待ち望む力: ブロッホ、スピノザ、ヴェイユ、アーレント、マルクスが語る希望
昨今の国会中継を見ても、大阪の都構想の投票も見てもアメリカの大統領選挙を見ても政治において夢を語れなくなってきているのではと少し寂しく思う。
どのような社会にしたいのかという大きな理念のところを踏まえての議論が余りない。希望がないのかも知れない。希望は変えたいという強い意志であり、漠然とした夢や望みではない。考えることもしてないと思う。
考えるとは踏み越えることである。新しいものを把握することである。(ブロッホ)
未来は現実の把握することで見えてくるのではないだろうか。未来への可能性がありそれを見つけることが希望だと言う。未来への可能性と現実との差を感じること、これが希望となる。
先取りする理想は、その時代に於いては表現しづらいものである。当然時代は追いついていない。こと藝術や哲学を考えれば分かりやすい。但し時代は必ず追いついて新しい先取りにおきかわるものである。
希望は永遠である。
では、この社会は希望を叶えることができるのでしょうか。
社会は特に欧州の中世以降は「魔術からの解放」があり、更にフランス革命などを通して自由を手に入れた。神によって未来が決められていたものが科学の発展や自由の可能性で未来を選択できるようになった。
未来の選択も社会というよりは個人の方に重きがおかれ、個人の物的なものばかりに注目が集まっている。
社会と個人という関係は非常に難しい。封建的な世界では個人の自由に大きな制限があった。今日の自由主義的な社会では自由を手にいれたかわりに自己責任というものがついて回ることになった。この個人の自由を認めるということは、社会にとっては平等と言う概念が全員に行き渡っていないと機能しないであろう。
現代社会は格差社会とも言われている。確かに格差が存在している。経済成長が続けば個々人の富の分配は増えるであろう。成長が止まると富は取り合いになることも想定される。
そんな社会と個人との関わりを初期のハンナアーレントは、「隣人愛」で解決の糸口を見つけ出そうとする。
個人が置かれている社会について考えることが大切であることを思い知らされた。