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京都の洋画 ―京都で描く・京都を描く― /京都市学校歴史博物館

 古都・京都はけっして保守的ではなく、先駆的な面が昔から多々みられたのだ——そういったことが、よくいわれる。
 その証として、琵琶湖疏水の画期性であったり、日本初の電車・京都市電であったりがしばしば引き合いに出されるが、学校制度もまたそのひとつといえよう。
 こんにち全国でみられる学区制の小学校は、京都が発祥。京都市中心部に「番組小学校」と呼ばれる地域の小学校65校が開校したのは明治2年(1869)で、新政府の学制施行に3年以上も先立つ。
 番組小学校は番組という町内組織が前提になっており、町会所も兼ねていた。教育の場にして、地域のコミュニティの中心地には、それにふさわしい絵が掛けられた。

 番組小のひとつ・開智小学校の旧校舎を利用した京都市学校歴史博物館には、番組小に伝えられた古い教育資料や、OB・OGの美術家から寄贈された作品が移管・所蔵されている。そのなかから、洋画に絞って取り上げた特別展示を拝見してきた。

リーフレット表面

 明治39年、浅井忠によって設立された京都・岡崎の関西美術院は、安井曾太郎、梅原龍三郎、須田国太郎、向井潤吉らを輩出した洋画の名門。番組小に所蔵されていた洋画は、関西美術院で学び、あるいは教鞭を取った洋画家たちの作品が多くを占めている。
 いま名前を挙げた安井、梅原、須田、向井はともに京都市中の生まれで、番組小の出身者。彼らは番組小にこぞって作品を寄贈している。
 安井曾太郎《カーネーション》(大正元年=下のリーフレット裏面・中央)は生祥小の開校50周年を記念し、OBの作者から寄贈された作品。梅原龍三郎《松とベスビオ》(昭和15年)は、作者が母校・格致小の同窓会50周年と紀元2600年を記念して寄贈したとのことだった。
 須田国太郎《柘榴図》(リーフレット裏面・右)は西陣小の旧蔵だが、須田自身は日新校の出身。なにか縁があって、制作・寄贈の運びとなったのだろう。
 向井潤吉の作品は2点。いずれも母校・豊園小に贈った絵であった。

リーフレット裏面

 飾られていた場所について、言及される作品もあった。伊藤快彦《海》(元修德小=リーフレット裏面・上)や須田《柘榴図》は校長室に、太田喜二郎《麦秋》(大正3年=リーフレット裏面・中段左)と《日清戦争黄海々戦図》(昭和9年)は桃園小の応接室に、向井《海》は豊園小の講堂に飾られていたという。その情景を思い浮かべると、絵がまた違って、よりいきいきと目に映るのであった。
 掛けっぱなしになっていたと思われる、傷みの目立つ絵も。リーフレット表面に載る寺松国太郎《比叡図》(昭和6年)もそのひとつだ。向井《海》(昭和15年)には、のちに作者みずからが絵の修復をしてあげたというエピソードがともなう。《比叡図》《海》とも、大画面ゆえに掛けっぱなしになってしまったのだろう。
 現役で学校に飾りだされており、本展のために借用されてきた絵もあった。寺松《赤富士》の額のガラス面には、ラミネート加工でシールが貼られていた。シールいわく、昭和11年に、校舎の新築を記念して寄贈された作とのこと。学校に戻れば、備品扱いなのだな……

 訓示や寓意のような教育的なモチーフの絵が、もっとたくさんあるかと思ったが、なかったのはやや意外。風景画や静物画が多かった。
 また、展覧会名にもあるように「京都を描く」絵が多いいっぽう、金山平三《諏訪湖》(錦林小)、向井潤吉《北信濃早春》(元豊園小)、川端弥之助《琉球山原船》(元生祥小)のように、かならずしも京都や近畿圏にかぎらない風景を描くものもあった。まだ見ぬ遠くの地に想像をはたらかせるのは、子どもたちにとってよき教育となったことだろう。

 ——番組小には日本画家も作品を寄贈しているが、日本画よりも「掛けっぱなし」にしやすかったと思われる油彩画は、より身近に子どもたちと接してきた絵であるともいえよう。
 絵を描いた人、贈った人のあたたかい思いに触れられる、楽しい美術展であった。
 12月8日まで。
 

クッションみたい、ふっくらやわらかそうな石塀が目印(※硬いです)
元開智小の門が、博物館の入口
旧成徳小学校の玄関車寄が移築され、博物館の玄関となっている
にのきん。小学校といえば、やっぱりこれは欠かせない



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