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カンデンスキーの抽象芸術論(2)一般論

②運動
この章では、精神の三角形が登場する。これは精神生活を適切に図式的に表したものであるという。
三角形は最も尖った部分が上に頂点とする鋭角三角形である。最頂点部分が今日であり、それに接する次の部分が明日となる。今日明日というのは、聖書の天地創造の日のことであり、最頂点部にしか理解できないものが、明日の頂点部に次ぐ部分の生活の思想感情が豊かな内容になってくるという。三角形の辺は長くなり、面積も次第に大きくなる。そして、この三角形は前へ、また上へと動き運動するという。
 この三角形のあらゆる部分に芸術家がいる。上位の芸術家は下位の芸術家に精神の糧となるパンを与えたり、下位の芸術家がパンを求めて手を差し伸べる。真に精神の糧となるパンが欠けていると精神界における頽廃の時代になるという。
こうした時代に、低俗な生活に力を貸す芸術は、もっぱら物質的な目的のためのみに用いられる。芸術の対象が物質的なもののみの再現となりそれが唯一の目標となってしまう。芸術における「何を」という問いはなくなり、「如何に」再現するかに陥る。こうなるとこれが芸術家の信条となってしまい芸術における精神性が失われてしまうのである。
 そこでカンデンスキーは、この章の最後で次のように述べて、芸術家の心情の力に期待するのである。

さらにすすんで芸術家の心情の力が、この「如何に」という問題を括弧に入れてしまい、その微妙な体験を自由に表現ができるようになれば、すでに芸術は、自分がかつて見失ったあの「何を」間違えなく見つけだす、その道の入口に立っているのだ。この「何を」こそ、現にはじまりつつある精神のめざめに必要な、あの精神のパンとなるものなのだ。このような「何を」は、過去の時代の、あの物質的、形象的な「何を」ではなく、芸術的な内容、すなわち、個人とか民族のばあいと同様に、それなくしてはその肉体(「如何に」)も決して健全な生活をいとなみえない、芸術の魂であろう。
このような何をは、芸術のみが包蔵しうる内容であり、そして芸術のみがみずからに固有の手段により、明瞭に表現しうる内容である。
カンデンスキー 
「抽象芸術論」西田秀穂訳


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