることから出発してきました。高校入学した時も、浪人した時も、大学に落ちて最初で最後の挫折を味わった時も、院に進学した時も。社会人になった時も、もちろん今もです。私は大した人間ではないし、大きな存在になりたいとも思わない、等身大の自分を自分んが好きでいれる範囲で成長したり、後退したりを繰り返しながら、自分が満足できる生活をできればそれで良いや、と。
そういう風に「考えよう」と頑張っているのではなくて、「そう」なんですよね。この安定感はすさまじいなと感じます。自分の理想というものが等身大とほぼイコールなので、ギャップに苦しむことも、ストレスに感じることもありません。もちろん社会生活を営むなかで他人との関わりは避けることができないので、その過程でストレスを感じることはありますが、それも閾値を超えたら「まぁ、この人は別に私の人生に特段の影響及ぼさないしな」と気にしないモードに入れば問題ありません。
ある意味、自己と他者をはっきり分けて、分けたうえで他者との距離も大きくしているのでしょう。友達と呼べる存在は数人しかいませんが、それに対して悲壮感もなければ、逆につながりを大切にしてたくさん友達を抱える人に対して何ら負の感情を抱くこともありません。
私が私らしく等身大に、安定して安心して生きていくうえで、私は最高にぴったりな思考回路を持っているなと自画自賛してしまうくらいです。
その完全に調和のとれていた世界を揺るがしたのが企業での就業という体験でした。「もっと出来る」という言葉の刃が喉元に固定されている感覚。もっとは出来ないんですね、やれるギリギリの範囲は常にやっているわけですし、それで組織からの要求にも応えているわけですし、その環境下で、なぜもっとやらないといけないのかが分からない、そんな時期が長く続きました。
自分の下にくる部下が優秀だと決めつけている上司の感覚が理解できず、私の成長を勝手に決めつけてくる同僚のことも理解できず、そこまで何でもやることを求めるなら、新卒採用なんてしないでキャリア採用をしていくべきではないか?と戸惑いに戸惑いました。
私は自分を過小評価しているつもりは微塵もないのですが、どうもそういう性格だと思われてしまっているようなんですね。そのすれ違いを何度も解消しようと試みたのですが叶わず。そうなれば私の思考は「まぁどうでもいいか。殺されるわけではないしな」となってしまうわけです。(極端かな?自分でも若干冷め癖がついているのは良くないなと思っています)
でも今となってはですけど、押し込めていたモヤモヤが段々と積み重なって「転職も考えようかなぁ」となっているんですよね。今回の転職活動がどういった結実になるかは今のところ完全に不透明ですが、仮に今の職場を去るということになれば青天の霹靂になってしまう先輩方には申し訳ない。来年とか再来年の話をされても、今は「その時はさすがに私もういないだろうな」と思ってしまいます、それもなんだか健全ではないよなと。
”等身大”は自分にとって抜群の安定感と安心感をもたらしてきたのに、評価されるのが怖いという側面もあるということを社会人になって学びました。そしておそらく、組織に属する以上はこの恐怖から逃れるのは難しいということも。
そろそろ年度末を迎えるタイミング。数か月後、私はどこにいるのかな。等身大でいれる場所を見つけられるといいのだけれど。
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