見出し画像

自分の怒りについてなるべく言語化しようとしてみたけど、う~ん、なんか、なんかグチャグチャだ。言語化難しい。

最近、久しぶりに自分の感じているモヤモヤ・イライラを人にぶつけた。本当に久しぶりな気がする。ありがたいことに、なんというか、相手に大人の対応をしてもらった。

生きている中で本気で怒りをぶつけた人は数少ない。

それは自分の考え方の根底に「人はわかりあえなくて当然」というものがあるからじゃないかなと思う。自分にはわからない感性が、他人にはある。

例えば、あなたがVtuberだとする。お世辞にも上手とは言えないファンアートを貰った。どう感じる?
ここでは①「嬉しい」②「嬉しくない」の2択とする。

私の場合は①「嬉しい」だ。しかし、中には②「嬉しくない」を選択する人だっている。実際に私はTwitterで見かけた。その人は全く知らない人だった。普段からよく絵を描いているようだった。その人はVtuberにとって下手なファンアートは②「嬉しくない」と思うどころか『迷惑だ』とさえ考えているようだった。(私の絵なんて貰っても迷惑だろう…とかじゃなくてもっと過激的な感じ)

ここで私が言いたいのは①が正しいとか、②が間違っているとか、どっちが多数派でどっちが少数派とか、そういう話ではない。

自分にはわからない感性が、他人にはあるということだ。

だからこそ私は自分の感じているイライラをむやみやたらに誰かに伝えることはあまりしたくない。自分のイライラを適当に伝えたところで、相手が理解してくれるか、共感してくれるかは別問題であり、更には相手との関係が悪化する場合がある。

その結果出来上がったのが紅茶という人間。
なんか常にヘラヘラしていて、よくわからない人間。口癖は「へえ~そうなんだ」「なるほどね?」

しかし、私も人間である。イライラが高まると我慢できないようになる。そうしたときにどうなるのか。爆発する。
「もうこれで終わってもいい、だから、ありったけを」と言わんばかりの勢いでその怒りを発散する。


私が本音や怒りを本気でぶつけるとき、それは「コイツとの縁が切れて周りに迷惑が掛かったとしても構わない、全てを捨てる覚悟だ」となるときだ。

言語化すると我ながらなんとも酷い、ただの暴走じゃないか。でも怒りってそういうものか。

ここでも「わかりあえなくて当然」という考え方が出てくる。

「喧嘩した私とお前はわかりあう必要なんてないだろ?だって、互いに譲れなかった結果がこの喧嘩なのだから。」となるのだ。人間関係において分かり合おうとしてないの、致命的かもしれない。

※厳密にはわかり合おうとしていない訳ではない。
相手が私とは違った意見を考えた理由や経験を聞いたうえで、そうか、そう感じるんだね、
でも私はそれを聞いたうえでも自分の意見になるよ、となった場合に喧嘩が始まる。

仮にその喧嘩で相手が折れて謝ったらどうなるのか。恐らく「表面上は」解決する。というのも、私は謝罪をあまり信用していない。だって、お互い分かり合えなくて本気の衝突が始まったのに、急に謝罪?なぜ?となる。お前はお前の意見を信じている。私は私の意見を信じている。それで終わり、でいいのだ。だからもし考え方が変わったなら、謝罪で終わりではなく、ぜひじっくりと話し合いたい。

あと、昔から「ごめんなさいをされたら許してあげよう」みたいな風潮があるだろう。あれが嫌いだ。許すかどうか、決めるのは謝罪をされた側にある。かなり話が脱線してきた気もする。


うーん、なんだか随分ぐちゃぐちゃと書いてきたが多分、自分が怒りを限界まで我慢する性格のため「本気で嫌われる覚悟もない奴が、突発的な怒りや感情の高まりで、怒りをぶつけるなよ」と感じてしまうのだと思う。ただし、自分にもきっとそういう一面があるはずだ。日記やツイートで分かる通り自分は適当な人間である。感情に任せた適当な発言をしすぎないように、己に言い聞かせていきたいと思う。ただそういった喧嘩を乗り越えた先に心許せる信頼関係の構築があるとも思うので、自分の気持ちやイライラの伝え方を上手にしていきたいとも考える。というのが本日の日記の結論である。
(綺麗に着地できた?)

本日のギャグ
彼は起こると口をあんぐりーとさせる。アングリーだけに!ハッハッハ!

えー、毎度、ギャグは必要なのか?と思います。本文を書いている時間とギャグを考える時間が同じぐらい比率があります。何も思い浮かばないんだもん・・・

いいなと思ったら応援しよう!