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日本と東洋のやきもの:3 /京都国立博物館

承前

 尾形乾山は、野々村仁清から陶法の手ほどきを受けた。仁和寺門前のあの石碑の場所に、乾山は通いつめていたのである。
 やがて乾山は、仁和寺や仁清の御室窯からもそう遠くない鳴滝泉谷町(京都市右京区)に最初の窯を築く。この地が御所からみて北西=乾の方角にあたることが、窯の名の由来となった。
 乾山窯の跡は、法蔵寺という禅寺の敷地内にある。こちらは仁清窯の不遇ぶりとは対照的に、寺の全面的な協力により大々的な発掘調査が済んでいる。乾山顕彰・研究の総本山のような存在だ。

法蔵寺の石碑。堂本印象が揮毫している

 仁和寺から西へ、法蔵寺までは徒歩16分。登りでも傾斜はゆるいので、じゅうぶんに歩いて行ける。独立したての乾山くんと仁清先生が、窯と窯を行き来したこともあったであろう。お互いの窯焚きの煙を望むことも、できたのではないか。そんな距離感である。

 鳴滝窯の初期作と目されるのが《色絵氷裂文角皿》。
 この皿の文様はかつては《石垣文》と呼ばれ、箱書や京博の台帳もこちらになっていると思われるが、現在では明末清初の中国陶磁に由来する「氷裂文」の翻案という解釈が定着している。本展でもキャプションは「氷裂文」となっていた。
 もとになったのが氷の表面に走った亀裂だろうと、石畳を真上から見た構図だろうと、とびきりハイセンスな皿であることには違いない。お高く留まらない、ほんわかとした愛らしさもよい。すきな乾山のひとつである。

 ※同手品の5客組を、昨年の12月に東中野の東京黎明アートルームで拝見した

 鳴滝窯の末期か、次なる拠点・二条丁子屋町での制作といわれるのが、乾山のうつわに兄・光琳が絵付けをした一連の兄弟合作である。
 本展に出ていた京博の《銹絵寒山拾得図角皿》は、その代表。光琳の冴えた筆技は、紙とは勝手の異なる筆触やにじみ・かすれの具合をものともせず、小気味よいものとなっている。

 仁清の登場後、端正な薄手のボディに典雅な絵付けを施し、ときに大胆な意匠性をみせる色絵のうつわが、洛中洛外各所の窯で生み出された。それら近世の京のやきものを総称して「古清水(こきよみず)」と呼んでいる。
 幕末には、中国趣味を背景とした木米、奥田頴川、仁清や乾山をベースとした仁阿弥道八といった個性的な名工が出ている。

 本展で扱われた京のやきものはここまでであるが、仁清・乾山以降をこうして駆け足でご紹介していくなかで、ひとつ作品を選ぶとすれば、《色絵栄花物語冊子形硯箱》 であろうか。
 平積みにした和綴じの冊子を模した形状の、被蓋(かぶせぶた)の硯箱である。
 実用第一・ふだんづかいの文房具というよりは、床飾りとして違い棚にしつらえ、来客を驚かせて話題づくりをする……平たくいえば、パーティーグッズ的な仕掛けとしての使用を想定したものだろう(←平たくいいすぎ)。
 わたしもまんまと、度肝を抜かれてしまった。まず冊子の形にしようという発想がすごいし、こんなに手の込んだ仕事、ほんとまあ、よくやるものだ……
 「京(みやこ)のやきもの」京焼は、みやびやかでなよっとしているばかりではなく、ときにこうした “奇” ともいうべき驚きの立体造形を生み出す。
 京都という土地は、今も昔も油断がならない。
 (つづく



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