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恐れや不安、悲しみと共に生きる仕事
医師になって、1年と5ヶ月。
私はとある総合病院の2年目の研修医である。
医師国家試験に合格すると、最初の2年間は「初期研修」という、勤務にしてトレーニングの期間に入る。
病院のプログラムによって様々だが、大抵1ヶ月毎に診療科を渡り歩く生活になる。
一般の会社で言うと、毎月部署移動するようなものだろうか?
慣れてきた矢先にまた新しい環境になり、人間関係の再構築やまた仕事の覚え直し、というのは間違いなくストレスフルな環境に違いない。
医療従事者として診療にあたる側面、
社会人として労働するという側面、
常に学び続ける学習者としての側面。
医師は皆、最低でも3足の草鞋を履いている。
そして研修医は、3足の草鞋で1ヶ月毎に異なる部署を渡り歩く。タイトロープ。
ところで、”What Doctors Feel"(邦題「医師の感情」)という、ある米国内科医によるルポタージュが米国で好評を博した。
帯には「こんなにも『感情』をゆさぶられる職業が、他にあるだろうか?」とのキャッチコピー。医師になったばかりの私に刺さる。
この本について語るのには多くの時間を要するが、今回は特に私が印象に残っている言葉を抜粋する。
医師として生きていくということは恐れと共に生きていくということであり、恐れはその生活の一部となるのだ。
(中略)
この不安と恐怖というものは、度を越さなければ、他人のケアにあたるうえで欠かせない畏敬の念と緊張感を保つ役割を果たしてくれる。私達医師は不安や恐怖をきちんとしまいこんでおかなくてはならないが、その感情を殺してしまってはいけないのだ。
「医師の感情 p 162-p163」
患者に害を与えることへの恐れ。
自分が能力不足ではないのではないかという恐れ。
医療は不確実性を伴い、いつも緊張の連続だ。
私自身、コロナの患者を診療して自分がコロナに罹るよりも、自分の些細なミスが誰かの死を招いてしまうことの方がよっぽど怖い。
研修医ともなると、いつだって自分の診療行為が適切なのか、私は毎回不安である。
でもその恐れや不安があるからこそ、細心の注意を払って医療に向き合うことができる。「もっと頑張らなければ」と、前に進み続ける強い原動力になる。
医師として献身的に、やるべきことをやる能力を失うことなく、いかに悲しみに共感できるか、というのは間違いなく今後解決すべき問題である。
(中略)
悲しみのつらさは実は次の患者へと向かうための動機、力になりえるのだ。
「医師の感情 p209」
医療現場ほど日常的に「死」と向き合う環境はないだろう。
一人一人にとって唯一無二の死は、医療者にとっては日常で経験する多数の中の一つ。
しかし、悲しみという感情は人間らしさに不可欠だ。
悲しみを進んで求めることはしないが、生じてしまった悲しみは内省を促し、さらに自己の知識や技術に磨きをかける強いモチベーションに変えることができる。
人生において逆境を乗り越える時のように。
あなたは頭と同じくらい、心を使うことになる。
ウィリアム・オスラー
ただでさえストレスフルな環境下で、恐れや不安、悲しみと共に生きていくことは、正直、とても辛い。
飲み込まれたら、自分が壊れかねない。
実際、私は一度壊れた。
でも、再び戻ってこれた。
恐れや不安、そして悲しみを、心の中でバランスをとり、前に進み続ける糧にできたら。
それは人としても、大きく成長させてくれるはずだ。
自分の一日一日の成長が、誰かを救うことに直結する。
こんなにやりがいのある仕事、他にはない。